亡国の殺戮皇子の悲劇

夕鈴

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本編

殺戮皇子と籠妃

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世界征服を目指す帝国。

戦神の加護を持つ皇太子エリクは皇帝の命令で今日も一つの国を滅ぼし帰国する。

真っ赤なマントをたなびかせ、全身を血で染めているエリクが向かうのは皇太子宮。

そこには決して皇太子宮から出ないヴェールで素顔を隠した籠妃がいる。



「おかえりなさい」



皇太子宮の庭に姿を見せた血まみれのエリクに籠妃ヴィオラーナは手をかざし、魔法を使って汚れを落とし駆け寄ると、エリクはヴィオラーナに手を伸ばし強く抱きしめ意識を失う。

ヴィオラーナは背中に手を回し、ゆっくりと腰を落として庭に座り夫の頭を膝に乗せ優しく髪を撫でながら青い空を眺める。





帝国の後宮には豪族出身の妃ばかり。ヴィオラーナのような戦利品としてエリクに滅ぼされ囚われた姫は少数派。奴隷に落とされ仇の皇族や臣下の慰めものになるならと命を絶つ者の多い中、ヴィオラーナは命を絶てなかった。





帝国が世界征服を始める前にエリクはヴィオラーナの母国、忘れじの国に迷いこんだ。

忘れじの国は月の女神を信仰する閉鎖的な国。

忘れじの国を治める宗主一族は常に国を白い霧で囲い侵入者を防ぐ。忘れじの国を覆う白い霧は特別であり、迷い人は忘れじの国を出れば忘れじの国の記憶は夢となる。

再び忘れじの国に踏み入れればうつつの夢となった記憶がよみがえるが二度も踏み入れるものは存在しない。俗世を捨てて忘れじの民になるものは俗世の記憶を捨てる覚悟のある者のみ。

月の女神を信仰する忘れじの国の宗主一族の姫のヴィオラーナは神聖な森で祈りを捧げ、気配を感じて足を進める。神聖な森を抜け、忘れじの国の守りの要である迷いの森に入ると真っ青な顔で浅い呼吸を繰り返す少年を見つける。



「大丈夫? これ、噛んで。楽になるから」



ヴィオラーナは倒れている少年の足元に生えている薬草を引き抜き、口に含ませても反応しない少年にため息をつく。少年の口の中に入れた薬草を取り出し、自分の口にいれて固い葉をゆっくりと噛み砕きながら舌の上で転がし、とろりと甘い液が出たので、細い指で少年の口を開けて、とろみのある甘い液をこぼさないようにゆっくりと舌の上に乗せる。少年に少しづつ毒消しの薬液と呼ばれる葉液を与え続け、真っ青な顔色に赤みが戻り、ふぅっと長い息を吐く。

