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4-22 雨が止んだら
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***
まるで蛇のように纏わりつく闇。耳心地がよく、甘美な声に、全てを委ねたくなる。
だけど、今は違う。この闇を振り払いたいと思い始めている自分がいる。
――それは都合が良すぎるんじゃないのか。お前は今までたくさんの人を傷付けた。
抵抗する意志を、根こそぎ奪われる。このままでいい、と声は言う。このままにしかなれない、と声は語る。その通りだ。生まれてからずっと、人から意味もなく虐げられて来た。それは、ピンデの持つ性根みたいなものが、根本的に人と合わないということだろう。
――そうだ。お前には独りが似合う。誰にも理解されず、誰とも分かち合えないまま死ぬのさ。欲望に抗うな、全てを委ねろ。お前は独りでも生きていける力がある。
ピンデの中で一瞬芽生えた自分自身に対する疑心暗鬼に、すかさず言葉が入り込んで来る。頭では嫌だと思うのに、心が否定してくれない。囁かれた言葉が、心の中で呪文のように繰り返されていく。
もう抵抗することにさえ意味がないのなら、このまま闇に溺れて、思うがままに生きていくのもありかもしれない――、そう思ってしまった。
その瞬間、ピンデに纏わりついていた闇が強くなった。絡みつかれ、縛られたと表現するのが適切かもしれない。
このまま闇に引き摺り落される。
そう思った瞬間、
――闇を打ち消し、あなたを救う!
黒一色しかなかった世界に、白が混ざり込む。その白に、ピンデを縛り付けていた闇は、力を失ったようにするりと解け、奥へと追いやられていった。今ピンデの肩は、嘘のように軽い。ピンデの心は、どこへでも飛べると思えてしまうほど、自由になった。
――あなたはこの世界で一人で生きている訳ではありません。必ずあなたを本当の意味で受け入れてくれる人はいます。
光から言葉が降り注がれる。先ほどの声と同じように、脳内に直接響くような感覚だった。しかし、先ほどと違うのは、その言葉が不思議とピンデの心に沁み渡り、新たに光となっていくことだ。
――だから、もう一度歩いてみましょう。今度は、闇ではなく未来の中を。
そして、光がピンデを照らす。その光は、まるで手の形をしているかのようにピンデには見えた。
ピンデは迷いなく、その手を掴む。ピンデが掴んだ手は、そのままピンデのことを引っ張り上げ、光輝く世界へと連れて行った。自身が掴んだ手を温かいと思うことは、初めてのことだった。
もう、後ろは振り返らない。
「う、うっ……」
ピンデは現実に意識が戻ると、背中全体で地面のぬかるみを感じ、自身が倒れていることを悟った。
ピンデは記憶の整理をする。衝動に任せて暴れ回り、脳天に衝撃を喰らったと思ったら、変な感覚を受けて――、ピンデの記憶は朧気で拙かった。ペシャルが潰されてから、憤りを感じたところまでは正確に憶えているのだが、どうもその先の記憶が曖昧だ。
けれど、確かに分かることはいくつかある。ピンデが暴れた時はずっと負の感情が心を渦巻いていたこと、その間に傷付けた人がいること――、そして自分を闇の中から助け出してくれた人がいること、だ。
誰にも顔を向けることは出来なかった。ピンデは自分の弱った顔を見られないように、左腕を使って自分の目元を隠した。
しかし、ピンデの想いとは裏腹に、ピチャピチャと音を立てながらゆっくり近付いて来る足音が耳に響いた。
「いつまでも、雨は、やまねぇ……」
その足音の持ち主を――、自らを打ち負かしたクルムだと本能的に分かって、ピンデは弱々しく言葉を紡ぐ。
「……闇、から、解放されたって……、俺には、何も……ないんだ。……結局、変われねぇ……」
ピンデはクルムに縋るように声を振り絞るだけだ。
「……なぁ、教えて、くれよ……。俺は、これから、どうやって……」
「手を下ろしてみてください」
