上手なお口で結べたら

春待ち木陰

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 実際、たいした痛みは感じなかった。それでも、

「痛ってえな、このハゲッ!」

 俺は悪態をついてやった。ゴリからの、

「ハゲじゃねえ。坊主だ。五厘刈りだ」

 というお決まりの文句を引き出そうとしたのだが、残念ながら俺の目論見は外れてしまった。ゴリは、

「ああ」

 と謝るでもなくただ短く返しながら地面に転がっていた俺の腕を掴むと、

「…………」

 何も言わぬまま、半ば強引に俺の事を立たせた。

「……『急用』ってリンゴとか?」

 ゴリが言った。

「ああ?」

「ん?」

 俺とリンゴが同時に声を上げる。ゴリの表情がぴくりと動いた。

「リンゴとはいまさっき偶然会っただけだぞ?」

「ホントか?」とゴリは、答えた俺ではなくてリンゴの方を見た。

「なんだよ?」とリンゴは答えになっていない応えを返す。そんなリンゴの気持ちが俺には何となく伝わっていた。多分、同じような気持ちを感じていると思われた。

「どうしたよ? ゴリ。落ち着けって」

 リンゴに代わって俺が言ってやる。ゴリは今、静かに取り乱していた。ゴリらしくもなかった。

「だって。お前」とゴリが俺に振り向いた。

「さっき、リンゴと」

 聞き取りにくかった小さな声でゴリは何かを呟いていた。

「何だって」と俺は聞き返したが、ゴリは「…………」とかえって黙ってしまった。

「ゴリ」

 と今度はリンゴが声を掛ける。

「ボールとグローブは持ってきてるな。バットは……ああ、やっぱ、持ってきてないよなあ。言ってなかったもんなあ」

 明らかに様子のおかしいゴリを相手に、リンゴは敢えて普通に話をしてやっているのか、それとも本気で普通に話しているのか。

「ツリ目も一緒に遊べるっていうからさ。キャッチボールじゃなくてノック練とかでも良いかもなって話してたんだけど」

 喋っているのがリンゴなだけに後者の方が有り得そうで本当はどちらなのか非常に分かりづらかった。

 ゴリはそのどちらと受け取ったのだろう、

「すまん、リンゴ」

 神妙な面持ちで謝った。そして続ける。

「今日はこの後、ツリ目と話をさせてもらえないか。遊ぶって言ったのに。悪い」

「あえー?」とリンゴは顔をしかめる。

「ええ?」と俺は単純に驚いてしまっていた。何の話だ――件のカノジョ関係か。

「ツリ目も『偶然会った』リンゴと遊べるなら『急用』はもう済んでるって事だろ」

 ゴリが強い目で俺を見た。俺の目を見ていた。

「……まあ」と俺は目を逸らす。リンゴが「ええーッ!」と非難の声を上げた。

「明日。明日の日曜に改めて遊ぼう。ツリ目も一緒にな」

 ゴリが言った。勝手に決めてしまう。俺が何か口を挟むよりも先に、

「構わないだろ? それとも本当に『先約』があるのか?」

 ゴリが俺を見た。俺は、

「……分かったよ」

 と頷く事しか出来なかった。



「明日なー。ゼッタイだぞー」とリンゴに見送られるも行き先が分からない。

 俺はゴリに手首を掴まれて、引っ張られながらに歩いていた。

「別に逃げ出したりしねえって」

 軽口を叩いてみたがゴリからの返事は無かった。俺の手首を掴んでいたゴリの握力が弱まったり、逆に強まったりといった反応も特には無かった。

「……何処に行くつもりだよ?」

 溜め息交じりに尋ねてみると、

「…………」

 何も言わずにゴリは立ち止まった。しばらくそのまま。……考えてなかったのかよと俺は笑ってしまった。

「とりあえず、ウチに行くか?」

「…………」

 ゴリは返事をする代わりに俺の手首を解放してくれた。


 ウチに到着。道中の数分間はずっと黙りっぱなしだったくせに、

「……お邪魔します」

 とゴリは口を開いた。そういう奴だ。

 二階に上がる。俺の部屋は二階にあった。部屋に入ってドアを閉めるなり、ゴリは俺の両肩に手を置いた。力強く引き寄せようとする。

「ちょい、待て待て待て」

 俺は自分の口の前にてのひらを置いて、ゴリとのキスを保留する。……コイツ、カノジョがいるくせに。なにやろうとしてんだ。「カノジョにフラれた」とかリンゴは言ってたが、どこまで本当か分からない情報だ。喧嘩未満の軽く擦れ違った程度じゃないのか。そんな状態のカノジョを放って置いて……ああ、そうか。俺とのキスは別に浮気でもなんでもない、恋人との関係に何か影響を与えるようなものではないということか。まあ。そうか……それでも。「キス」は「キス」なんじゃないのか……?

