150 / 154
5-27 遠ざかる背中
しおりを挟む
「――夢、ですか?」
「はい。この世界が、悪魔の手に陥る様を見てみたい――それが私の夢です」
やはりノスチェスが考えていることは、身勝手で傲慢な、自分至高によるものだった。思い描く理想に浸っているのか、ノスチェスは整った顔を、狂気の笑みで歪まさせていた。
クルムは怒りに燃える拳を握り締めながら、静かにノスチェスを見つめる。
「そのような事態になったら、どうなるか分かっているでしょう?」
「ええ、楽しそうですよね。悪魔の手に掛かった人間は、壊れて堕ちていき、生きる希望もなく、ただ欲のまま悪事を行ない、自分も周りも誰も得をしない世界――考えるだけでゾクゾクします。そして、ヴァンには私の夢に賛同して頂けたので、互いに手を貸し合っているのです」
「……人の心を考えたことはないの?」
ノスチェスの非道な思考に、リッカは辟易しながらも、なんとか声を出す。
興が削がれたようにノスチェスはあからさまに嘆息を吐くと、冷徹な眼差しをリッカに当てた。
「おや、失敬なことを仰いますね。私はいつも考えておりますよ。どのようにしたら壊れるのだろう、ってね」
人の面を被った悪魔とは、まさにノスチェス・ラーバスのことを指すのだろう。
リッカは鞭を握る手を、更に強くすることしか出来なかった。仮にここで突っ込んでも軽くあしらわれるだけだと、ノスチェスとの実力差を、リッカは感じていた。
クルムも約束を律儀に守っていて、地面に落ちている銃に手を伸ばそうとはしなかった。
ただ静かに、ノスチェスの独壇場を見守るだけだ。
「ヴァンが憎いですか? 止めたいですか? でしたら、特別にヴァンの内部事情を教えて差し上げましょうか?」
まるでクルム達の顔色を読んでいるかのように、ノスチェスは的確な言葉を投げかける。
何か裏があることは明らかだった。しかし、実際問題、ヴァンという名前自体を初めて聞いたのだ。ヴァンに関する情報は、喉から手が出るほど欲しい。
「なーんて冗談です」
しかし、ノスチェスの口から紡がれたのは、突き放すような人を小馬鹿にした言葉だった。
「そんな簡単に機密事項を口にするわけには行きません。話せる範囲は、ここで打ち止めです」
そう言われても、ここにいる誰もが納得出来るはずはなかった。ノスチェスには聞かなければならないことは山ほどある。
けれど、自身が言葉にしたように、ノスチェスにはもう話すつもりはないようだった。
ノスチェスの口から更なる情報を引き出すためには、多少の犠牲を覚悟してでも、実力行使で行くしかないのだろうか。
リッカはそう判断し、一歩踏み出し、
「まだ聞きたいことは――」
「はい、十分です」
しかし、リッカの行動を止めたのはクルムだった。
クルムの顔には何の躊躇もない。「本気で逃がすの?」と問いかけても、小さく頷くだけだった。
ここで逃がせば、ノスチェスについても、悪魔人で構成されているヴァンについても、はっきりとした情報を掴めないままになってしまうというのに、クルムが何を企んでいるのか、リッカには分からなかった。
「ふふっ、私はこれにて失礼させて頂きますよ」
ノスチェスはそう言うと、クルム達に背を向け、森の中へと入ろうとした。自分勝手に話したいことだけを話して、必要な情報はお預けにしたことに余裕を感じているのだろう、ノスチェスの背中は無防備そのものだった。
実際、これからクルム達は、ヴァンの情報を集め、ダオレイスを右往左往しなければいけなくなる。
みすみす逃さなければならないという事実に、リッカは悔しさのあまり歯噛みした。
「――ふっ」
その瞬間、クルムは足元に落としていた双方の銃を拾い、ノスチェスのがら空きな背中に向けて弾丸を放った。