ボロボロの服に死にかけていた、たぶん訳ありな少年を見て、ヴィオラーナは「よいしょ」と背中に背負い城を目指す。

慈愛深い月の女神を信仰する一族は忘れじの国にたどりついた傷ついた迷い人を見捨てない。



「おかえりなさい。姫様。そちらは」

「ただいま。迷いの森で拾った迷い人。隠し部屋を使うわ」



忘れじの国の石作りの古城には迷い人のための隠し部屋がある。

忘れじの国は宗主の魔力で覆われており忘れじの一族の血を引かない者の外の記憶をうつつのものに変える。

俗世に帰る迷い込んだ者のために用意されたのは宗主の魔力に覆われていない隠し部屋、隔離部屋が存在する。

慈悲深い月の女神は傷ついた者を優しく包み込み、傷が癒えるまでは庇護におく。

どんな者の血も好まない。宿敵でさえも。

忘れじの一族は月の女神の教えを守りつづける一族である。



ヴィオラーナは少年をベッドに寝かせ、魔法をかけて汚れを洗い流す。ボロボロの服を脱がせ、体中にある傷に薬草をぺたぺたと貼る。

毒と傷だらけの体をもつ久しぶりの重傷者の手当てを手際よく進めていくと隠し部屋の重たい扉が開き赤い髪と夕焼け色の瞳を持つ青年が顔を出す。



「ヴィオ、客人か?」

「うん。手首に守りのまじないが刻まれているから迷い人。傷が癒えたら返す」

「ふぅん。珍しい加護持ちか。深入りするなよ」



夕焼け色の瞳で静かに自分を見つめ、迷い人がくるたびに同じ忠告をする兄のオリバンダーにヴィオラーナは口元を緩ませる。



「私にはここを守る以外に大事なことはないわ」

「宗主部屋に籠っても平気か?」

「任せて。深い霧で覆っているから真に求める者しか辿りつかないよ」



ヴィオラーナは迷い人の報告を侍女から聞き様子を見に来た兄に手を振り送り出す。宗主一族は念話で話せるので顔を合わせる必要はなくても、兄はいつも対話を選ぶ。

いずれ忘れじの国の宗主となるため国で二番に多忙なのに手間のかかることを選ぶ兄の変わっている所もヴィオラーナは好んでいる。変わっている兄がいずれ宗主となり統治する忘れじの国を守る力になるようにヴィオラーナは生涯を支える道に生まれたことを誇りに思い、月の女神の教えを守るために少年の治療を続けた。

たとえ少年の持つ加護が月の女神が嫌うものであっても、加護の力を使っていない少年を見殺しにする理由はなかった。

少年に薬液を飲ませ薬草を毎日変えて三日経つ頃、少年はゆっくりと瞼をあげる。赤い瞳と目が合ったヴィオラーナは籠の中から薬草を手に取る。



「ここは?」

「この薬草よく噛んで食べて。もうしばらく飲み続ければ毒がぬけるわ。貴方に危害を加えないわ。それ以上に必要がある?」



無表情の少年にニコリと笑いかけヴィオラーナは薬草を口に入れる。少年が噛まずに飲み込もうとするのでキッと睨みつける。



「よく噛んで。唾液と薬液をしっかり混ぜ込まないと意味はないの」



固まっている少年を見て、ヴィオラーナは少年の唇を白い指で強引に開けて口に含ませた薬草を取り出す。



「最初だからわからないか」



ヴィオラーナは薬草を口に入れ、よく噛み舌で転がしながら甘みの出た薬液を強引に少年に口づけて流し込む。



「この甘みが出るまできちんと噛むのよ。わかった?」

「君!?」



真っ赤に染まった物分かりの悪い少年の顔をじっと見つめて、ヴィオラーナはゆっくりと確認する。



「わかった?幼子じゃないならきちんとできる?」

「あ、うん」

「よろしい。食欲があるなら食べて。体が自由になれば送ってあげる」



ヴィオラーナは傷が痛まないように寝ている少年の体に手を添えゆっくりと体を起こし座らせる。籠の中から小さい実を取り出し、少年の口元に運ぶ。



「口を開けて。栄養があるのよ。もう少し太らないと大きくなれないわ。好き嫌いは許さない」

「あ、え、いや」



ヴィオラーナはかすかに開いた口に赤い実を強引に押し込む。真っ赤な顔は気にせず、きちんと食べたエリクにニコリと笑い頭を撫でる。



「えらい。えらい。ちゃんと食べたね。もう眠っていいよ。食事の時間に起こしてあげる」



少年エリクは初対面で口づけた謎の美少女に赤面しつつも、和気あいあいと世話をされながら傷を癒していく。殺伐としてエリクの世界で初めての幸福な時間だったことをヴィオラーナは気付かない。一月が経ち、傷も癒えて毒も消えた。

傷が癒えた時は別れの時。出会った時は無表情だった少年が屈託なく笑うようになり、ヴィオラーナは完治と判断し、綺麗に洗い破れたところを繕い終わったエリクの服を着せた。



