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弐拾参:血祭まつりを超える時
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***
無慈悲にも壊れたゲーム機に打ち付けられた更科を見て、俺は反射的に体を前に出し、
「さらし――ッ!」
更科の名前を呼ぼうとした。しかし、俺が言い切るよりも早く、更科は立ち上がり、霜杉に向き直った。更科が無事で、ひとまず安堵の息を漏らした。
だが、それも束の間で、すぐに気を引き締め直す。
このような展開は、このゲーム初めてのことだった。
「どうだ? 俺の実力はまだまだこんなものじゃねぇぞ?」
霜杉が笑みを浮かべながら、更科を挑発している。傷一つ付いていない霜杉は、息を切らすことさえしていない。まるで今のは準備運動だと言いたげな様子だ。
対して、更科は服に付いた汚れを、手で払っている。
秦野高校の大将・霜杉の強さを目の当たりにして、俺は悟る。
霜杉剣児という人間を甘く評価しすぎていたのかもしれない。もしくは血祭まつりを高く評価しすぎていたのかもしれない。
その慢心が、今になって俺の心に後悔となって襲い掛かる。
――もっと下調べをしてから、ゲームを持ち掛けるべきだった。
そんな俺の心境を感じたのか、霜杉はニヤリと笑うと、
「――慈悲深い俺が、特別ルールを追加してやろう。お前がやられたとしても、ゲームオーバーにしないでやるよ。あいつに戦う権利を与えてやる」
俺を指差して言った。
違う。慈悲なんかじゃない。あいつは更科を倒してから、俺のことを嬲るつもりだ。
散々煽った更科への報復のつもりだろう。倒れた更科の前で、俺のことを痛めつけて、精神的にも傷つけるつもりなのだ。
霜杉が今提示した案は、慈悲でも何でもなく、ただの残虐性だけが露わになった最悪な案だ。
俺は自分の無力さに唇を噛んだ。回らない思考をフル回転させ、何とか改善策を見つけようとする。だけど、何も思いつかない。
更科茉莉に頼ること以外、この場を切り抜ける方法はない。
俺は更科の背中を縋るように見つめた。
すると、更科は首を横に振り、
「いい。どっちにしろ、あんたは悠陽のところまで行けないわ」
霜杉を真っ直ぐに捉えながら言った。更科の口調は、自信に満ち満ちている。まだ更科の心に戦意は失われていなかった。
「……後悔しても知らねぇぞ」
更科は右足のつま先で床を叩く。まるで床の感触を確かめるように、何度も何度も叩いている。
その動きは霜杉の言葉を無言で否定しているようだ。
そして、つま先の動きを止めると同時、更科は霜杉に向かって駆け出した。その動きは、先ほどと変わらない。
「馬鹿の一つ覚えだな」
霜杉が失望したとばかりに溜め息を吐く。同時、霜杉も更科に向かって走り出していた。
二人の距離が近づく中、先に攻撃を仕掛けたのは霜杉だった。
霜杉が思い切り拳で殴り掛かりに来る。しかし、今回の更科は霜杉の攻撃を的確に見切って、華麗に身を翻し、霜杉の背後を取った。更科に後ろを取られたことに気付いた霜杉が、思い切り振り返り様、肘打ちを繰り出す。更科は再び身を反転させ、霜杉の攻撃を躱す。
更科の素早い動きに、霜杉はついて行くことが出来ていなかった。これならば、先ほどのように霜杉の攻撃を受けることはないだろう。
そして、霜杉が隙を見せた瞬間に風船を狙えば、更科の勝ちだ。
俺は勝利の方程式を見つけたことに、拳を握った。圧倒的不利な条件の中でも、勝利を飾る更科に尊敬の念さえ抱く。
しかし、そんな淡い幻想を打ち砕くように霜杉は、
「……速さだけは認めてやるよ。けどな」
口を開き、立ち止まる。
その隙を狙って、更科が霜杉の風船を目がけて渾身の右ストレートを放つ。
「所詮、攻撃される場所が分かってれば、何の意味もねェ!」
更科が風船に向けて拳を伸ばしたところで、霜杉がその腕を掴む。そして、そのまま更科の勢いに合わせて、霜杉は更科のことを思い切り投げ飛ばした。