二つの弾丸は目にも止まらぬ速さで、ノスチェスに迫る。優雅に歩くノスチェスは、背後に弾丸が襲い掛かっていることに気付いていない。クルムの弾丸の速さを考えると、気付いたとしても避けることは難しいだろう。
誰もがノスチェスに攻撃を与えられると確信した、その時――。
「やれやれ、油断も隙もないお方ですね」
クルムの弾丸が虚しく空を切ったと同時、ノスチェスの声が空から降り注がれた。
上空を見上げれば、黒い翼を背中に生やしたノスチェスがいた。
「空を飛ぶ術もない貴方には、流石に私を止めることは出来ないでしょう。これで、今度こそお別れですね」
ノスチェスはそう言ったものの、空中に留まったまま、移動を始める素振りは見せなかった。
クルムは銃口をノスチェスに向けていたが、引き金を引く素振りはなかった。このまま弾丸を放っても、ノスチェスに避けられることは明らかだったからだ。
空中にいるノスチェスは、自然とクルム達を見下ろす形になっている。その瞳は、まるで虫けらを見つめるような、そんな冷酷な瞳だった。
「しかし、闇雲にダオレイスを回られて、二度と出会えないっていうのも面白くありませんね。だから、特別に一つだけ贈り物を捧げましょう」
クルム達を見下ろしながら、ノスチェスは含みの籠った笑みを浮かべると、
「私達の拠点は、イダにあります」
イダはトレゾール大陸の北端にある国だ。今いるグリーネ大国のデムテンからだと、もう一つの隣国であるマーヴィを経由した方が早く辿り着くことが出来る。それでも掛かる時間は、ひと月は覚悟したほうがいいだろう。
「もし私達を本気で止めたいのならば、どうぞ足を運びに来てください。まァ、貴方達の勢力じゃ私達ヴァンの敵になり得ないのは目に見えて分かっておりますし、そもそも私とまた逢えるかも不明確ですけどね」
「どういう意味ですか?」
クルムの問いを、「ふふっ」とノスチェスは一笑に付した。
「先ほども言ったでしょう。これ以上の情報は、打ち止めだと。今のは、私からの大サービスです」
「その大サービスも、あなたのため、でしょう?」
クルムの指摘に、ノスチェスは何も言わなかった。クルム達が――、否、クルムがヴァンの元へ訪れる未来を想像して、一人静かに笑みを浮かべるだけだ。
「それでは、もし命を捨てたくなったら、イダまで遊びに来てください。私達ヴァンは、逃げることも隠れることもなく、いつでもお待ちしておりますから」
ノスチェスは空中で恭しく頭を下げると、そのまま体を翻し、黒い翼を羽ばたかせながら彼方遠くへと飛んでいった。ノスチェスが飛んで行った方向は、先ほどの言葉通りイダの方角だった。
ノスチェスが去り、研究所周りでは静寂が満ち満ちた。この場に立っている者は、みなノスチェスがいなくなった空を見上げている。
クルム達は、ノスチェスの言葉を噛み締めているところだった。
クルムはノスチェスがこの地を悪魔で満たそうとしていることを憂い、リッカはヴァンという存在が世界に与えようとする影響を危惧し、そしてシンクは子供ながらに世界の未来を慮っている。
誰も何も言わない、そんな状況下において、
「さて、これからクルムくん達はどうするんだい?」
一番最初に口を開いたのは、パルマだった。眼鏡の蔓に手を当てるパルマの姿は、どこか達観しているようでもあった。
「あそこまで言われて黙っていられるかよ!」
「あんなの放っておける訳ない! 今すぐ行こう、イダへ!」
シンクとリッカが怒りに燃え、ノスチェスが飛んで行った方角――すなわちイダの方向へと歩き出そうとしていた。
「そうですね。ですが、今は休みましょう」
しかし、熱くなる二人を落ち着かせるような声が、クルムの口から紡がれた。その声に、リッカもシンクも、足を止めて振り返る。
「なんだって?」
「ヴァンを放置していたら、ダオレイスは大変なことになっちゃうよ。それでもいいの?」