「もう動けるわね」

「ヴィオ、俺はここにずっといたい」



ヴィオラーナはポツリと零すエリクに微笑み、右腕に縛られている赤い組紐に触れる。



「貴方を待つ人がいる。外の世界の記憶が薄れて時間が経つにつれ、忘れじの国の民になるの。ここは忘れじの血を引かない者には危険な場所」

「また会える?」



寂しそうな顔のエリクにヴィオラーナはゆっくりと首を横に振る。



「いいえ。外の世界に出ればここでの記憶はうつつの夢となる」

「ここを出たら君を忘れる?」

「ここは俗世とは別世界。私達は外と関わらず生きるもの」

「忘れたくない。ヴィオ、俺は」

「エリク、私達には守るものがあるの。決して道が重なることはない。さようなら」



ヴィオラーナは泣きそうな顔のエリクに微笑み魔法で国の外、エリクに赤い紐を送った帰りを待つ主のもとに送る。別れが寂しいのは一瞬。忘れじの国を求めるのは傷ついた者だけ。もう二度と出会うことはないようにといつも迷い人に送る祈りを捧げ、侍女を呼び隠れ部屋の片づけを託す。

隠れ部屋は常に治療が行えるように準備されていた。

エリクが帰り寂しそうな兄を狩りに誘い、月の女神に祈りを捧げ、民や家族と穏やかに過ごす変わらない日常が帰ってくる。

宗主の孫のヴィオラーナは兄と共に国を守る義務がある。ヴィオラーナにとって大事なのは忘れじの国と民と家族だけ。





もう会うことのないと思った少年と再会するのは4年後。



『ヴィオ、逃げて!!お願いだから、国を捨てて』



ヴィオラーナは頭に響く泣きそうな声に目を醒ます。忘れじの国を治める宗主一族は夢見の力を持つ。夢に見たのは赤い瞳の少年が赤いマントを風になびかせを軍服を血に染め血の海を作る光景。初めて見た恐ろしい夢に震える体を抱きしめるヴィオラーナ。



『ヴィオ、逃げよ。そなたは生き延び血を残せ』

「宗主様?」



頭に響く声が途切れ、ヴィオラーナに念話を送った宗主の部屋に行くと夢の光景、血の海が広がっている。部屋に倒れているのは正装姿で血に染まった祖父と両親、



「宗主様!!お父様!!お母様!?」



『忘れじの国は滅びん。そなた達に…』



宗主の命が消える音にフラフラとヴィオラーナは膝をつく。

いつも夜に聴こえる月の女神に捧げる歌声もない静かな城、姿を見せない兄が民を連れて逃げる時間稼ぎを祖父達がしたのに気付き、ヴィオラーナは真っ暗な空に向けて閃光を放つ。夜着姿でも着替える時間が惜しいヴィオラーナは血に濡れた母のヴェールを拾い上げ頭から被り思いっきり息を吸う。忘れじの国の最期の言霊を



「宗主一族が姫、ヴィオラーナはここにあり。妾の首を取らねば国は滅びぬ。愚かな侵入者よ。我が国と宝を傷つけた報いを裁きが落ちる。そなたらの望みが叶うときそなたらを業が襲う。欲に目の―」





響き渡るヴィオラーナの声に兵とともに、体中を血で染めた青年が赤く血走った目で部屋に押し入り剣を振り上げる。



「貴様!!」



宗主の孫娘のヴィオラーナは魔力よりも神力が強い。青年の後ろに見える神を静かに見据え口を開く。

世界を作った創主神が初めて作ったのは太陽神と月の女神。数多の神々とは比べ物にならない卓越した力を持つ三神。



「戦神よ。妾を殺せば創主の怒りの鉄槌が落ちよう。殺せばいい」



忘れじの国が信仰するのは創主のお気に入りの月の女神。そして絶世の美貌を持つ月の女神が悪しき神に囚われぬように与えられたのは先見と言霊の力。月の女神に仕える一族の姫であり月の女神と同じ白銀の髪と瞳を持つヴィオラーナの冷たい声に青年も後ろに続く兵も剣を捨てる。