更科は女子で、体重も軽い。だから、霜杉に投げられた更科は、勢いよく宙を舞ってしまっている。このままだと、頭から壁にぶつかってしまう。更科を受け止めてあげたいが、今の距離だと確実に間に合わない。
しかし、更科は壁に激突する手前、思い切り壁に向けて拳圧を放つことによって、勢いを殺そうとした。更科が拳を振るうと、轟音と共に風が起こる。それでも勢いを完全に殺すことが出来ず、壁にぶつかることはなかったが、鈍い音を立てて地面に背中から着く。そのまま、ダメージの衝撃を拡散するために地面を転がった。
そして、ようやく止まった更科は、すぐに霜杉に体を向ける。霜杉の追撃に対応するためだ。更科の服は、至る所が汚れてしまっている。
しかし、霜杉は追撃することなく、その場に足を留めていた。何か違和感を覚えたのだろうか、霜杉は震える手でゆっくりと自身の左頬に触れようとしている。
その隙に、更科は立ち上がり、霜杉の攻撃に対抗できるように拳を構えた。
目の前で体勢を立て直した更科など一切気にも留めず、霜杉が左頬に触れた。
「ッ!?」
そして、霜杉は自身の左の手のひらを見て、目を見開いた。血だ。霜杉の左手には血が付着している。霜杉の左頬に、いつの間にか傷があった。
先ほどまではなかったはずなのに、いつの間にあんな傷が出来ていたのだろう。更科がルールを破ってまで、霜杉に拳を当てていたのだろうか。
否。俺はその思考に至って、即座に首を横に振った。
更科がルールを破るはずがない。
霜杉の左頬に傷を入れたもの――、それは攻撃でもなんでもない、ただの拳圧だ。更科が投げ飛ばされた勢いを殺そうと壁に向かって振るった拳の風が、霜杉にまで届いたという話だ。
一応、ルールには抵触していない。更科は意図的に霜杉を傷付けた訳ではなく、防衛のために壁に向けて拳を振っただけだ。
しかし、だからといって、霜杉が納得できるわけもない。
「うぉぉぉおおおぉあああぁあ!」
己の頬に傷付いたことを知った霜杉は、怒りに狂った奇声を上げた。
「許せねぇ許せねぇ許せねェえ!」
霜杉の豹変ぶりに、誰も言葉を挟むことが出来ない。
初めて会った時から予兆はあった。霜杉は自分の想像したように事が進まないと、怒りを露わにしていた。だから、霜杉には隠し通している裏の顔があることは、薄々気づいていた。
しかし、まさかここまでだとは誰が予想することが出来ただろうか。
霜杉は見開いた瞳孔を、更科に向ける。更科は臆することなく平然と霜杉のことを見つめ返した。
「俺がお前みたいな女に傷をつけられたなんて……、認めてたまるかぁぁあああぁ!」
左頬の傷――、それが更に霜杉の逆鱗に触れてしまったのだろう。
霜杉は大きな舌打ちを鳴らし、怒りの声を上げると、更科に向かって走り出していた。今の霜杉は普通ではない。怒り狂ったその姿は、人間の皮を被った化け物だ。秦野高校の人達の間でも、霜杉に対する反応は二極化していた。霜杉と同世代の人は呆れたような態度を取り、霜杉の後輩に該当する人たちは初めて見るその姿に顔を真っ青にしている。
恐らく、この状態の霜杉剣児が、秦野高校で下克上を成し遂げたのだろう。
更科は変わってしまった霜杉を相手にしても逃げようとせず、あくまで立ち向かうようだった。
霜杉があっという間に更科の前に立つ塞がると同時、何度も拳を繰り出した。最初の内、更科は片腕を出して的確に防いでいた。しかし、霜杉の拳一つ一つは重く、更科が出した腕は弾き飛ばされる。もう片方の腕で防いでも、同様の展開だ。
このままではガードを崩され、風船を割られてしまう。
そう判断した更科は、最初の数度を防いだ後は、身を丸めて風船を守ることだけに専念した。
その更科の判断は正解だった。
怒り狂った霜杉の猛撃は止まることを知らず、幾度も更科の体を傷つけていく。更科は風船を守るだけで精一杯なようだ。
「ッラァ!」
そして、霜杉の右拳が更科の左脇腹を狙って襲い掛かる。その速さは凄まじく、本気で攻撃を仕掛けていることが見て取れる。更科は手前で守りに徹していた左腕を動かした。
「――キャッ!」
しかし、咄嗟に左腕でガードをしたものの、まともに攻撃を喰らってしまい、更科は悲鳴にも似た小さな嗚咽を漏らした。その勢いに更科は耐えることが出来ず、再び飛ばされてしまう。今度はまともに右半身から壁に打ち付けられてしまった。
更科は力なく壁に寄り添って、地面にずり落ちた。更科の苦痛に満ちた息遣いが、YOMIの中に響き渡る。
更科の様子も眺めても、霜杉は歯を見せることなく、真剣な表情を貫いていた。もう彼には余裕も慢心もない。本気で更科を潰しに来ている。
俺はあまりの力の差に、顔を俯かせた。もう更科が傷つく様を見ていたくなかった。
誰も傷つかないようにと選んだ風船割りゲームだったが、まさかこんな展開になるとは予想もしていなかった。
興奮して肩を上下させる霜杉は、
「俺はなぁ! この立場になるまで幾度の死線を潜って来たんだ! 秦野高校のトップになってからも、何人もの猛者をこの手で討ち取って来た! 誰にも負けねぇ! 伝説の不良で知られる国士無双だろうが血祭まつりだろうが、俺の敵じゃねぇ! ああ、そうだ! この俺、霜杉剣児が新たな伝説になるんだァ!」
拳を握りながら吼えた。
誰も何も言えなかった。呼吸さえ忘れたように、静かにゲームの行く末を見守る。
ちなみに、今霜杉が上げた名前――、この二人は東西を代表する伝説の不良だ。
その内の一人である国士無双は、本名はミクニツカサといい、確か俺や更科と同年代だった気がする。年上と対峙した時も無類の強さで戦場を無双した彼は、昔――、中学に入学し始めた頃、あまりの度が過ぎる罪を犯し、今は少年院に送られているというニュースを聞いたことがある。しかし、関西圏の人間だから、詳しいことは知らない。ただこんな離れた関東の地にも噂が届くほど、危ない奴だということは確かだ。
もう一人、血祭まつりは言わずもがな――、むしろ本人が目の前にいる。
霜杉は興奮のあまり肩で息をしていた。呼吸が荒いが、闘志は増していく一方だ。
伝説の不良と謳われる二人の人物の名前を出して、堂々と勝ち誇れるということはそれだけ自分の実力に自信があるのだろう。あの秦野高校の上下関係の制度を覆したことも自信に繋がっているのかもしれない。
更科は立ち上がらない。立ち上がれない。血祭まつりという名前が霜杉の口から出てきて、動揺を隠せないようだ。
弱っている更科を見て、霜杉は大きな舌打ちを奏でる。
「それをテメーなんかに台無しにされるなんてあってはならねぇんだよォ! 俺は国士無双でさえも血祭まつりでさえも成し得なかったことを成して! 誰も俺に逆らえないようにしてやる! 俺がこの国のトップに立ってやらァ!」
「――あんたに血祭まつりの何が分かるのよ」
更科の口から小さく言葉が漏れた。その言葉に、霜杉はゆっくりと顔を更科に向ける。
更科はまだ座り込んだまま、立ち上がっていない。
けど、霜杉は飲み込まれたように身動きを取ることが出来なかった。
「あいつは、結果としては関わる人みんな傷付けて、血祭まつりなんて祭り上げられる形になってしまったけど――」
その口調には、どこか自分を卑下するような嘲笑が交えられているように聞こえた。
更科は右拳を握り締め、地面に触れる。まるで過去を閉じ込めるように、強く、強く拳を握り締めている。
しかし、すぐに首を横に振ると、
「血祭まつりは、あんたのように天下を取ろうとしたり、全てを支配したいから、強さを求めたんじゃない。守りたいものがあったから、強くなろうとしてたの」
片膝を立て、体を持ち上げようとする。
「あいつも、普通の人となんら変わらない、ただの女の子。……ううん、それに今なろうとしてるの!」
そして、更科は壁に手を添えずに、自力で立ち上がった。更科からは闘志が消えていない。
更科の熱の籠った口調に、霜杉は何も言えずに黙って見ていた。霜杉が一歩だけ後退ったのを、俺は見逃さない。
そんな時だった。
「ねぇ」
更科の甘く語り掛けるような一言が、この場にいる人々の耳を撫ぜ――、
「あなたがあの血祭まつりを本当に超えているのか、私に見せてよ」