「二人の言う通り、ヴァンは一刻も早く止めなけらばならない組織です。しかし、僕達はデムテンに来るまで、ろくに休憩する間もなくここまで来ました。仮にこのままイダへ行ったとしても、ノスチェス・ラーバスの言う通り、勝ち目がないのは目に見えています」
クルムの発言に、反論の余地はなかった。
ただし、クルムの言うことが正論だと分かっていても尚、リッカの心は先を行けと急き立てる。世界政府としてのリッカ・ヴェントが、悪人によって一般人が不当に苦しめられることが耐えられないのだ。
無言のリッカの心を読んでか、クルムは更に言葉を続ける。
「けれど、パルマさんのところにいれば、しっかりと体を休めることが出来ます。それに、先ほど作っていただいた弾丸も、まだ改良の余地があるんですよね」
「あぁ、その通りだ。それに、クルムくんだけじゃない。リッカちゃんの鞭も更に改良することが出来るよ」
クルムに話を振られたパルマは、自信満々に言った。
「……分かったわ」
リッカは小さく嘆息を吐くと、根負けした。
「クルムの言う通り、今は休もう。色々ありすぎて、頭の整理もしたかったし。それに、ここで騒ぎ立てたところで、今の私達じゃどうしようもないもんね」
実際、クルムとパルマの提案は、リッカにとって願ってもいないものだった。
パルマから新しい鞭を譲り受け、初めて悪魔人と一人で向き合ったが、リッカは己の実力不足を感じていた。その中で、更に鞭の性能が上がるというのであれば、喜ばしいことだ。もちろん、この休息期間で自分自身の力をより磨くことは忘れない。
「ちぇっ、まだ行かないのか。ここにずっといても、つまんねーんだよな」
「この町には、シンクくんが知らないものがたくさんあるよ。きっと飽きないさ」
「ふん、そこまで言うなら仕方ないな。暫くいてやるか」
先に進めないことに乗り気ではなかったシンクだったが、パルマの言葉に目を光らせた。
「ありがとうございます、二人とも。パルマさん、申し訳ありませんが、宜しくお願いします」
リッカとシンク、そしてパルマに対して、クルムは頭を下げた。誰に対しても、律儀に対応するところは、変わらずクルムらしい。
そんなクルムの姿を見て、「アッハッハ」と大口を開けて普段と同じ笑みを、パルマは浮かべた。
「ボクとクルムくんの仲じゃないか。固くならないでくれよ。で、どれくらい滞在する予定なんだい?」
「そうですね、一週間ほど休ませて頂こうかと」
「りょーかい。んじゃ、クルムくんに、リッカちゃんに、シンクくん。僅かな期間だけど、自分の家のように寛いでくれたまえ」
そう言うと、パルマは翻して、自分の研究所兼家屋に向かって歩き出した。シンクも弾む足取りで、パルマの後についていく。
「それにしても、一週間か……。それだけ時間があれば、弾丸だけじゃなくて、クルムくんの銃そのものにも新しい機能を加えることが出来そうだよ。――ふふふっ」
これから生み出す新たな創造を思い浮かべながら、パルマは一人静かに笑っていた。そんなパルマを横目にして、シンクは引いたように顔を引き攣らせていた。
「さて、そしたら私は――」
体を伸ばしたリッカは、地面へと視線を落とす。そこには、クルムによって気絶したままであるベルディがいた。
このままベルディを放置して、目を覚ましたら「どうぞご勝手にしてください」という訳にはいかない。悪魔に憑かれていたとはいえ、ベルディはハルバックで建物を爆発させるという事件を起こし、その後悪魔に憑かれるようになった。ベルディには然るべき罰を受けてもらわなくてはならない。
そのために、デムテン支部にいるジュディに引き渡す必要がある。
そう判断し、エインセルを取り出そうとしたリッカだったが、
「って、そうか。ここでジュディさんを呼んでも、来てもらうのは難しいか」