クルムの声は自信に満ちつつも、どこか悪戯を思い付いた子供のような無邪気な声が混同していた。
「――?」
ピンデは訳の分からないまま、顔を覆っていた腕をどかす。瞑っていた瞳をゆっくりと開き、ピンデの視界に世界が映り込むと、そこは――、
「ッ!」
先ほどまで曇天としていた空が、嘘のように見事晴れ渡っていた。
いつの間に、こんな空模様になっていたのか。眩しいほどの蒼が、ピンデの瞳を占めていく。まじまじと青空を見上げるのは、ピンデが物心ついてからは初めてだった。今までの人生の中で、ピンデは地面しか見つめて生きて来なかったからだ。
その晴天に、黒い影が一つ遠ざかっていくのが見えた。見る者へ本能的に畏怖の念を与えるような禍々しい姿をした黒い影は、その姿に反して逃げ惑っているようにピンデの目に映った。
「もう、あなたを縛るものはありませんよ」
クルムの言葉と微かな銃声と共に、まるで太陽に焦がされたように影が消滅した。一瞬の出来事に加え、塵一つ残っていないため、本当に怪しい影が空に浮かんでいたのか疑問にさえ思えて来る。今目の当たりにした現象が、現か幻か、ピンデにはよく分からない。けれど、ピンデは憑き物が取れたように、パッと心が晴れたような気がした。生まれてこの方、初めての感覚だ。
ピンデは心を開放したい気分に駆られ、衝動のままに身体を大の字に広げた。自然と涙が込み上げた。それを恥じることも隠すこともしない。
「は、ははっ、空ってこんなに広いんだな……」
なんて晴れ渡った空、なんて清々しい気分。ピンデは自分が生まれ変わったような気分になっていた。横でクルムが笑んでくれているのを感じる。
だけど、心が変わろうと、ピンデを取り巻く現実はそう簡単に変わらない。人の心は天気のように移ろうというけれど、天気のように一目瞭然と変わる訳ではない。
ピンデは涙を流しながら、嘲笑を浮かべると、
「でも、こんなに世界は広くても俺に……、今更居場所なんて……」
「……視野を広げれば、意外と簡単に見つかるものですよ? ただその手を掴めるかどうかです」
「……? どういう……」
問いが言葉になる間もなく、大の字になって倒れ込むピンデに向かって一人分の足音が近づいて来た。ピンデは倒れ込んだまま、瞳だけを足音が聞こえる方角に向ける。
「――ここで私達と暮らしませんか?」
視線の先には、ピンデにとって意外そのものな人物、オッドがいた。オッドは仰向けになっているピンデとなるべく視線を合わせるようにしゃがみ込んでいる。
意外な人物であることに加え、予想さえもしていなかった言葉に、ピンデの口はポカンと開いたままだ。唖然とするピンデを見ながら、オッドは薄く微笑んだ。
「ダイバースは日陰の町です。ここで身を隠せば、あなたの過ちは全て水に流せます」
オッドの言葉に具体性が増していくにつれて、ピンデはようやくオッドが言わんとすることを理解することが出来た。
つまり、ピンデは敵であった人間に憐れまれて、お情けを掛けられているのだ。
これほど屈辱的なことはあるだろうか。ピンデは奥歯を噛み締め、立ち上がろうとする。しかし、思いの他、体へのダメージが重いのか、一人で起き上がることは叶わない。
当然ピンデは知る由もないが、悪魔に体を委ねて魔技を繰り出すことは、生身の人間にとって相当な体力と気力を消耗させることになる。悪魔に精神を握られ、体の感覚がなくなっていなければ、普通の人間に扱える代物ではないのだ。人間離れした力を使う代償を体でもって払うのは当たり前のことだろう。
ピンデは体が動かないことを恨めしく思いながら、敵意を孕んだ視線をオッドに向ける。
「テメェ! 馬鹿なこと……、抜かしてんじゃねぇよ! 俺は、この町を苦しめた……ペシャルの一員なんだぞ! そんな道理が通じると思ってるのか! それにもし俺が裏切って、またお前らを――」
「でも、もうペシャルはありません。だから、今のあなたは、何でもないただの一人の人……ですよね」
「――」
ふざけた道理だ、とピンデは思った。そんな言葉は、ペシャルがなくなったから言えるのだ。