無慈悲にも壊れたゲーム機に打ち付けられた更科を見て、俺は反射的に体を前に出し、
「さらし――ッ!」
更科の名前を呼ぼうとした。しかし、俺が言い切るよりも早く、更科は立ち上がり、霜杉に向き直った。更科が無事で、ひとまず安堵の息を漏らした。
だが、それも束の間で、すぐに気を引き締め直す。
このような展開は、このゲーム初めてのことだった。
「どうだ? 俺の実力はまだまだこんなものじゃねぇぞ?」
霜杉が笑みを浮かべながら、更科を挑発している。傷一つ付いていない霜杉は、息を切らすことさえしていない。まるで今のは準備運動だと言いたげな様子だ。
対して、更科は服に付いた汚れを、手で払っている。
秦野高校の大将・霜杉の強さを目の当たりにして、俺は悟る。
霜杉剣児という人間を甘く評価しすぎていたのかもしれない。もしくは血祭まつりを高く評価しすぎていたのかもしれない。
その慢心が、今になって俺の心に後悔となって襲い掛かる。
――もっと下調べをしてから、ゲームを持ち掛けるべきだった。
そんな俺の心境を感じたのか、霜杉はニヤリと笑うと、
「――慈悲深い俺が、特別ルールを追加してやろう。お前がやられたとしても、ゲームオーバーにしないでやるよ。あいつに戦う権利を与えてやる」
俺を指差して言った。
違う。慈悲なんかじゃない。あいつは更科を倒してから、俺のことを嬲るつもりだ。
散々煽った更科への報復のつもりだろう。倒れた更科の前で、俺のことを痛めつけて、精神的にも傷つけるつもりなのだ。
霜杉が今提示した案は、慈悲でも何でもなく、ただの残虐性だけが露わになった最悪な案だ。
俺は自分の無力さに唇を噛んだ。回らない思考をフル回転させ、何とか改善策を見つけようとする。だけど、何も思いつかない。
更科茉莉に頼ること以外、この場を切り抜ける方法はない。
俺は更科の背中を縋るように見つめた。
すると、更科は首を横に振り、
「いい。どっちにしろ、あんたは悠陽のところまで行けないわ」
霜杉を真っ直ぐに捉えながら言った。更科の口調は、自信に満ち満ちている。まだ更科の心に戦意は失われていなかった。
「……後悔しても知らねぇぞ」
更科は右足のつま先で床を叩く。まるで床の感触を確かめるように、何度も何度も叩いている。
その動きは霜杉の言葉を無言で否定しているようだ。
そして、つま先の動きを止めると同時、更科は霜杉に向かって駆け出した。その動きは、先ほどと変わらない。
「馬鹿の一つ覚えだな」
霜杉が失望したとばかりに溜め息を吐く。同時、霜杉も更科に向かって走り出していた。
二人の距離が近づく中、先に攻撃を仕掛けたのは霜杉だった。
霜杉が思い切り拳で殴り掛かりに来る。しかし、今回の更科は霜杉の攻撃を的確に見切って、華麗に身を翻し、霜杉の背後を取った。更科に後ろを取られたことに気付いた霜杉が、思い切り振り返り様、肘打ちを繰り出す。更科は再び身を反転させ、霜杉の攻撃を躱す。
更科の素早い動きに、霜杉はついて行くことが出来ていなかった。これならば、先ほどのように霜杉の攻撃を受けることはないだろう。
そして、霜杉が隙を見せた瞬間に風船を狙えば、更科の勝ちだ。
俺は勝利の方程式を見つけたことに、拳を握った。圧倒的不利な条件の中でも、勝利を飾る更科に尊敬の念さえ抱く。
しかし、そんな淡い幻想を打ち砕くように霜杉は、
「……速さだけは認めてやるよ。けどな」
口を開き、立ち止まる。
その隙を狙って、更科が霜杉の風船を目がけて渾身の右ストレートを放つ。
「所詮、攻撃される場所が分かってれば、何の意味もねェ!」
更科が風船に向けて拳を伸ばしたところで、霜杉がその腕を掴む。そして、そのまま更科の勢いに合わせて、霜杉は更科のことを思い切り投げ飛ばした。
更科は女子で、体重も軽い。だから、霜杉に投げられた更科は、勢いよく宙を舞ってしまっている。このままだと、頭から壁にぶつかってしまう。更科を受け止めてあげたいが、今の距離だと確実に間に合わない。