デムテンの町からパルマの研究所までの道のりを思い出し、エインセルをしまった。
あの険しい道のりをジュディに来てもらうことを想像したら、流石に申し訳なさを感じてしまう。
これから一週間、パルマの研究所を拠点にして活動することになるのだから、その挨拶を含め、リッカの方から顔を出した方がいいだろう。
「クルム。私はこれから町に戻って、ベルディを引き渡そうと思うけど、クルムはど――」
クルムの横顔を見た途端、リッカの口は途中で止まってしまった。
しかし、その異変も途中まで。クルムは自分が声を掛けられていることに気が付くと、いつもの優しい微笑みを浮かべ、
「僕も途中までついていきますよ。ベルディさんを背負わせながら、リッカに山道を歩かせる訳にはいかないですから」
軽々しくベルディを背負って、クルムは町の方角へと歩き出した。
淡々とクルムは歩を進め、リッカは静かな空気に満たされる環境に残された。それほど今見たクルムの顔に、意識が持っていかれていた。
「――あ、待ってよ」
リッカは自分が見たものを振り払うように首を横に振ると、現実に戻り、先へと進むクルムの後を追った。
クルムに追いついたリッカは、忘れようとしたばかりのクルムの表情を、一瞬だけ思い出す。
クルムの先ほどの顔。今まで一度も見たことのない顔。それは、まさしく――。
この先待ち受ける未来が、過酷で熾烈になることを予期したように、激しい義憤に燃え盛っていた。
「はい。この世界が、悪魔の手に陥る様を見てみたい――それが私の夢です」
やはりノスチェスが考えていることは、身勝手で傲慢な、自分至高によるものだった。思い描く理想に浸っているのか、ノスチェスは整った顔を、狂気の笑みで歪まさせていた。
クルムは怒りに燃える拳を握り締めながら、静かにノスチェスを見つめる。
「そのような事態になったら、どうなるか分かっているでしょう?」
「ええ、楽しそうですよね。悪魔の手に掛かった人間は、壊れて堕ちていき、生きる希望もなく、ただ欲のまま悪事を行ない、自分も周りも誰も得をしない世界――考えるだけでゾクゾクします。そして、ヴァンには私の夢に賛同して頂けたので、互いに手を貸し合っているのです」
「……人の心を考えたことはないの?」
ノスチェスの非道な思考に、リッカは辟易しながらも、なんとか声を出す。
興が削がれたようにノスチェスはあからさまに嘆息を吐くと、冷徹な眼差しをリッカに当てた。
「おや、失敬なことを仰いますね。私はいつも考えておりますよ。どのようにしたら壊れるのだろう、ってね」
人の面を被った悪魔とは、まさにノスチェス・ラーバスのことを指すのだろう。
リッカは鞭を握る手を、更に強くすることしか出来なかった。仮にここで突っ込んでも軽くあしらわれるだけだと、ノスチェスとの実力差を、リッカは感じていた。
クルムも約束を律儀に守っていて、地面に落ちている銃に手を伸ばそうとはしなかった。
ただ静かに、ノスチェスの独壇場を見守るだけだ。
「ヴァンが憎いですか? 止めたいですか? でしたら、特別にヴァンの内部事情を教えて差し上げましょうか?」
まるでクルム達の顔色を読んでいるかのように、ノスチェスは的確な言葉を投げかける。
何か裏があることは明らかだった。しかし、実際問題、ヴァンという名前自体を初めて聞いたのだ。ヴァンに関する情報は、喉から手が出るほど欲しい。
「なーんて冗談です」
しかし、ノスチェスの口から紡がれたのは、突き放すような人を小馬鹿にした言葉だった。
「そんな簡単に機密事項を口にするわけには行きません。話せる範囲は、ここで打ち止めです」
そう言われても、ここにいる誰もが納得出来るはずはなかった。ノスチェスには聞かなければならないことは山ほどある。
けれど、自身が言葉にしたように、ノスチェスにはもう話すつもりはないようだった。
