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episode 3 チョコレートの契約
しおりを挟む「…先輩」
「ん~?」
「先輩は夏休み、学校来ますか?」
いつもの放課後。
いつもの埃くさい教室。
いつものように美琴は先輩とお菓子を食べていた。
夏休みまで1週間を切った今日も、吹奏楽の音とグラウンドの運動部の声はいつものように聞こえてくる。
「夏休みは…火曜、木曜かな。生徒会の集まりがある」
先輩は気だるげにそう答えると、やっと2枚目のクッキーに手を付けた。
本人曰く、夏バテ気味らしい。
確かに色白で華奢な先輩は暑さには弱そうだ。
通常装備の爽やかスマイルも今日は1度も見ていない。
「火、木ですか…」
帰宅部である美琴は夏休みに学校に来る用事は無い。
補習組と合同で行う夏期講習は月曜日と水曜日だし、学校に来る口実にはならない。
つまり夏休みの間の1ヶ月は、このお茶か……修理代の返済は出来なくなってしまう。
「あ、そうだ。忘れてた」
どうしたものかと考え込む美琴を尻目に、先輩は鞄から手の平サイズの黒い小箱を取り出した。
「……なんですか?それ」
「チョコレート」
「え?チョコレートって…溶けちゃってますよきっと」
「それが溶けないんだって……ほら、大丈夫そう!一緒に食べようと思って家から持って来たんだ~。はい、どうぞ?」
黒い小箱には一口サイズのチョコレートが6つ並んでいる。いかにも高価そうなチョコレートだ。
そのうちの赤いコーティングがされたチョコレートを取り、頬張ると甘酸っぱさとほろ苦さが口いっぱいに広がった。
「……ベリーかな?美味しいですこれ」
高いチョコレートだった。
美琴でもそう確信するほどの味だった。
思わず顔を綻ばせる美琴の様子に、先輩も満足げに微笑んでいた。
「そういえば美琴、フルートどうした?」
「え……家にありますよ?それがどうかしたんですか?」
「……文化祭でフルート吹いてくれない?」
「ええっ⁉︎」
唐突なお願いに、美琴は思わず椅子をガタッと鳴らした。
いつのまにか、先輩の爽やかスマイルが復活している。
「演劇部が演出でフルートの生演奏を入れたいらしくてね……吹奏楽部は全校大会の練習があるし……他にやってくれる人を探してるんだ」
「え?でも私、やらなっ…「はいこれ」
美琴の言葉を先輩は笑顔で遮った。
もう口の中のベリーは余韻すら残さず消え失せた。
「楽譜ね?」
「先輩…私やるなんて言ってないです」
「このチョコレート、1箱6000円するんだ」
「……え…1粒1000円⁉︎」
「活動は平日毎日だって言ってたから。これ、演劇部部長の白川のLIMEのIDね」
メモ紙を机に置きながら、先輩はニッコリと微笑んだ。
もう、意を唱える事は出来ない。
いや、チョコレートを食べてしまった以上、先輩の笑顔は関係なしに断る事は不可能なのだろう。
美琴はそのメモ紙を受け取ると、チョコレートを2粒一気に頬張った。
ーーーーーー
夏休みに入って1週間が経った。
美琴は今日も学校の体育館に来ている。
帰宅部としてはあるまじき行為だ。
体育館は両サイドに2つずつある大きな非常口も、校舎へ続く出入り口も全開に開け放っている。
お陰で外と変わらない蒸し暑さだ。
風なんてほとんど通らない。
いつもは卓球部とバスケットボール部が占領しているが、昨日から強化合宿に入った為、昨日から明日の3日間は演劇部が好きなように使えるらしい。
正直、美琴にとってはクーラーの効いている教室の方が良かった。しかし、演劇部員の熱量に当てられ、文句ひとつ言う事なく体育館の隅でフルートの練習を行う羽目になってしまった。
「赤井さん、どう?」
非常口の階段に座り込み、風に当たっていた美琴の頭上で凛とした声が聞こえた。
白川部長だ。