しかし、更科は壁に激突する手前、思い切り壁に向けて拳圧を放つことによって、勢いを殺そうとした。更科が拳を振るうと、轟音と共に風が起こる。それでも勢いを完全に殺すことが出来ず、壁にぶつかることはなかったが、鈍い音を立てて地面に背中から着く。そのまま、ダメージの衝撃を拡散するために地面を転がった。
そして、ようやく止まった更科は、すぐに霜杉に体を向ける。霜杉の追撃に対応するためだ。更科の服は、至る所が汚れてしまっている。
しかし、霜杉は追撃することなく、その場に足を留めていた。何か違和感を覚えたのだろうか、霜杉は震える手でゆっくりと自身の左頬に触れようとしている。
その隙に、更科は立ち上がり、霜杉の攻撃に対抗できるように拳を構えた。
目の前で体勢を立て直した更科など一切気にも留めず、霜杉が左頬に触れた。
「ッ!?」
そして、霜杉は自身の左の手のひらを見て、目を見開いた。血だ。霜杉の左手には血が付着している。霜杉の左頬に、いつの間にか傷があった。
先ほどまではなかったはずなのに、いつの間にあんな傷が出来ていたのだろう。更科がルールを破ってまで、霜杉に拳を当てていたのだろうか。
否。俺はその思考に至って、即座に首を横に振った。
更科がルールを破るはずがない。
霜杉の左頬に傷を入れたもの――、それは攻撃でもなんでもない、ただの拳圧だ。更科が投げ飛ばされた勢いを殺そうと壁に向かって振るった拳の風が、霜杉にまで届いたという話だ。
一応、ルールには抵触していない。更科は意図的に霜杉を傷付けた訳ではなく、防衛のために壁に向けて拳を振っただけだ。
しかし、だからといって、霜杉が納得できるわけもない。
「うぉぉぉおおおぉあああぁあ!」
己の頬に傷付いたことを知った霜杉は、怒りに狂った奇声を上げた。
「許せねぇ許せねぇ許せねェえ!」
霜杉の豹変ぶりに、誰も言葉を挟むことが出来ない。
初めて会った時から予兆はあった。霜杉は自分の想像したように事が進まないと、怒りを露わにしていた。だから、霜杉には隠し通している裏の顔があることは、薄々気づいていた。
しかし、まさかここまでだとは誰が予想することが出来ただろうか。
霜杉は見開いた瞳孔を、更科に向ける。更科は臆することなく平然と霜杉のことを見つめ返した。
「俺がお前みたいな女に傷をつけられたなんて……、認めてたまるかぁぁあああぁ!」
左頬の傷――、それが更に霜杉の逆鱗に触れてしまったのだろう。
霜杉は大きな舌打ちを鳴らし、怒りの声を上げると、更科に向かって走り出していた。今の霜杉は普通ではない。怒り狂ったその姿は、人間の皮を被った化け物だ。秦野高校の人達の間でも、霜杉に対する反応は二極化していた。霜杉と同世代の人は呆れたような態度を取り、霜杉の後輩に該当する人たちは初めて見るその姿に顔を真っ青にしている。
恐らく、この状態の霜杉剣児が、秦野高校で下克上を成し遂げたのだろう。
更科は変わってしまった霜杉を相手にしても逃げようとせず、あくまで立ち向かうようだった。
霜杉があっという間に更科の前に立つ塞がると同時、何度も拳を繰り出した。最初の内、更科は片腕を出して的確に防いでいた。しかし、霜杉の拳一つ一つは重く、更科が出した腕は弾き飛ばされる。もう片方の腕で防いでも、同様の展開だ。
このままではガードを崩され、風船を割られてしまう。
そう判断した更科は、最初の数度を防いだ後は、身を丸めて風船を守ることだけに専念した。
その更科の判断は正解だった。
怒り狂った霜杉の猛撃は止まることを知らず、幾度も更科の体を傷つけていく。更科は風船を守るだけで精一杯なようだ。
「ッラァ!」
そして、霜杉の右拳が更科の左脇腹を狙って襲い掛かる。その速さは凄まじく、本気で攻撃を仕掛けていることが見て取れる。更科は手前で守りに徹していた左腕を動かした。
「――キャッ!」
しかし、咄嗟に左腕でガードをしたものの、まともに攻撃を喰らってしまい、更科は悲鳴にも似た小さな嗚咽を漏らした。その勢いに更科は耐えることが出来ず、再び飛ばされてしまう。今度はまともに右半身から壁に打ち付けられてしまった。
更科は力なく壁に寄り添って、地面にずり落ちた。更科の苦痛に満ちた息遣いが、YOMIの中に響き渡る。