ノスチェスの口から更なる情報を引き出すためには、多少の犠牲を覚悟してでも、実力行使で行くしかないのだろうか。
リッカはそう判断し、一歩踏み出し、
「まだ聞きたいことは――」
「はい、十分です」
しかし、リッカの行動を止めたのはクルムだった。
クルムの顔には何の躊躇もない。「本気で逃がすの?」と問いかけても、小さく頷くだけだった。
ここで逃がせば、ノスチェスについても、悪魔人で構成されているヴァンについても、はっきりとした情報を掴めないままになってしまうというのに、クルムが何を企んでいるのか、リッカには分からなかった。
「ふふっ、私はこれにて失礼させて頂きますよ」
ノスチェスはそう言うと、クルム達に背を向け、森の中へと入ろうとした。自分勝手に話したいことだけを話して、必要な情報はお預けにしたことに余裕を感じているのだろう、ノスチェスの背中は無防備そのものだった。
実際、これからクルム達は、ヴァンの情報を集め、ダオレイスを右往左往しなければいけなくなる。
みすみす逃さなければならないという事実に、リッカは悔しさのあまり歯噛みした。
「――ふっ」
その瞬間、クルムは足元に落としていた双方の銃を拾い、ノスチェスのがら空きな背中に向けて弾丸を放った。
二つの弾丸は目にも止まらぬ速さで、ノスチェスに迫る。優雅に歩くノスチェスは、背後に弾丸が襲い掛かっていることに気付いていない。クルムの弾丸の速さを考えると、気付いたとしても避けることは難しいだろう。
誰もがノスチェスに攻撃を与えられると確信した、その時――。
「やれやれ、油断も隙もないお方ですね」
クルムの弾丸が虚しく空を切ったと同時、ノスチェスの声が空から降り注がれた。
上空を見上げれば、黒い翼を背中に生やしたノスチェスがいた。
「空を飛ぶ術もない貴方には、流石に私を止めることは出来ないでしょう。これで、今度こそお別れですね」
ノスチェスはそう言ったものの、空中に留まったまま、移動を始める素振りは見せなかった。
クルムは銃口をノスチェスに向けていたが、引き金を引く素振りはなかった。このまま弾丸を放っても、ノスチェスに避けられることは明らかだったからだ。
空中にいるノスチェスは、自然とクルム達を見下ろす形になっている。その瞳は、まるで虫けらを見つめるような、そんな冷酷な瞳だった。
「しかし、闇雲にダオレイスを回られて、二度と出会えないっていうのも面白くありませんね。だから、特別に一つだけ贈り物を捧げましょう」
クルム達を見下ろしながら、ノスチェスは含みの籠った笑みを浮かべると、
「私達の拠点は、イダにあります」
イダはトレゾール大陸の北端にある国だ。今いるグリーネ大国のデムテンからだと、もう一つの隣国であるマーヴィを経由した方が早く辿り着くことが出来る。それでも掛かる時間は、ひと月は覚悟したほうがいいだろう。
「もし私達を本気で止めたいのならば、どうぞ足を運びに来てください。まァ、貴方達の勢力じゃ私達ヴァンの敵になり得ないのは目に見えて分かっておりますし、そもそも私とまた逢えるかも不明確ですけどね」
「どういう意味ですか?」
クルムの問いを、「ふふっ」とノスチェスは一笑に付した。
「先ほども言ったでしょう。これ以上の情報は、打ち止めだと。今のは、私からの大サービスです」
「その大サービスも、あなたのため、でしょう?」
クルムの指摘に、ノスチェスは何も言わなかった。クルム達が――、否、クルムがヴァンの元へ訪れる未来を想像して、一人静かに笑みを浮かべるだけだ。
「それでは、もし命を捨てたくなったら、イダまで遊びに来てください。私達ヴァンは、逃げることも隠れることもなく、いつでもお待ちしておりますから」
ノスチェスは空中で恭しく頭を下げると、そのまま体を翻し、黒い翼を羽ばたかせながら彼方遠くへと飛んでいった。ノスチェスが飛んで行った方向は、先ほどの言葉通りイダの方角だった。
