大正浪漫? 夫婦契約致しました ~暗闇の中、契約夫と密やかにはぐくむ愛~

佳乃こはる

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第1章

序章

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権藤宿禰――
 それは後に、私が生涯を捧げることなる方の名前。
 けれど、この時の私はまだ知らなかった。
 この名前が、私の運命をどれほど大きく揺るがし、どんなに心を掻き乱すのかを。

 *
 
 それはまるで、真っ青なお空に雷が落っこちたような出来事だった。
「ええーっ! こ、輿入れでございますか?」
「うんそう。陽毬ひまりちゃん、おめでとう」
 女学校から帰るなり、お父様の書斎に呼び出された私は、思わず大きな声を上げた。
 
「ど、どうしてまた、そんなに急に? 私、まだ女学校の途中ですのに」
「うーん、それがな」
 顔を曇らせた父は、ソファから立ちあがると、赤と青の模様が入ったモダンなガラス戸の前に佇んだ。
 
 父、両口屋三之助は実業家である。
 時は大正。富国強兵、殖産興業の時代。かつて品質の良さで名を馳せた両口屋の製糸・製布工場は、国内外から引き合いが絶えなかった。
 けれど、流行りに乗った機械化が全てを狂わせた。
 故障続きの機械に、落ちてゆく品質。残っていた職人も、昔ながらの取引先も全て去り……残されたのは借金だけという始末。
 
 そんなところに舞い込んだ婚姻話だ。
 良縁であるはずかない、という予感だけは、嫌という程確かだった。

 私は、ごくりと唾を飲み込むと、ぼんやりとして口髭をもてあそんでいる父に尋ねた。
 
「それで……そのお相手とは?」
「……権藤家だ」
 父は、目を伏せたまま続けた。
 
「成金一家の権藤家。その息子の『権藤宿禰ごんどうすくね』という男だ」
「権藤……さま?」
 あまり聞いたことのない苗字だった。
 察した父が説明する。
 
「ああ、時世に乗り、急速に力をつけてきた家で、物産会社を営んでる。宿禰は26歳で……何でも病気療養中だとか」
「成金……ご病気……」
 胸の奥が、ひやりとした。
 
「あの、このお話をお母様は?」
「無論、真紀江かあさんも承知しておるよ。ただ――」
「ただ?」

 父は先を丸くカールさせた髭をぴんと引っ張ると、あからさまに視線を逸らした。
 
「今日はその……少し調子を崩していてな、奥の部屋で寝込んでいる」
「あー……」
 
 もはや、言葉はいらなかった。
 お母様にとってこの縁談が受け入れ難いものであることは、火を見るよりも明らかだった。
 
 それでもなお、一縷の望みにすがる思いで父に尋ねる。
「あの、念のために伺いますが。このお話、お断りすることは」
「……」
 父は一度黙り込み、やがて重たい口を開いた。
 
「陽毬。儂にとってお前は、よわい四十にして授かったひとり娘だ。正直、可愛くて仕方ない。目に入れても痛くないほどだ。……しかし」
 
 父は、沈黙を一瞬だけ置いてから顔を上げた。
 その目は妙に真剣だ。
 
「赦してくれ! 両口屋家の十六代目当主として、どうしても家を潰すわけにはいかんのだ。そのためにはどうしても、権藤家の融資が必要なのだ」
「ほほう」
 
 つまり私は、家を救うための担保というわけだ。
 心底白けきった私の顔色に気が付いたのか、父は急に瞳を潤ませた。
 
「た、頼む陽毬! 両口屋家の未来を救うためと思って、この縁談を受けてくれ。どうかパパを助けてくれい!」
 
「お父様……」
 
 縋り付く父に、私はすっかり困惑してしまった。
 父は、たいそうな人誑ひとたらしだ。その上、花も恥じらい、逃げ出すほどの美丈夫イケメンで、芝居がかったその仕草さえ、妙に板についている。

 すっかり絆されてしまった私は、気付けばこくりと頷いてしまっていた。
 
 途端、父の表情はぱあっと輝く。
「陽毬……!」
 
 彼は両の手を広げると、韋駄天いだてんのごとく駆け寄って、私をぎゅっと抱きしめた。
 
「ありがとう、ありがとう。陽毬ちゃん大好き。ちゅっ。んー、ちゅっ」
「や、やめて下さいお父様! 気色悪いキモイっ、キモイですからーっ」
「陽毬ちゅわあぁ~んっ」
 
 ――本当に、この親父ときたら。
 けれど、その裏にある焦りだけは、きっと嘘じゃない。
 
 私は深呼吸をして気持ちを整えると、現実的な質問を父にぶつけた。
 
「それで、お父様。お見合い写真や釣書は? よければ私も見たいのですが」
「ん? あーっと……。ない」
「〝ない〟ですって?」
「ひっ」

 思わず蝶ネクタイを締め上げた私に、父は情けない悲鳴を上げた。

「その……何でもご子息はご病気で、とても人前に出られない姿らしくてな。……ん? どうした陽毬、大丈夫か?」
 
 ああ、神様。
 私の淡い期待は、もろくも崩れ去った。
 しかし父は、がっくりと落ちた私の肩に手を置くと、やけに明るい声を出した。
 
「まあ、そんなに気を落とすな。実は、権藤君と秘密の約束をしてきたんだ。もし陽毬が献身的に世話を尽くして、ご子息が病から回復したあかつきには――」
 
 父は顔中に笑みを浮かべて宣言した。
 
「この婚姻、なかったことにしてくれるそうだ!」
「……え?」
 
 こうして、私両口屋陽毬りょうぐちやひまりとまだ見ぬ夫、権藤宿禰ごんどうすくねは、契約婚という名のえにしに、足を踏み入れたのである。
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