さすがに今日は、腰辺りまで伸びる黒い髪も1つに結んでいる。湊先輩とは同じクラスなのだそうだ。
とても気さくな人で演劇部に知り合いが1人もいない美琴もすぐに部に馴染む事が出来た。普段は優しいが演劇の事となると厳しい人だ。
しかし、熱を持っている人は嫌いじゃない。
美琴は予想外に居心地の良い日々を過ごしていた。
「今のところ順調ですかね…ちょっと苦戦する所もありますけど……」
「無理言ってごめんね?本当、助かったよ。30分後に合わせでも良いかな?」
「はい、了解です」
「ありがとう。じゃあ、よろしく」
ステージへと戻っていく白川部長を見送りながら、美琴は再びフルートへと手を取った。
美琴はこの曲の事を以前から知っていた。
『シランクス』
1913年、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーにより作曲された、フルートの独奏曲だ。
当初は『パンの笛』と言う曲名だったらしく、それらはギリシャ神話から来ていると云う。
シランクスは女性の姿をした妖精で、ある日牧神のパーンに一目惚れをされてしまった。パーンはシランクスの事を強く求め迫った。逃げ惑うシランクスは、川のほとりに追い詰められ、川の妖精の力を借りてアシという植物に姿を変えてしまった。
しかし、パーンは「少なくとも、貴方の声と共にいる事が出来た」と喜び、そのアシで葦笛を作り肌身離さず持ち歩くようになった。
要はストーカーの話だと思っている。
小さい頃、よく叔母が『パンの笛』だと言って、聴かせてくれて、パン屋の娘らしく、食べるパンから来ている曲だと思っていた。
それが間違いだと知ったのはつい最近の事で、入学当初の練習曲として挑戦した事が理由だ。
しかしよく理解しきれていないので、興味がある方は検索して頂くことをオススメする。
今回の演劇部の作品がまさにそれだった。
美琴は劇中で演奏する出番がある。
「……今日、木曜日だな…」
昼過ぎまで行われた部活も、やっと撤収作業に入っている。午後から体育館は床のワックス掛けが行われるそうだ。美琴は非常口から校舎を眺め、生徒会室の窓を探した。
「……あ」
窓が開いている。
「赤井さん、部活終わりにするから一旦集合して貰える?」
白川部長の声に少し驚きつつも、美琴は返事をして非常口のドアを閉めた。
昼過ぎの校舎は部活を終えた生徒も帰ってしまった後で、静まり返っている。
いつもよりやけに響く渡り廊下の板に少し驚きながら、美琴は特別棟へと足を運んだ。
特別棟の4階。
半分開いた生徒会室のドアから中を覗くと、中央には四角形に長テーブルが置かれ、パイプ椅子が2.3個ずつ並んでいる。
テーブルの上は段ボールで作られたオブジェのようなものからファイルなど色んなものが、山積みになっていた。
夏休み明けの9月末には文化祭がある。
生徒会はそこに向け、既に大忙しらしい。
教室の1番奥の長テーブルに10日振りの先輩の姿があった。山積みにされたファイルの真ん中で、机に突っ伏している。眠っているようだ。
美琴は生徒会の生徒が他にいないことを確認すると、失礼しますと小声で呟き、教室へと入った。
そのままゆっくりと先輩の元へ近づくと、その傍にしゃがみ込む。
相変わらずまつ毛が長い。
前髪の一部が汗で肌にくっ付いていて少し色っぽいと感じた。ずっと見ていたいなと思いつつ、美琴は先輩の目の下に薄っすらと出来たクマへと人差し指を伸ばした。
「あんまり、寝てないんですか?」
ちょんと触っても先輩はピクリともしない。
よく眠っているようだ。
「……先輩、私、頑張りますね」
美琴は先輩を起こす事なく立ち上がると、机に置いてあったタイマーを10分にセットして生徒会室を後にした。
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