ノスチェスが去り、研究所周りでは静寂が満ち満ちた。この場に立っている者は、みなノスチェスがいなくなった空を見上げている。
クルム達は、ノスチェスの言葉を噛み締めているところだった。
クルムはノスチェスがこの地を悪魔で満たそうとしていることを憂い、リッカはヴァンという存在が世界に与えようとする影響を危惧し、そしてシンクは子供ながらに世界の未来を慮っている。
誰も何も言わない、そんな状況下において、
「さて、これからクルムくん達はどうするんだい?」
一番最初に口を開いたのは、パルマだった。眼鏡の蔓に手を当てるパルマの姿は、どこか達観しているようでもあった。
「あそこまで言われて黙っていられるかよ!」
「あんなの放っておける訳ない! 今すぐ行こう、イダへ!」
シンクとリッカが怒りに燃え、ノスチェスが飛んで行った方角――すなわちイダの方向へと歩き出そうとしていた。
「そうですね。ですが、今は休みましょう」
しかし、熱くなる二人を落ち着かせるような声が、クルムの口から紡がれた。その声に、リッカもシンクも、足を止めて振り返る。
「なんだって?」
「ヴァンを放置していたら、ダオレイスは大変なことになっちゃうよ。それでもいいの?」
「二人の言う通り、ヴァンは一刻も早く止めなけらばならない組織です。しかし、僕達はデムテンに来るまで、ろくに休憩する間もなくここまで来ました。仮にこのままイダへ行ったとしても、ノスチェス・ラーバスの言う通り、勝ち目がないのは目に見えています」
クルムの発言に、反論の余地はなかった。
ただし、クルムの言うことが正論だと分かっていても尚、リッカの心は先を行けと急き立てる。世界政府としてのリッカ・ヴェントが、悪人によって一般人が不当に苦しめられることが耐えられないのだ。
無言のリッカの心を読んでか、クルムは更に言葉を続ける。
「けれど、パルマさんのところにいれば、しっかりと体を休めることが出来ます。それに、先ほど作っていただいた弾丸も、まだ改良の余地があるんですよね」
「あぁ、その通りだ。それに、クルムくんだけじゃない。リッカちゃんの鞭も更に改良することが出来るよ」
クルムに話を振られたパルマは、自信満々に言った。
「……分かったわ」
リッカは小さく嘆息を吐くと、根負けした。
「クルムの言う通り、今は休もう。色々ありすぎて、頭の整理もしたかったし。それに、ここで騒ぎ立てたところで、今の私達じゃどうしようもないもんね」
実際、クルムとパルマの提案は、リッカにとって願ってもいないものだった。
パルマから新しい鞭を譲り受け、初めて悪魔人と一人で向き合ったが、リッカは己の実力不足を感じていた。その中で、更に鞭の性能が上がるというのであれば、喜ばしいことだ。もちろん、この休息期間で自分自身の力をより磨くことは忘れない。
「ちぇっ、まだ行かないのか。ここにずっといても、つまんねーんだよな」
「この町には、シンクくんが知らないものがたくさんあるよ。きっと飽きないさ」
「ふん、そこまで言うなら仕方ないな。暫くいてやるか」
先に進めないことに乗り気ではなかったシンクだったが、パルマの言葉に目を光らせた。
「ありがとうございます、二人とも。パルマさん、申し訳ありませんが、宜しくお願いします」
リッカとシンク、そしてパルマに対して、クルムは頭を下げた。誰に対しても、律儀に対応するところは、変わらずクルムらしい。
そんなクルムの姿を見て、「アッハッハ」と大口を開けて普段と同じ笑みを、パルマは浮かべた。
「ボクとクルムくんの仲じゃないか。固くならないでくれよ。で、どれくらい滞在する予定なんだい?」
「そうですね、一週間ほど休ませて頂こうかと」