更科の様子も眺めても、霜杉は歯を見せることなく、真剣な表情を貫いていた。もう彼には余裕も慢心もない。本気で更科を潰しに来ている。
俺はあまりの力の差に、顔を俯かせた。もう更科が傷つく様を見ていたくなかった。
誰も傷つかないようにと選んだ風船割りゲームだったが、まさかこんな展開になるとは予想もしていなかった。
興奮して肩を上下させる霜杉は、
「俺はなぁ! この立場になるまで幾度の死線を潜って来たんだ! 秦野高校のトップになってからも、何人もの猛者をこの手で討ち取って来た! 誰にも負けねぇ! 伝説の不良で知られる国士無双だろうが血祭まつりだろうが、俺の敵じゃねぇ! ああ、そうだ! この俺、霜杉剣児が新たな伝説になるんだァ!」
拳を握りながら吼えた。
誰も何も言えなかった。呼吸さえ忘れたように、静かにゲームの行く末を見守る。
ちなみに、今霜杉が上げた名前――、この二人は東西を代表する伝説の不良だ。
その内の一人である国士無双は、本名はミクニツカサといい、確か俺や更科と同年代だった気がする。年上と対峙した時も無類の強さで戦場を無双した彼は、昔――、中学に入学し始めた頃、あまりの度が過ぎる罪を犯し、今は少年院に送られているというニュースを聞いたことがある。しかし、関西圏の人間だから、詳しいことは知らない。ただこんな離れた関東の地にも噂が届くほど、危ない奴だということは確かだ。
もう一人、血祭まつりは言わずもがな――、むしろ本人が目の前にいる。
霜杉は興奮のあまり肩で息をしていた。呼吸が荒いが、闘志は増していく一方だ。
伝説の不良と謳われる二人の人物の名前を出して、堂々と勝ち誇れるということはそれだけ自分の実力に自信があるのだろう。あの秦野高校の上下関係の制度を覆したことも自信に繋がっているのかもしれない。
更科は立ち上がらない。立ち上がれない。血祭まつりという名前が霜杉の口から出てきて、動揺を隠せないようだ。
弱っている更科を見て、霜杉は大きな舌打ちを奏でる。
「それをテメーなんかに台無しにされるなんてあってはならねぇんだよォ! 俺は国士無双でさえも血祭まつりでさえも成し得なかったことを成して! 誰も俺に逆らえないようにしてやる! 俺がこの国のトップに立ってやらァ!」
「――あんたに血祭まつりの何が分かるのよ」
更科の口から小さく言葉が漏れた。その言葉に、霜杉はゆっくりと顔を更科に向ける。
更科はまだ座り込んだまま、立ち上がっていない。
けど、霜杉は飲み込まれたように身動きを取ることが出来なかった。
「あいつは、結果としては関わる人みんな傷付けて、血祭まつりなんて祭り上げられる形になってしまったけど――」
その口調には、どこか自分を卑下するような嘲笑が交えられているように聞こえた。
更科は右拳を握り締め、地面に触れる。まるで過去を閉じ込めるように、強く、強く拳を握り締めている。
しかし、すぐに首を横に振ると、
「血祭まつりは、あんたのように天下を取ろうとしたり、全てを支配したいから、強さを求めたんじゃない。守りたいものがあったから、強くなろうとしてたの」
片膝を立て、体を持ち上げようとする。
「あいつも、普通の人となんら変わらない、ただの女の子。……ううん、それに今なろうとしてるの!」
そして、更科は壁に手を添えずに、自力で立ち上がった。更科からは闘志が消えていない。
更科の熱の籠った口調に、霜杉は何も言えずに黙って見ていた。霜杉が一歩だけ後退ったのを、俺は見逃さない。
そんな時だった。
「ねぇ」
更科の甘く語り掛けるような一言が、この場にいる人々の耳を撫ぜ――、
「あなたがあの血祭まつりを本当に超えているのか、私に見せてよ」
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(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
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