仮に、そもそもペシャルが存在しない世界があったとして。そこで、オッドと出会っていたら、オッドはピンデと関わろうともしなかっただろう。実際ピンデはペシャルに所属していなくても、誰からも構ってもらえなかった。
だけど、何故かピンデという人間が一般の人間にも認められたような気がして、胸に熱い何かが込み上げて来た。
言葉を失ったピンデに一瞬視線を流すと、オッドは空を見上げた。
「私は今までダイバースで生きて来ました。ずっと誰かの支配下にあるこの町を、誰もが見放すこの町を、幼い頃からずっとそういうものだと受け入れて来ました。それが日常だったからです。自分の命が絶たれないために、自分という存在を押し殺して、死んだように生きていました」
オッドは自分の過去を手繰り寄せるように淡々と語る。その横顔は、どこか哀愁が漂うものだった。
誰からも受け入れられず自分の居場所がなかったピンデと、圧倒的な力により自分達の居場所を奪われ続けたオッドとダイバースの住人たち。立場は違えど、どこか通ずるものがあった。
同情するつもりはないが、ピンデは上手く言葉を出すことが出来なかった。
しかし、空を見上げて追憶していたはずのオッドの瞳が、急にピンデのことを捉えた。死んだように虚ろとなっていたオッドの瞳は、もうどこにもない。真っ直ぐ力強く、ピンデのことを見つめている。
「でも、それは違うと、ようやく気付きました。私は、この町を変えたい。死んだ町に息を吹き返してみたい。これが、誰にも言えず、今まで私が胸の内に隠して来た本当の想いです。もし、この想いをもっと早く打ち明けていたら、この町も今とは違う姿になっていたかもしれません……」
晴天に包まれた空の下でも尚、ダイバースの家々はどこか暗い印象を与える。家のあちこちに蜘蛛の巣が掛かっていたり、雑草が絡みついている。ピンデによって、家の一部が破壊されている場所だってある。けれど、その外観を抜きにして、立ち寄りがたい雰囲気が町中から漂っているのだ。それはもうダイバースが持つ気質と言うべきであろう。
「けど、遅すぎることなんてなかったんです。今だからこそ、この町を変えるべきなんです。ダイバースを新しくするために、一人でも多くの人の力が必要です。……だから、私達を助けるために、どうか力を貸していただけませんか、ピンデさん」
そう言って、オッドはピンデに向かって手を伸ばした。
「……ッ」
ピンデは今までこの町の住人に対して、悪事を働き続けていた。どれほどダイバースの住人を苦しめたのかは分からない。だから、どんな面をしてその手を掴む権利がピンデにあるというのか。今まで居場所を欲し続けたけれど、オッドの厚意にだけは甘えてはいけない。
己の心にそう自戒して、ピンデはオッドの手を弾くために手を伸ばした。
「――」
だけど、実際はオッドの手を弾くことなんて出来なくて――。ただただ声もなく、オッドの手を握っていた。
こんなに人から必要とされたことは初めてだった。今まで利用されて来たことはあったけれど、純粋に困っているから助けて欲しい、なんて言われたことは一度もなかった。
だから、その想いに応えたい。
一度は傷付けて来た人間に、償うことが出来るなら償いたい。
ピンデにとって都合のいい結末だけれども、素直になった心には逆らえない。
横になったまま、ピンデの右手はオッドに握られていて、左手はまた目元を覆い隠していた。今のピンデの表情は、誰にも見せたくなかった。きっと今までで一番情けない顔を浮かべていることだろう。
「ありがとうございます。良い町にしましょう、絶対に」
オッドは目を合わせることのないピンデを気にせず、繋いだ手を離すことなくそう言った。
「あ、それと――、私はもうピンデさんが誰かを傷付けるとは思っていません。もう人の痛みがどういうものか、自分のも他人のもひっくるめて、気付いているはずですから」
この町で生きて来た中で、とびっきりの笑顔を見せて、オッドはそう言った。ピンデは握る手の先の人物には、到底勝てそうにないなと悟ってしまった。