「あぁぁぁああ」



赤い瞳の血走った目の青年はヴィオラーナを見て、頭を抱えて叫び兵達はオロオロと狼狽える。ヴィオラーナの役割は時間稼ぎ。血を嫌い命を慈しむ月の女神はヴィオラーナが手を血で染め、命を奪った瞬間に加護を取り下げる。兄達が逃げ切るまでは加護を失うわけにはいかなかった。

絶叫をあげているかつて女神の教えにしたがい救った青年エリクをヴィオラーナは鋭い目で冷たく見据える。



「お久しぶりです。もう二度と会うことはないと思っておりましたわ。恩を仇で返すとは無粋な方は」



血に染まったヴェールを被り、凛と佇む美声の持ち主に強面の男が近づき全身を舐めつけるように見ていやらしい笑みを向ける。



「麗しき姫君、この国は帝国の手に落ちた。君に残された道は2つ。我らの慰めものになるか、ここで命を断つか」

「あ、兄上、姫君は私にください」

「エリクが欲しいか。毛色の変わった者が好みか」

「ええ。明朝追いかけますゆえ、お任せしても?」

「我慢できんか。まぁ良かろう。楽しみたまえ。引くぞ、宝は押収せよ」



飢えた獣のような卑しい顔の兵と大柄で強面の青年が出ていき、頭痛の収まったエリクは立ち上がり、血に染まった者達を見て口を開く。



「鎮魂の儀を」

「仇とともになどお断りです」

「明朝にはここに火を放つ」

「私は仇のために利用されるなら」

「ヴィオには託された願いがあるだろう?何が最善かは君が一番分かっているはずだ。一の姫」



宗主の遺言、ヴィオラーナの役目は血を遺すこと。

尊い血を絶やさないために選べる方法は一つだけ。戦に負けた末路は…。

ヴィオラーナは私情ではなく宗主一族の姫として覚悟を決め、家族を弔った夜に月の女神の加護を失った。仇なのに見つめられる瞳は悲しみに満ちており、痛みを与えられても家族を血に染めた男とは思えなかった。

そしてヴィオラーナは帝国皇子の妃の一人になり、皇太子宮に住まいを与えられる。

ヴィオラーナは月の女神の力を失っても魔法がある。もしも兄や民が捕らえられたら役に立つように、忘れじの国の復興を夢見て屈辱でもエリクに体を差し出すことを選んだ。









帝国皇族は数多の妃を抱える中で、エリクが傍に置くのはヴィオラーナだけ。

戦神の加護を持つエリクは戦場を駆け、帰国すると皇太子宮に引きこもる。



「これ、もしも俺に用があるなら使って。魔力を通せば聞こえるから。俺の見ているものが浮かび上がる。出かけるよ」



渡された水晶に魔力をかざすと皇太子宮が映る。

ヴィオラーナは出陣していくエリクの背中を無言で見送り、水晶を通して外の世界を知る。



戦神に呑まれ我を忘れて、戦場で剣を振るうエリク。

剣を置き一人になり我に返って絶望する顔。



「やめてくれ。殺したくない。俺は」



ヴィオラーナは水晶は魔力の送り方を変えるとエリクの周り以外も見れることを知り世界征服の末にエリクの待つ運命を知る。



「とうとう落としたか。かの国の美姫は」

「全ての怨恨は皇太子に、そして―」



ヴィオラーナは神と皇帝に躍らされる青年に恨みよりも同情の方が強くなっていく。

眠れずに兄に酒に酔わされ目を閉じてもなお悪夢にうなされるエリク。

戦勝報告に嫌らしい笑みを浮かべる皇帝に怒りがこみあげ、外に出ると顔色の悪い、やつれた顔のエリクがいた。昔に別れた時の泣きそうな顔を思い出しヴィオラーナは思わず駆け寄り手を伸ばし、冷たい体をそっと抱きしめる。