「りょーかい。んじゃ、クルムくんに、リッカちゃんに、シンクくん。僅かな期間だけど、自分の家のように寛いでくれたまえ」
そう言うと、パルマは翻して、自分の研究所兼家屋に向かって歩き出した。シンクも弾む足取りで、パルマの後についていく。
「それにしても、一週間か……。それだけ時間があれば、弾丸だけじゃなくて、クルムくんの銃そのものにも新しい機能を加えることが出来そうだよ。――ふふふっ」
これから生み出す新たな創造を思い浮かべながら、パルマは一人静かに笑っていた。そんなパルマを横目にして、シンクは引いたように顔を引き攣らせていた。
「さて、そしたら私は――」
体を伸ばしたリッカは、地面へと視線を落とす。そこには、クルムによって気絶したままであるベルディがいた。
このままベルディを放置して、目を覚ましたら「どうぞご勝手にしてください」という訳にはいかない。悪魔に憑かれていたとはいえ、ベルディはハルバックで建物を爆発させるという事件を起こし、その後悪魔に憑かれるようになった。ベルディには然るべき罰を受けてもらわなくてはならない。
そのために、デムテン支部にいるジュディに引き渡す必要がある。
そう判断し、エインセルを取り出そうとしたリッカだったが、
「って、そうか。ここでジュディさんを呼んでも、来てもらうのは難しいか」
デムテンの町からパルマの研究所までの道のりを思い出し、エインセルをしまった。
あの険しい道のりをジュディに来てもらうことを想像したら、流石に申し訳なさを感じてしまう。
これから一週間、パルマの研究所を拠点にして活動することになるのだから、その挨拶を含め、リッカの方から顔を出した方がいいだろう。
「クルム。私はこれから町に戻って、ベルディを引き渡そうと思うけど、クルムはど――」
クルムの横顔を見た途端、リッカの口は途中で止まってしまった。
しかし、その異変も途中まで。クルムは自分が声を掛けられていることに気が付くと、いつもの優しい微笑みを浮かべ、
「僕も途中までついていきますよ。ベルディさんを背負わせながら、リッカに山道を歩かせる訳にはいかないですから」
軽々しくベルディを背負って、クルムは町の方角へと歩き出した。
淡々とクルムは歩を進め、リッカは静かな空気に満たされる環境に残された。それほど今見たクルムの顔に、意識が持っていかれていた。
「――あ、待ってよ」
リッカは自分が見たものを振り払うように首を横に振ると、現実に戻り、先へと進むクルムの後を追った。
クルムに追いついたリッカは、忘れようとしたばかりのクルムの表情を、一瞬だけ思い出す。
クルムの先ほどの顔。今まで一度も見たことのない顔。それは、まさしく――。
この先待ち受ける未来が、過酷で熾烈になることを予期したように、激しい義憤に燃え盛っていた。
0
あなたにおすすめの小説
『紅茶の香りが消えた午後に』
柴田はつみ
恋愛
穏やかで控えめな公爵令嬢リディアの唯一の楽しみは、幼なじみの公爵アーヴィンと過ごす午後の茶会だった。
けれど、近隣に越してきた伯爵令嬢ミレーユが明るく距離を詰めてくるたび、二人の時間は少しずつ失われていく。
誤解と沈黙、そして抑えた想いの裏で、すれ違う恋の行方は——。
アルフレッドは平穏に過ごしたい 〜追放されたけど謎のスキル【合成】で生き抜く〜
芍薬甘草湯
ファンタジー
アルフレッドは貴族の令息であったが天から与えられたスキルと家風の違いで追放される。平民となり冒険者となったが、生活するために竜騎士隊でアルバイトをすることに。
ふとした事でスキルが発動。
使えないスキルではない事に気付いたアルフレッドは様々なものを合成しながら密かに活躍していく。
⭐︎注意⭐︎
女性が多く出てくるため、ハーレム要素がほんの少しあります。特に苦手な方はご遠慮ください。
縁の切れ目が金の切れ目です!