そんな二人の様子を、クルムは微笑ましく見守っていた。
まるで蛇のように纏わりつく闇。耳心地がよく、甘美な声に、全てを委ねたくなる。
だけど、今は違う。この闇を振り払いたいと思い始めている自分がいる。
――それは都合が良すぎるんじゃないのか。お前は今までたくさんの人を傷付けた。
抵抗する意志を、根こそぎ奪われる。このままでいい、と声は言う。このままにしかなれない、と声は語る。その通りだ。生まれてからずっと、人から意味もなく虐げられて来た。それは、ピンデの持つ性根みたいなものが、根本的に人と合わないということだろう。
――そうだ。お前には独りが似合う。誰にも理解されず、誰とも分かち合えないまま死ぬのさ。欲望に抗うな、全てを委ねろ。お前は独りでも生きていける力がある。
ピンデの中で一瞬芽生えた自分自身に対する疑心暗鬼に、すかさず言葉が入り込んで来る。頭では嫌だと思うのに、心が否定してくれない。囁かれた言葉が、心の中で呪文のように繰り返されていく。
もう抵抗することにさえ意味がないのなら、このまま闇に溺れて、思うがままに生きていくのもありかもしれない――、そう思ってしまった。
その瞬間、ピンデに纏わりついていた闇が強くなった。絡みつかれ、縛られたと表現するのが適切かもしれない。
このまま闇に引き摺り落される。
そう思った瞬間、
――闇を打ち消し、あなたを救う!
黒一色しかなかった世界に、白が混ざり込む。その白に、ピンデを縛り付けていた闇は、力を失ったようにするりと解け、奥へと追いやられていった。今ピンデの肩は、嘘のように軽い。ピンデの心は、どこへでも飛べると思えてしまうほど、自由になった。
――あなたはこの世界で一人で生きている訳ではありません。必ずあなたを本当の意味で受け入れてくれる人はいます。
光から言葉が降り注がれる。先ほどの声と同じように、脳内に直接響くような感覚だった。しかし、先ほどと違うのは、その言葉が不思議とピンデの心に沁み渡り、新たに光となっていくことだ。
――だから、もう一度歩いてみましょう。今度は、闇ではなく未来の中を。
そして、光がピンデを照らす。その光は、まるで手の形をしているかのようにピンデには見えた。
ピンデは迷いなく、その手を掴む。ピンデが掴んだ手は、そのままピンデのことを引っ張り上げ、光輝く世界へと連れて行った。自身が掴んだ手を温かいと思うことは、初めてのことだった。
もう、後ろは振り返らない。
「う、うっ……」
ピンデは現実に意識が戻ると、背中全体で地面のぬかるみを感じ、自身が倒れていることを悟った。
ピンデは記憶の整理をする。衝動に任せて暴れ回り、脳天に衝撃を喰らったと思ったら、変な感覚を受けて――、ピンデの記憶は朧気で拙かった。ペシャルが潰されてから、憤りを感じたところまでは正確に憶えているのだが、どうもその先の記憶が曖昧だ。
けれど、確かに分かることはいくつかある。ピンデが暴れた時はずっと負の感情が心を渦巻いていたこと、その間に傷付けた人がいること――、そして自分を闇の中から助け出してくれた人がいること、だ。
誰にも顔を向けることは出来なかった。ピンデは自分の弱った顔を見られないように、左腕を使って自分の目元を隠した。
しかし、ピンデの想いとは裏腹に、ピチャピチャと音を立てながらゆっくり近付いて来る足音が耳に響いた。
「いつまでも、雨は、やまねぇ……」
その足音の持ち主を――、自らを打ち負かしたクルムだと本能的に分かって、ピンデは弱々しく言葉を紡ぐ。
「……闇、から、解放されたって……、俺には、何も……ないんだ。……結局、変われねぇ……」
ピンデはクルムに縋るように声を振り絞るだけだ。
「……なぁ、教えて、くれよ……。俺は、これから、どうやって……」
「手を下ろしてみてください」
クルムの声は自信に満ちつつも、どこか悪戯を思い付いた子供のような無邪気な声が混同していた。
「――?」
ピンデは訳の分からないまま、顔を覆っていた腕をどかす。瞑っていた瞳をゆっくりと開き、ピンデの視界に世界が映り込むと、そこは――、
「ッ!」
先ほどまで曇天としていた空が、嘘のように見事晴れ渡っていた。
いつの間に、こんな空模様になっていたのか。眩しいほどの蒼が、ピンデの瞳を占めていく。まじまじと青空を見上げるのは、ピンデが物心ついてからは初めてだった。今までの人生の中で、ピンデは地面しか見つめて生きて来なかったからだ。
その晴天に、黒い影が一つ遠ざかっていくのが見えた。見る者へ本能的に畏怖の念を与えるような禍々しい姿をした黒い影は、その姿に反して逃げ惑っているようにピンデの目に映った。
「もう、あなたを縛るものはありませんよ」
クルムの言葉と微かな銃声と共に、まるで太陽に焦がされたように影が消滅した。一瞬の出来事に加え、塵一つ残っていないため、本当に怪しい影が空に浮かんでいたのか疑問にさえ思えて来る。今目の当たりにした現象が、現か幻か、ピンデにはよく分からない。けれど、ピンデは憑き物が取れたように、パッと心が晴れたような気がした。生まれてこの方、初めての感覚だ。
ピンデは心を開放したい気分に駆られ、衝動のままに身体を大の字に広げた。自然と涙が込み上げた。それを恥じることも隠すこともしない。
「は、ははっ、空ってこんなに広いんだな……」
なんて晴れ渡った空、なんて清々しい気分。ピンデは自分が生まれ変わったような気分になっていた。横でクルムが笑んでくれているのを感じる。
だけど、心が変わろうと、ピンデを取り巻く現実はそう簡単に変わらない。人の心は天気のように移ろうというけれど、天気のように一目瞭然と変わる訳ではない。
ピンデは涙を流しながら、嘲笑を浮かべると、
「でも、こんなに世界は広くても俺に……、今更居場所なんて……」
「……視野を広げれば、意外と簡単に見つかるものですよ? ただその手を掴めるかどうかです」
「……? どういう……」
問いが言葉になる間もなく、大の字になって倒れ込むピンデに向かって一人分の足音が近づいて来た。ピンデは倒れ込んだまま、瞳だけを足音が聞こえる方角に向ける。
「――ここで私達と暮らしませんか?」
視線の先には、ピンデにとって意外そのものな人物、オッドがいた。オッドは仰向けになっているピンデとなるべく視線を合わせるようにしゃがみ込んでいる。
意外な人物であることに加え、予想さえもしていなかった言葉に、ピンデの口はポカンと開いたままだ。唖然とするピンデを見ながら、オッドは薄く微笑んだ。
「ダイバースは日陰の町です。ここで身を隠せば、あなたの過ちは全て水に流せます」
オッドの言葉に具体性が増していくにつれて、ピンデはようやくオッドが言わんとすることを理解することが出来た。
つまり、ピンデは敵であった人間に憐れまれて、お情けを掛けられているのだ。
これほど屈辱的なことはあるだろうか。ピンデは奥歯を噛み締め、立ち上がろうとする。しかし、思いの他、体へのダメージが重いのか、一人で起き上がることは叶わない。
当然ピンデは知る由もないが、悪魔に体を委ねて魔技を繰り出すことは、生身の人間にとって相当な体力と気力を消耗させることになる。悪魔に精神を握られ、体の感覚がなくなっていなければ、普通の人間に扱える代物ではないのだ。人間離れした力を使う代償を体でもって払うのは当たり前のことだろう。
ピンデは体が動かないことを恨めしく思いながら、敵意を孕んだ視線をオッドに向ける。
「テメェ! 馬鹿なこと……、抜かしてんじゃねぇよ! 俺は、この町を苦しめた……ペシャルの一員なんだぞ! そんな道理が通じると思ってるのか! それにもし俺が裏切って、またお前らを――」
「でも、もうペシャルはありません。だから、今のあなたは、何でもないただの一人の人……ですよね」
「――」
ふざけた道理だ、とピンデは思った。そんな言葉は、ペシャルがなくなったから言えるのだ。
仮に、そもそもペシャルが存在しない世界があったとして。そこで、オッドと出会っていたら、オッドはピンデと関わろうともしなかっただろう。実際ピンデはペシャルに所属していなくても、誰からも構ってもらえなかった。
だけど、何故かピンデという人間が一般の人間にも認められたような気がして、胸に熱い何かが込み上げて来た。
言葉を失ったピンデに一瞬視線を流すと、オッドは空を見上げた。
「私は今までダイバースで生きて来ました。ずっと誰かの支配下にあるこの町を、誰もが見放すこの町を、幼い頃からずっとそういうものだと受け入れて来ました。それが日常だったからです。自分の命が絶たれないために、自分という存在を押し殺して、死んだように生きていました」
オッドは自分の過去を手繰り寄せるように淡々と語る。その横顔は、どこか哀愁が漂うものだった。
誰からも受け入れられず自分の居場所がなかったピンデと、圧倒的な力により自分達の居場所を奪われ続けたオッドとダイバースの住人たち。立場は違えど、どこか通ずるものがあった。
同情するつもりはないが、ピンデは上手く言葉を出すことが出来なかった。
しかし、空を見上げて追憶していたはずのオッドの瞳が、急にピンデのことを捉えた。死んだように虚ろとなっていたオッドの瞳は、もうどこにもない。真っ直ぐ力強く、ピンデのことを見つめている。
「でも、それは違うと、ようやく気付きました。私は、この町を変えたい。死んだ町に息を吹き返してみたい。これが、誰にも言えず、今まで私が胸の内に隠して来た本当の想いです。もし、この想いをもっと早く打ち明けていたら、この町も今とは違う姿になっていたかもしれません……」
晴天に包まれた空の下でも尚、ダイバースの家々はどこか暗い印象を与える。家のあちこちに蜘蛛の巣が掛かっていたり、雑草が絡みついている。ピンデによって、家の一部が破壊されている場所だってある。けれど、その外観を抜きにして、立ち寄りがたい雰囲気が町中から漂っているのだ。それはもうダイバースが持つ気質と言うべきであろう。
「けど、遅すぎることなんてなかったんです。今だからこそ、この町を変えるべきなんです。ダイバースを新しくするために、一人でも多くの人の力が必要です。……だから、私達を助けるために、どうか力を貸していただけませんか、ピンデさん」
そう言って、オッドはピンデに向かって手を伸ばした。
「……ッ」
ピンデは今までこの町の住人に対して、悪事を働き続けていた。どれほどダイバースの住人を苦しめたのかは分からない。だから、どんな面をしてその手を掴む権利がピンデにあるというのか。今まで居場所を欲し続けたけれど、オッドの厚意にだけは甘えてはいけない。
己の心にそう自戒して、ピンデはオッドの手を弾くために手を伸ばした。
「――」
だけど、実際はオッドの手を弾くことなんて出来なくて――。ただただ声もなく、オッドの手を握っていた。
こんなに人から必要とされたことは初めてだった。今まで利用されて来たことはあったけれど、純粋に困っているから助けて欲しい、なんて言われたことは一度もなかった。
だから、その想いに応えたい。
一度は傷付けて来た人間に、償うことが出来るなら償いたい。
ピンデにとって都合のいい結末だけれども、素直になった心には逆らえない。
横になったまま、ピンデの右手はオッドに握られていて、左手はまた目元を覆い隠していた。今のピンデの表情は、誰にも見せたくなかった。きっと今までで一番情けない顔を浮かべていることだろう。
「ありがとうございます。良い町にしましょう、絶対に」
オッドは目を合わせることのないピンデを気にせず、繋いだ手を離すことなくそう言った。
「あ、それと――、私はもうピンデさんが誰かを傷付けるとは思っていません。もう人の痛みがどういうものか、自分のも他人のもひっくるめて、気付いているはずですから」
この町で生きて来た中で、とびっきりの笑顔を見せて、オッドはそう言った。ピンデは握る手の先の人物には、到底勝てそうにないなと悟ってしまった。
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