「ツリ目は――」

 とゴリは急に意味の分からない事を言い出した。

「――リンゴが好きなのか?」

「はあ?」

「キスなら俺がするから」

「なに言ってんだ?」

「さっき、リンゴとキス」

「するわけねえだろうが」

 まるで台本通りに行われた漫才の掛け合いのようだった。スピード感を持って、互いに相手の言葉の先回りをしていた。

「……そうなのか?」とゴリは語勢を弱める。

「見間違い……だった……のか? ……悪い」

 言葉では謝りながらもゴリは、まだまだ半信半疑といった顔をしていた。

「おいおい。友達って言ってもあいつは一応、生物学的には女子だぞ?」

 俺は言ってやったが、

「じゃあ。だったら。まつ毛は? 短パンは? アイツらとはするのか?」

 何故か逆効果だった。ゴリを落ち着かせるどころか余計に興奮させてしまった。

「知らねえよ。何だよ。どうしたよ」

 俺は困ってしまっていた。

「俺とキスをするのは友達だから。だったら同じ『友達』のアイツらとも」

 ゴリの言動は、その表情は、明らかにおかしかった。ついさっき「……お邪魔します」と見せてくれたような俺の知っている「ゴリらしさ」が無くなっていた。どうも情緒が不安定になってしまっているようだった。

 ……ああ。ついこの間までの俺もこんな感じだったのだろうか。

 そんな俺を救ってくれたのは他の誰でもない、ゴリだった。

 俺は、

「落ち着け」

 ゴリをそっと抱き寄せた。胸と胸を合わせて、ゴリの頭に肩を貸す。

「大丈夫だ。大丈夫」

 背中を軽く叩いてやった。ぽんぽんと赤ん坊を寝かし付けるように優しくだ。

「…………」とゴリは何も言わなかった。が俺から離れようともしなかった。

 少し迷ったが俺は言ってやる事にした。

「リンゴが何か言ってたぞ。あいつの勘違いかもしれないけど」

 イチから説明させるよりも「多少の事情は知っているぞ」と言ってやった方が吐き出させ易いんじゃないか。早く楽にさせてやれるんじゃないか。

「ゴリ。お前、カノジョさんと何かトラブったんだって?」

「……え?」と耳元にゴリの吐息を感じた。

「言えよな。カノジョが出来た事から知らなかったぞ。俺と最初にキスした時にはまだいなかった――で良いんだよな? いつからだよ」

「カノジョ……ではない……んだけど」

「そうなのか? 友達以上恋人未満の微妙な関係か。未確定で流動的な。……知ってるのか? その子は。俺とゴリがキスした事を」

 ゴリは何も言わなかったが小さく頷いたような気配を俺は感じた。

「あー……、もしかして俺とのキスが原因でその子と喧嘩になったりしたか?」

「……わからない。原因は。何も。急に。避けられた……」

 ゴリは素直に吐露してくれた。当のゴリにも分からない「原因」が俺に分かるはずはなかったが、

「悪かったな」

 気が付けば俺は謝っていた。……ゴリの大事な「原因」に少しでも自分が関わっているなどと思いたかったのだろうか。ゴリをこんなふうにしてしまった遠因は自分にあると思い込みたかったのだろうか。何とも身勝手な感情だった。

「気付くのが遅くなって。もう少し早く距離を取っておくべきだったな」

 俺が言うと。ゴリは強く俺の事を抱き締めてくれた。あたかも引き剥がされまいとするかのようにだ。俺の希望的観測かもしれないが。……そうなる事を望んで、そうされる事を願って口にした台詞だったのかもしれない。我ながら浅ましい……。

 ふと。何故か思い浮かんだ。口に出す。

「なあ。ゴリのその相手ってまさかリンゴ――」

「……わざとなのか?」

「――じゃないよな。悪い」

 相手がリンゴだとすれば、先程の事、俺とリンゴが顔を近付けていた程度で「キスか?」と誤解したゴリが取り乱してしまった事にも納得が出来てしまうのだが。ただリンゴが話の「カノジョ」だったら、本人の口で「フラれた」だのとは言わないか。流石にリンゴでも。

「……じゃない」

 ゴリは言った。

「でも好きなんだろう?」

 俺が言った。

「……分からない」とゴリは言った。

「ただ胸が痛くなる。考えてると他の事が手に付かなくなる。……そいつの事ばかり考えてる」

 何処かで聞いた事があるような話だった。けれども俺の逃避行動的な依存とは似て非なるものだろう。第三者として話を聞いていると分かる。

「ゴリ。それは恋だ」

「恋……?」

「ああ。そうに違いない」

 俺はゴリの気持ちに名前を付けてやった。……もしかしたら。間違った名前かもしれない――そんなふうに思う事自体がきっと間違いだ。俺の希望的観測は要らない。客観的に見れば、ゴリのそれは明らかに「恋」で。結果的にそれが成就するにせよ、失われてしまうにせよ、きっちりと始めさせた方が良い。

 自覚をさせた方が良いと俺は思った。俺の「アイデンティティの喪失」と同じだ。「なんだかわからないけど、こわい。ふあんだ」なんて気持ちは本当に恐ろしいものだった。「こわい」が怖いのだ。「ふあん」に飲み込まれてしまう。

「そうか……――」とゴリが俺の耳元で呟いた。

「――……俺はツリ目に恋をしていたんだな」



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