「ヴィオ?」

「悪夢は見ないわ。おやすみなさい」



後宮に入りほぼ無言だったヴィオラーナが口を聞き、優しく抱きしめる腕に驚きながらも、初陣から一度もぐっすりと眠れなかったエリクに眠気が襲い掛かり目を閉じる。

ヴィオラーナが出陣から帰り意識の失ったエリクを膝の上に乗せ寝かせる日の始まりだった。



「俺は」

「起きたなら湯あみに行って汚れを落として。食事はどうするの?」

「え?」

「ここで食べるの?宮殿に行くの?」

「ヴィオが嫌じゃないなら」

「わかった。用意するからきちんとお湯に浸かってきて」



ヴィオラーナはエリクが湯あみをしている間に食事の用意をする。ヴィオラーナはエリクの戸惑いは気付かないフリをして呆れるほど生活能力皆無の夫の世話をする。皇太子宮には侍女を置いていない。帝国嫌いのヴィオラーナは身の回りのことも全て自分でできるので、必要ないと追い払った。

皇太子宮の中なら自由に過ごしていいと言われていたヴィオラーナは机の上に置いてあった皇太子妃に手出し禁止の誓約書を魔法で模写して皇太子宮の扉に貼り全ての交流を拒んでいた。





エリクとヴィオラーナは向かい合い食事をしているとエリクの手がとまる。



「食事は残したらだめ。もう少し太らないと」



ヴィオラーナは食の細いエリクの口に無理矢理詰め込む。



「お母様は私が守ってあげる。お母様と同じ宮でいいよ」

「駄目だ。父上が君を見れば」

「色狂いか。倒したら駄目なのよね」

「ヴィオ、お願いだから俺の宮でおとなしくしてて。父上は怖い人なんだよ。母上は大丈夫だから。なんで色狂いって」

「水晶を使えばここからでも見れるもの。貴方のお兄様が誰一人信用できないことも」

「え?まさか」



ヴィオラーナは怯えた顔を向けられニコリと笑う。エリクの秘密を誰にも話すつもりはない。



「私は貴方の味方。ここから出るつもりはないわ。お誘いも全て貴方の許可がないからと断ったわ。お付き合いは必要?」

「いらない。俺に求められるのは戦場だけだ」

「バカ。いつまた出るの?」

「明後日には」

「きちんとご飯食べて、眠れないならすぐに帰ってくるのよ」

「ヴィオ?」

「頭の声がうるさいなら黙らせてあげる。悪趣味な神」



食事をすませたヴィオラーナはエリクをベッドに寝かせ、服を脱がせて怪我をしてないか確認する。



「ヴ、ヴィオ?」

「体、痛いでしょ?」



ヴィオラーナは手足の潰れた豆以外に傷は無くても、戦神の好きに使われ疲労の溜まっている体にそっと触れゆっくりともみほぐす。



「無理な行軍を」

「父上の命令は絶対だ」

「薬草を渡すから持って行って。貼れば楽になるから」

「ヴィオ、ありがたいんだけど、」

「血は残したいから別にいいけど、全部終わったらね」



真っ赤な顔を伏せった初心なエリクにクスリと笑いながら体を解す。神は人の体を思いやらない。疲労の溜まっている体を解され、段々気持ち良くなり眠気に誘われるエリクの睡眠を邪魔しようとする戦神に月の女神の癒しの歌を歌う。成長しきれていない頼りない体に安らかな眠りをと。最後に豆の潰れた手足に薬草を貼り、傷だらけの手を握ってヴィオラーナは目を閉じながら音にならない言葉を紡ぐ。月の女神の加護はなくても、戦神に関する知識は豊富に持っていた。



ヴィオラーナはエリクの短い休みにできる限りの休息を取らせ、出陣する頼りない背中を見送ると、ボトンと音がした。

落とされた袋を抱え空を見上げると、すでに遠くを飛ぶ兄の愛鳥。忘れじの国を出れば念話は使えず無事を確かめる方法はなかった。

袋の中には薬草や種、服に布が詰まっており無事な姿にふぅっと息をつき、庭に種を撒く。皇太子宮の広い庭園が畑になっていてもエリクは気づかないのでヴィオラーナは好きに使う。

世間知らずなヴィオラーナの目から見ても帝国は魔法も軍事も全てにおいて遅れている。他国を攻め滅ぼせるのは戦神の力のおかげ。ヴィオラーナは無防備な空を使って自由にやり取りをする。そして薄い霧で皇太子宮を覆い、自分の姿も畑も誰にも見られないようにして守りを固める。忘れじの国の知識を帝国のために使うつもりは一切ない。





ヴィオラーナは水晶で見れば見るほど帝国が嫌いになり、出陣から帰った血まみれのエリクの震える体を抱きしめる。



「エリク、逃げよう」

「ヴィオ?」

「お母様も亡くなりこの国は貴方にとって大事なものはないんでしょう?全てが終わればエリクは殺されるのよ。生贄に」

「俺はヴィオの家族を」

「お兄様への追手を緩めたでしょ?宗主様は次代に託すための最期の賭けをした。お母様達は逃げられたのに逃げなかった。ここには貴方の子がいるのよ。責任とるべきじゃない?」

「俺は奪って」

「奪ったなら償いなさい。私は忘れじの血を遺すの。私が貴方を助けた恩を返しなさい」

「俺はヴィオを望んでいいのか」

「馬鹿じゃないの!!心を決めるのは自分自身よ」

「ヴィオ、愛してるよ」



ヴィオラーナはエリクからの優しい口づけを受け、自分を壊れ物のようにそっと肌を撫でる手に身を委ねる。どんなに願ってもエリクにはヴィオラーナの本当の願いは聞いてもらえない。神に踊らされ、人の欲に飲み込まれてもなお逃れることを選べない。だから最期の結末まで涙を見せずに付き合う。あの時、エリクの願いを叶えなかったヴィオラーナにできる唯一の償い。

ベッドですやすやと眠る我が子が起きないように静かにいずれ失う温もりを心に刻みつける。



「儂は無駄な殺生は好まん。じゃが止まらない」



ヴィオラーナは水晶を使えば望んだ場所が見れることに気付いてからはよく眺めていた。とうとう大臣や民の前での皇帝の手のひら返しに絶句する。



「ヴィオ、俺は平気だからここにいて。ヴィオ達が生きていてさえすれば」

「皇帝の命令でしょ!?貴方は望んでないのに」

「命を奪ったのは」



エリクの責める声を聞きたくないヴィオラーナは強引に唇を重ねて言葉を封じる。ヴィオラーナは皇帝とエリクの唯一の共通点は色狂いと思っている。兄が送ってきた侍女に我が子を任せて、ベッドの上で重なり合う。深くなる口づけと肌を這う指、どんどん大きくなる耳に近づく終わりの音に「深入りするな」と兄の守れなかった忠告を思い出す。運命があっても心は自由。優しく触れながらもエリクの熱に溺れていく顔を見つめ声にできない言葉を心のなかで告げる。

一つになってぐっすり眠るエリクの腕の中で子供のような寝顔を眺め声を殺してポロリと涙を流す。

どんなに非道でも国のために生きる自分もエリクも心のままに生きれない。それでも―。

ヴィオラーナの唇は歌を紡ぐ。

お願いだから奪わないで。夫の見る夢が幸せなものであるようにと想いをこめて。











帝国の征服はどんどん進み、歓喜の声が響く中ヴィオラーナの心はどんどん悲しみに染まっていく。

何度招待されても勝利の宴に足を運ぶことは一度もない。

ヴィオラーナは耳に響く終わりの音が大きくなり背中を見送るのは最期とわかっていても、行かないでとは口に出さない。どんなに言葉を尽くしても届かないのは知っていた。ヴィオラーナもエリクが大事でも、母国を優先にするから…。



「いってらっしゃい。気をつけて」

「ヴィオ」

「謝罪はいらない」

「愛している。どうか―」



エリクにきつく抱きしめられる腕の中で涙を我慢してヴィオラーナは笑みを浮かべて口づける。腕が解けてエリクの背中が見えなくなると、ペタンと座り込み声を殺して涙を流す。

母国を奪い、大事な人を奪う帝国。

大義があるならまだ受け入れられたかもしれない。

皇帝の欲のためだけに儚く数多の命が消えていく。

ヴィオラーナは帝国は嫌いでもエリクだけは別だった。

エリクは情報を流して攻め落とす国から逃げるように呼びかけていた。自分の殺戮の犠牲者が減るようにと。密書のおかげで属国となり救われた国もあった。

そしてエリクの善意は全てエリク以外の功績になり、悪いものは全てエリクの罪にされる。

皇帝は欲しかなく慈悲の心はない。

憎い帝国で大事なものは我が子とエリクだけ。

エリクには皇太子宮から出ないように言われていても譲れないヴィオラーナは今日も謁見の手続きをする。



皇太子宮から謁見の間に向かっていると引きこもりの皇太子妃は好奇の視線に曝される。



「あら?もしかして」

「殺戮皇子でしょ。仇に抱かれるなんて」

「ヴェールの下は傷だらけかしら、ねぇ、あなた」



ヴィオラーナは声を掛けられても反応しない。エリクはまだ皇太子であり、唯一の妃はヴィオラーナ。社交をせずとも皇后の次に身分が高い。



「何度申しても変わらん」

「道を外せば裁きが下るでしょう」

「そなたは頼む方も知らぬか」

「夫の前でしか素顔を晒すことはありません。心に留め置いてくださいませ」



ヴィオラーナは礼をして立ち去る。自分が体を差し出しても嘘つきな皇帝はエリクの処刑を取り止めない。ヴィオラーナは最期までエリクの味方と決めたから絶対にエリクを裏切らない。エリクが自分を守るために皇太子宮に囲いこんでいる理由を知っている。一番恐れているのは、色狂いの餌食になること。

宮殿には征服が終われば害でしかない恐ろしい力を持つエリクの味方は誰もいない。

皇族も豪族も新たな皇太子の座を巡る争いに夢中。誰も民のことなど思わない私利私欲の塊に言葉を掛けても無駄とわかっても祈ることはやめられなかった。

ヴィオラーナの願いは叶わない。

最期の時まで安らかな時間をとヴィオラーナは戦場で悪夢に魘されないように水晶に歌いかける。エリクの持つ水晶から声が返ってこないとわかっていても。



皇太子エリクの公開処刑が決まった日、ヴィオラーナは真っ黒な服とヴェールを着て、見物に集まる観衆の中に紛れていた。

手を縛られ、処刑台に立つ無表情のエリクに石が投げられたので魔法で風を起こして飛ばす。エリクが処刑台に首をいれ、皇帝が剣を持ち、



「幸せに」



首が落ちる直前に夫の赤い瞳と目が合い最期の言葉を拾い邪魔するなと視線を送られ、ヴィオラーナを襲ったのは絶望。



エリクが処刑されれば、我が子が殺され自分は他の皇族の所有物になるのが我慢できないヴィオラーナは、にぎわう喧騒の中で我が子を抱いて私物の処分を侍女に任せて皇太子宮を抜け出した。

ヴィオラーナはエリクが生きているなら、呪いが振りかからないのを知っていた。忘れじの国が襲われた時の言霊の呪いの発動の鍵は戦神の消滅。

神力の強い宗主と母の血の海の中、神力に乗せて紡いだ言霊は必ず力を持つ。

帝国の世界征服を願った者を襲う悲劇は知らない。ヴィオラーナは月の女神を信仰するただ人であり、慈悲深さなどない。

国や命を守るためでなく欲望、征服するために侵略し殺戮を繰り返した皇太子に全ての怨恨を向けるように仕向けた帝国。

道理に反する人など滅びてしまえと呪詛を唱え我が子を連れてヴェールを被った少女は消えた。



ただ一緒に生きたいだけだった。

自分の幸せを願わない傷だらけの悲しい皇子と…。
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