あんど もあ
ファンタジー
「みすぼらしいお前とは婚約破棄だ!」
「じゃあ、貸してたお金を返してくださいね」
質素倹約がモットーのアナベルは、浪費家の婚約者に婚約破棄されてしまう。だがそれは想定内で……。
竜皇女と呼ばれた娘
Aoi
ファンタジー
この世に生を授かり間もなくして捨てられしまった赤子は洞窟を棲み処にしていた竜イグニスに拾われヴァイオレットと名づけられ育てられた
ヴァイオレットはイグニスともう一頭の竜バシリッサの元でスクスクと育ち十六の歳になる
その歳まで人間と交流する機会がなかったヴァイオレットは友達を作る為に学校に通うことを望んだ
国で一番のグレディス魔法学校の入学試験を受け無事入学を果たし念願の友達も作れて順風満帆な生活を送っていたが、ある日衝撃の事実を告げられ……
【完結】捨てられた皇子の探し人 ~偽物公女は「大嫌い」と言われても殿下の幸せを願います~
ゆきのひ
恋愛
二度目の人生は、前世で慕われていた皇子から、憎悪される運命でした…。
騎士の家系に生まれたリュシー。実家の没落により、生きるために皇宮のメイドとなる。そんなリュシーが命じられたのは、廃屋同然の離宮でひっそりと暮らすセレスティアン皇子の世話係。
母を亡くして後ろ盾もなく、皇帝に冷遇されている幼い皇子に心を寄せたリュシーは、皇子が少しでも快適に暮らしていけるよう奮闘し、その姿に皇子はしだいに心開いていく。
そんな皇子との穏やかな日々に幸せを感じていたリュシーだが、ある日、毒を盛られて命を落とした……はずが、目を開けると、公爵令嬢として公爵家のベッドに横たわっていた。けれどその令嬢は、リュシーの死に因縁のある公爵の一人娘……。
望まぬ形で二度目の生を享けたリュシーと、その死に復讐を誓った皇子が、本当に望んでいた幸せを手に入れるまでのお話。
※本作は「小説家になろう」さん、「カクヨム」さんにも投稿しています。
※表紙画像はAIで作成したものです
【完結】能力が無くても聖女ですか?
天冨 七緒
恋愛
孤児院で育ったケイトリーン。
十二歳になった時特殊な能力が開花し、体調を崩していた王妃を治療する事に…
無事に王妃を完治させ、聖女と呼ばれるようになっていたが王妃の治癒と引き換えに能力を使い果たしてしまった。能力を失ったにも関わらず国王はケイトリーンを王子の婚約者に決定した。
周囲は国王の命令だと我慢する日々。
だが国王が崩御したことで、王子は周囲の「能力の無くなった聖女との婚約を今すぐにでも解消すべき」と押され婚約を解消に…
行く宛もないが婚約解消されたのでケイトリーンは王宮を去る事に…門を抜け歩いて城を後にすると突然足元に魔方陣が現れ光に包まれる…
「おぉー聖女様ぁ」
眩い光が落ち着くと歓声と共に周囲に沢山の人に迎えられていた。ケイトリーンは見知らぬ国の聖女として召喚されてしまっていた…
タイトル変更しました
召喚されましたが聖女様ではありません…私は聖女様の世話係です
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる