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第二話「真夜中の看護師」②
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当時の私は、4歳。
本来、死の恐怖ってものを理解できるような歳じゃなかったんだけど。
私は同室の女の子が突然居なくなった事で、自分が死んだらどうなるかって、想像出来るようになってしまったのだ。
死んで、この世からいなくなる事……それはとても悲しい事だけど。
本人にとっては、割とどうということもない。
本人は、そこで終わりだから。
むしろ置いていかれる側、残される側がより悲しいのだと。
自分が死んでいなくなると、悲しむ人がいる。
……親が悲しむ、兄貴も悲しむ、生まればかりの弟も、解るようになったら、きっと悲しい思いをするだろう。
だから、色んな辛いことを我慢しないといけない。
4歳児の考えるようなことじゃないんだけど、私はそんな風に思っていた。
プラッシーは退院したら買って飲ませてあげる……そう言われてたから。
深夜病室を抜け出して、これを眺めるのは、私にとっては生きる希望を再確認するようなものだったのかもしれない。
「なんで怖いんかなぁ? 君、眠くないの?」
怒る訳でもなく、力づくで連れ帰るわけでもなく、看護師さんが隣でしゃがみ込むと顔を覗き込もうとする。
「……眠ると、そのまま目を覚まさないかもしれない……そう思うと、目を閉じるのが怖くなるんだ」
言いながら、私は目線を逸した。
……当時の私は人の目を見て、会話が出来なかった。
その辺もあって、人の顔をちっとも覚えない……なんとも難儀な子供だと言えた。
「そうか……そりゃ、確かに怖いかもしれないね。真っ暗なのは、怖いからね……」
看護師さんがしんみりとした口調で、そう告げる。
「暗いのは別に怖くないよ。でも、僕が死ぬとお母さんが泣いちゃう。弟ともまだ一緒に遊んでないし、このジュースも飲みたい。死んじゃったら、何も出来なくなる……それは嫌だな」
「そうか、君は……子供なのにちゃんと生きる意志があるんだね。なら、心配は要らんよ。じゃけ、子供はもう寝る時間……送っていくから、はよ、ベッドに戻ろうな」
優しい、綺麗な声の看護師さん。
普通に話してて、岡山弁がポロッと出るのは、岡山県民の女性は概ね、そんな感じだから、別に珍しくもない。
当人達はあれでも、標準語を普通に話してるつもりなのだ。
真夜中の看護師さん。
いつも私を病室に連れ戻してくれた優しい名前も顔も覚えてない看護師さん。
けど、彼女とはいつも夜にしか会えなかった……昼間に注射とかで出食わすことは、一度もなかった。
背が高くて、いつも顔が影になってて、よく見えなかったんだけど……声と気配はちゃんと覚えてて、その人が来るといつもすぐわかった。
待合室の椅子の影とかに、隠れたりしてても、あっさり見つかるので、深夜の病院探検は、この人に出食わすまでってのが定番だった。
その看護師さんの顔は、記憶の中では黒い影に覆われていて、どうしても思い出せないのだけど。
私は、人の顔を覚えられないので、それはいつものこと。
だから、気にもとめてなかった。
「……とまぁ、そんな感じで夜になると、病院の中をウロウロしては、毎回その看護師さんに見つかって、ベッドまで連れ戻されてたんだよ。トイレなんかも付き合ってくれたりしてさ」
「確かに、あんた……夜、寝付き悪かったみたいだけど、そんな事やってたんだ。でも、あの病院……夜中、看護師さんが見回りに来るって言っても、いつも日付が変わる前と、夜明け間近の二回くらいだったと思ったんだけど……。それにトイレで起きてく時って、いつも一人で行って、一人で戻ってきてなかったっけ?」
「……いや、ちゃんと病室まで一緒に来てくれてたよ。おふくろ、いつも寝てたみたいだったけど……」
「あの頃のあんたって、色々変わってたからねぇ……。でも、そんなしょっちゅうお世話になってたなら、やっぱり、アタシも覚えてると思うんだけど……覚えとらんのよ……」
「そういや、昼間は一度も会った覚えないなぁ……あの人、なんだったんだろ? いつもどこからともなく出て来て、こらぁって感じで怒られてたんだけど。夜中、ウロウロしてて、あの人以外が来たことって無かったような……」
「……怖いこと言わないでよ。と言うか、あんた……あの歳で、そんな事考えてたとか、恐れ入るわ。夜寝れないって言ってたのは、そう言う事じゃったんな。気付いてやれんで、ゴメンな」
「まぁ、俺が何があっても死なないのは、そう言う事なんじゃないかな? 自分が死んだら、悲しむ人がいる……だから、死ねない……何があっても、最後まで悪あがきをする。結構、それで紙一重で生き延びたって感じだからなぁ。今回も似たようなものだと思うよ……。正直、今後のこととか考えて、絶望しそうになったけど、こんな外の景色も見えない所で、死ねるかってなった」
「あんたも、何回、九死に一生やったら気が済むんだかね……もう、勘弁してよ。あんたの葬式に出るなんて、絶対ゴメンだから!」
さすがに、涙ぐみながら、そう言うおふくろを見て、生き延びてよかったと思った。
数十年ぶりの入院……心臓と直結してる人体で一番太い血管、大動脈に穴が開く……大動脈解離。
突如、それを発症した私は、救急車に運ばれて、三鷹市にある大学病院に、入院する羽目になった。
病室で、わざわざ上京して見舞いにきたおふくろと、昔話をしながら、そんな話になったのだけど。
どうも、私の記憶とおふくろの記憶が食い違ってるような気がした。
どっちの記憶が正しいとなると、4歳の記憶なんて、当てになるはずもないので、おふくろの記憶が正しいのだろう。
けど、夜の病院を歩いた記憶、夜の待合室で、そこだけ明るかったプラッシーの自販機。
そして、決まって、連れ戻しに来てくれる優しい声の看護師さん。
そして、年の近い女の子との交流……彼女とのお別れは、夜中に隣でバタバタやってると思ったら、次の日はもぬけの殻になってた。
彼女が、どうなったのかは、誰も教えてくれなかった。
記憶が混ざってたのだけど、それは多分、済生会病院での出来事。
それがフラッシュバックして、喜多村病院での眠れない夜に繋がっていた……そう考えると自然だった。
けど、その子がどうなったのか。
例の看護師さんが教えてくれた事を思い出した。
「……その子はね。多分、別の病院に移ったんだよ。だから、きっとまたどこかで会えると思うよ」
「ちゃんとお別れしたかった。僕もああなるのかな? 怖いよ」
「大丈夫だよ……。君は強い子じゃけ、無事に退院できると思うよ。さぁて、部屋に戻ろうなぁ……」
明かりも持たず、常夜灯の明かりだけですいすいと歩いていく看護師さん。
いつもほのかに香るクレゾールの匂い。
昔の看護師さんは、毎日何度もクレゾールで手を洗っていたので、身体にその匂いが染み付いてしまっていたと、そんな話を聞いた。
それと女性特有の甘い香りの入り混じった独特の匂い。
私は、その匂いが嫌いではなかった。
不思議と、この看護師さんに送ってもらうと、その日はすんなり眠れていた。
眠りに落ちるまで、手を握ってくれてたこともあった。
多分、私はこの看護師さんが大好きだったんだと思う。
けど、それだけにやっぱり、おふくろが覚えてないってのが気にかかった。
真夜中の看護師さんの記憶……。
その顔は暗闇の影に覆われていて、思い出すことが出来ない。
あれは、入院中の手持ち無沙汰が生んだ、幼い私の妄想だったのだろうか?
嫁さんから聞いた看護師のシフト体制を聞く限りでは、同じ人が二日続けて入る事はありえないんだそうだ。
ましてや、夜勤専門なんて、普通は置かない。
……そもそも、彼女は、本当にこの世の人間だったのだろうか?
でも、それを今更、追求するのは、何の意味もなかった。
それに、もし彼女がこの世ならぬ者だったとしても、悪い存在だったとはとても思えなかった。
私は、夜の闇を恐れない。
その闇の中にも、優しい存在が居ることを知っていたから。
これは……事実かどうかも定かではない、子供の頃の優しい記憶。
眠れない夜になると、彼女のことを思い出す。
いつか出会えるのだろうか、仄暗い闇の底で……。
本来、死の恐怖ってものを理解できるような歳じゃなかったんだけど。
私は同室の女の子が突然居なくなった事で、自分が死んだらどうなるかって、想像出来るようになってしまったのだ。
死んで、この世からいなくなる事……それはとても悲しい事だけど。
本人にとっては、割とどうということもない。
本人は、そこで終わりだから。
むしろ置いていかれる側、残される側がより悲しいのだと。
自分が死んでいなくなると、悲しむ人がいる。
……親が悲しむ、兄貴も悲しむ、生まればかりの弟も、解るようになったら、きっと悲しい思いをするだろう。
だから、色んな辛いことを我慢しないといけない。
4歳児の考えるようなことじゃないんだけど、私はそんな風に思っていた。
プラッシーは退院したら買って飲ませてあげる……そう言われてたから。
深夜病室を抜け出して、これを眺めるのは、私にとっては生きる希望を再確認するようなものだったのかもしれない。
「なんで怖いんかなぁ? 君、眠くないの?」
怒る訳でもなく、力づくで連れ帰るわけでもなく、看護師さんが隣でしゃがみ込むと顔を覗き込もうとする。
「……眠ると、そのまま目を覚まさないかもしれない……そう思うと、目を閉じるのが怖くなるんだ」
言いながら、私は目線を逸した。
……当時の私は人の目を見て、会話が出来なかった。
その辺もあって、人の顔をちっとも覚えない……なんとも難儀な子供だと言えた。
「そうか……そりゃ、確かに怖いかもしれないね。真っ暗なのは、怖いからね……」
看護師さんがしんみりとした口調で、そう告げる。
「暗いのは別に怖くないよ。でも、僕が死ぬとお母さんが泣いちゃう。弟ともまだ一緒に遊んでないし、このジュースも飲みたい。死んじゃったら、何も出来なくなる……それは嫌だな」
「そうか、君は……子供なのにちゃんと生きる意志があるんだね。なら、心配は要らんよ。じゃけ、子供はもう寝る時間……送っていくから、はよ、ベッドに戻ろうな」
優しい、綺麗な声の看護師さん。
普通に話してて、岡山弁がポロッと出るのは、岡山県民の女性は概ね、そんな感じだから、別に珍しくもない。
当人達はあれでも、標準語を普通に話してるつもりなのだ。
真夜中の看護師さん。
いつも私を病室に連れ戻してくれた優しい名前も顔も覚えてない看護師さん。
けど、彼女とはいつも夜にしか会えなかった……昼間に注射とかで出食わすことは、一度もなかった。
背が高くて、いつも顔が影になってて、よく見えなかったんだけど……声と気配はちゃんと覚えてて、その人が来るといつもすぐわかった。
待合室の椅子の影とかに、隠れたりしてても、あっさり見つかるので、深夜の病院探検は、この人に出食わすまでってのが定番だった。
その看護師さんの顔は、記憶の中では黒い影に覆われていて、どうしても思い出せないのだけど。
私は、人の顔を覚えられないので、それはいつものこと。
だから、気にもとめてなかった。
「……とまぁ、そんな感じで夜になると、病院の中をウロウロしては、毎回その看護師さんに見つかって、ベッドまで連れ戻されてたんだよ。トイレなんかも付き合ってくれたりしてさ」
「確かに、あんた……夜、寝付き悪かったみたいだけど、そんな事やってたんだ。でも、あの病院……夜中、看護師さんが見回りに来るって言っても、いつも日付が変わる前と、夜明け間近の二回くらいだったと思ったんだけど……。それにトイレで起きてく時って、いつも一人で行って、一人で戻ってきてなかったっけ?」
「……いや、ちゃんと病室まで一緒に来てくれてたよ。おふくろ、いつも寝てたみたいだったけど……」
「あの頃のあんたって、色々変わってたからねぇ……。でも、そんなしょっちゅうお世話になってたなら、やっぱり、アタシも覚えてると思うんだけど……覚えとらんのよ……」
「そういや、昼間は一度も会った覚えないなぁ……あの人、なんだったんだろ? いつもどこからともなく出て来て、こらぁって感じで怒られてたんだけど。夜中、ウロウロしてて、あの人以外が来たことって無かったような……」
「……怖いこと言わないでよ。と言うか、あんた……あの歳で、そんな事考えてたとか、恐れ入るわ。夜寝れないって言ってたのは、そう言う事じゃったんな。気付いてやれんで、ゴメンな」
「まぁ、俺が何があっても死なないのは、そう言う事なんじゃないかな? 自分が死んだら、悲しむ人がいる……だから、死ねない……何があっても、最後まで悪あがきをする。結構、それで紙一重で生き延びたって感じだからなぁ。今回も似たようなものだと思うよ……。正直、今後のこととか考えて、絶望しそうになったけど、こんな外の景色も見えない所で、死ねるかってなった」
「あんたも、何回、九死に一生やったら気が済むんだかね……もう、勘弁してよ。あんたの葬式に出るなんて、絶対ゴメンだから!」
さすがに、涙ぐみながら、そう言うおふくろを見て、生き延びてよかったと思った。
数十年ぶりの入院……心臓と直結してる人体で一番太い血管、大動脈に穴が開く……大動脈解離。
突如、それを発症した私は、救急車に運ばれて、三鷹市にある大学病院に、入院する羽目になった。
病室で、わざわざ上京して見舞いにきたおふくろと、昔話をしながら、そんな話になったのだけど。
どうも、私の記憶とおふくろの記憶が食い違ってるような気がした。
どっちの記憶が正しいとなると、4歳の記憶なんて、当てになるはずもないので、おふくろの記憶が正しいのだろう。
けど、夜の病院を歩いた記憶、夜の待合室で、そこだけ明るかったプラッシーの自販機。
そして、決まって、連れ戻しに来てくれる優しい声の看護師さん。
そして、年の近い女の子との交流……彼女とのお別れは、夜中に隣でバタバタやってると思ったら、次の日はもぬけの殻になってた。
彼女が、どうなったのかは、誰も教えてくれなかった。
記憶が混ざってたのだけど、それは多分、済生会病院での出来事。
それがフラッシュバックして、喜多村病院での眠れない夜に繋がっていた……そう考えると自然だった。
けど、その子がどうなったのか。
例の看護師さんが教えてくれた事を思い出した。
「……その子はね。多分、別の病院に移ったんだよ。だから、きっとまたどこかで会えると思うよ」
「ちゃんとお別れしたかった。僕もああなるのかな? 怖いよ」
「大丈夫だよ……。君は強い子じゃけ、無事に退院できると思うよ。さぁて、部屋に戻ろうなぁ……」
明かりも持たず、常夜灯の明かりだけですいすいと歩いていく看護師さん。
いつもほのかに香るクレゾールの匂い。
昔の看護師さんは、毎日何度もクレゾールで手を洗っていたので、身体にその匂いが染み付いてしまっていたと、そんな話を聞いた。
それと女性特有の甘い香りの入り混じった独特の匂い。
私は、その匂いが嫌いではなかった。
不思議と、この看護師さんに送ってもらうと、その日はすんなり眠れていた。
眠りに落ちるまで、手を握ってくれてたこともあった。
多分、私はこの看護師さんが大好きだったんだと思う。
けど、それだけにやっぱり、おふくろが覚えてないってのが気にかかった。
真夜中の看護師さんの記憶……。
その顔は暗闇の影に覆われていて、思い出すことが出来ない。
あれは、入院中の手持ち無沙汰が生んだ、幼い私の妄想だったのだろうか?
嫁さんから聞いた看護師のシフト体制を聞く限りでは、同じ人が二日続けて入る事はありえないんだそうだ。
ましてや、夜勤専門なんて、普通は置かない。
……そもそも、彼女は、本当にこの世の人間だったのだろうか?
でも、それを今更、追求するのは、何の意味もなかった。
それに、もし彼女がこの世ならぬ者だったとしても、悪い存在だったとはとても思えなかった。
私は、夜の闇を恐れない。
その闇の中にも、優しい存在が居ることを知っていたから。
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