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しおりを挟む秋の終わりの午後の陽射し。のんびりとした陽気に包まれて、花村春生は目を覚ました。いや、我に返ったと言った方が正しいのだろうか。
(……やば。オレ、寝てたか……?)
春生は首を動かさずに目だけを使って周囲の様子を窺った。
此処は教室。只今、授業の真っ最中――なのだが陽気のせいだろうか春生の他にも、うとうとではないものの、ぼんやりとしている様子の同級生達が何人も居た。
(……なんだよ。)
少しの安堵と妙な微笑ましさに春生の頬は緩んでしまうのであった。
花村春生、十四歳。市立中学に通う男の子。二年A組の二学期・委員長を務める彼は、眼鏡こそ掛けてはいなかったが小学校の頃から数えてもう十期以上もクラスの委員長や副委員長を務めてきたベテランの「委員長」であった。
クラスメートや担任教師といった周囲の人間からの信頼も厚く、本人もその職に遣り甲斐を感じている。現在の彼は自他共に認める立派な「委員長」であったが、気質的に彼が元から「委員長」に向いていたのかそれとも、その強いリーダーシップは「委員長」職を多く長く務めた為に形成されてしまった後天性の性格であるのか、その答えは花村春生本人にも解かっていなかった。
「……要するに、このxに3を代入すれば……」
改めて言うが――只今、授業の真っ最中であった。数学教師の滝田登は、春生ら生徒達に背中を向けて黒板に長ったらしい数式を書き込んでいた。カッ、カッ、カッ。滝田の握る白いチョークが深い緑色をした黒板をリズミカルに叩いてた――その時、
(……ン?)
と春生が軽く目を見張ってしまうような出来事が起きた。
教室の前方――比較的、後方の席に着いていた春生からは手の届き様が無い遠方の事。教壇に立つ滝田の後ろ姿を眺めていた春生の視界の右端で、不意に――だった。音も無く、生徒の一人が立ち上がったのだ。
こちらに背中を向けている滝田はその事にまだ気が付いていない。
席を立った女子生徒――水谷鈴呼はその手に数本のボールペンやらシャーペンやらを握り締めていた。彼女は、忍び足というわけでもなく、すすす……と流れるみたいに自然な動作で教壇に立つ滝田の背後に近寄った。
「……水谷?」
独り言にしては大きな声で、彼女に向けて呼び掛けたにしては小さすぎるボリュームで、春生は呟いた。
「何だ……?」と春生の呟きに反応を示し、ゆっくりと振り返ったのは、彼女ではなく、滝田登だった。
教壇の上。水谷鈴呼と滝田登が近い距離で向かい会った。けれども。それはほんの一瞬の事だった。次の瞬間、滝田は「…………」と何の声も無くその場に崩れ落ちた。
「水谷ッ!」
春生は叫び、立ち上がった。ガタンッ! と大きな音を立て、彼の座っていた椅子が静かだった教室の床に倒れる。
……滝田登の振り返り様、鈴呼はその右の手に握り締めていた幾本ものペンの先をひとまとめに、あたかも陸上・槍投げの選手が如く大きく腕を振って、滝田の顔面に叩き刺したのだ。
「…………」
春生の叫び声を受け、静かに振り向いた鈴呼は全くの無表情だった。
笑っても、怒ってもいない。苦しそうでもなければ、晴れ晴れもしていない。
そればかりか、いわゆる「無表情」が故の「無機質さ」や「冷たさ」のようなものすら感じさせない。水谷鈴呼は本当に「普通」の顔をしていた。
「……ハルキ」
唇は動かさず、彼女は吐息で呟いた。その呟きは「遠方」の席に居た花村春生の耳にはもちろん、他の誰の耳にも届いていなかった。
授業の真っ最中、同級生の女の子が一人、無言で教師に歩み寄り、その顔を刺した。そして。そのまま、その場に立ち尽くす彼女と、彼女の足許に力無く横たわっている教師。その、余りにも非現実的な光景に少しの間、教室内は息を呑むみたいに静まり返っていたのだが、
「い……いやぁーッ!」
一人の女子生徒が上げた悲鳴をまるで合図にしたみたいに、今度はたくさんの生徒達が一斉に口を開き、席を立った。
「な、な、ななな……ッ!?」
「馬ッ鹿! 水谷ッ! お前、何やってんだよッ!?」
「し……死んだの? 滝田先生……」
悲鳴や怒鳴り声、机を倒す勢いで教室から逃げ出ようとする生徒や、逆に横たわる滝田の様子を認めようと教壇に近付く生徒に至るまで……二年A組は狂騒に包まれた。
そんな中、
「宮下望ッ!」
花村春生は声を張り上げ、二年A組・副委員長の名前を呼んだ。
「は、はいッ!?」
震える声を更に裏返して、宮下望は応えた。
「宮下は職員室……いや、B組に行って授業中の先生、呼んで来てくれ」
「え、あ……は、花村君は……?」
「オレは『こっち』だ。……早くッ! 頼んだぞ、宮下!」
春生は、宮下望の青ざめた顔を指差すとそれからその指を力強く廊下に流し向け、彼女に迅速な行動を促した。
「あ、は、はいッ!」
返事をするが早いか宮下望は教室を駆け出て行った。春生はその後ろ姿を見送る事もなく、
「椎名ッ!」
と次なる人物の名前を呼んだ。
「悪い! 全員、廊下に連れ出してくれ!」
春生が頼り、指示を与えた相手はクラスメートの椎名貴也だった。宮下望とは違って彼はクラスの委員でも何でもない、ついでに言えば春生と特別に仲の良い「親友」というわけでもない一介の「クラスメート」だった。……特筆をするならば、中学生には見えないくらいの大柄で金髪に近い茶髪のヤンチャ坊である。
クラスで一番、身長が低く、表情を抜いた地顔がどこか女性的である花村春生とは好対照な人物だった。
「ああ~……? ……ッたく。しょうがねえなあ」
春生からの指名を受けた椎名貴也は面倒臭そうに了承をすると、
「ほれ。お前等、廊下だ。廊下。委員長サマのゴメイレイだぞ。早く出ろ、コノヤロウ共」
足がすくんで動けなくなっていた男子から、横たわる滝田登を覗き込んでいた好奇心旺盛な女子まで分け隔て無く、蹴っ飛ばし、引っ叩き、鷲掴み、引き摺り、強引なまでの力強さで春生の「ゴメイレイ」を実行してくれたのだった。
そうして、ガラガラガラ……ピシャリとドアの閉められた二年A組、教室内には、
「……水谷」
花村春生と、
「…………」
水谷鈴呼の二人だけとなった。
残念ながら、鈴呼の足許に力無く横たわっている滝田登は既に「一人」と数えられる状態ではなくなってしまっていた。
その事は、顔面に幾本ものペンを生やらかしたままピクリとも動かない彼の寝姿を見れば、誰の目にも明らかだった。
……なのに。春生が制服のポケットから取り出した携帯電話で押した番号は「一一〇」ではなく「一一九」だった。
「……もしもし。救急です。……はい。授業中に先生が倒れました。意識はありません。呼吸もしていません」
冷静な口調で伝えながらも春生は目の前に「在る」滝田登が「既に死んでいる」という事実を――「もしかしたら死んでいるかもしれない」とさえも口に出す事は出来なかった。
「……はい。お願いします」
通話を終えて、携帯電話を静かに閉じる。制服のポケットにそれを戻した春生は、睨むではなく、怯えるでもなく、蔑むでもなく、その場に佇み続ける水谷鈴呼の事を見詰めた。
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