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18/8/--

 事務所内の時計が、13時の知らせを鳴らした。それはすなわち、昼休みの終わりだ。終わりを告げられたのだ。
 しなやかな風とブラインドが、静かに、しかし力強く音を奏でる。
 陽は天を通り過ぎた。暖かな日差しは、昼食を終えて腹八分目まで貯まった僕を、柔らかな甘い眠りへといざなう。
 眠たい。
 今の僕にわかるのは、ただそれだけの紛れもない事実だけだった。
 カタカタ、とキーボードを叩く。1字、また1字と、書類の文字を刻んでいく。朧気な頭でうろ覚えの文章を打っていく。
 毎月毎日同じこと。毎月この日は同じこと。同じことを毎月繰り返して、今が何月なのかもわからなくなる。前もこれやったよなあ、という記憶だけが通り過ぎていく。
 ブラインドの隙間から覗くのは青い空。今日は晴れ。いや、前も晴れだったろうか。とても暖かい。太陽の下で干したふかふかの布団に包まれているようだ。
 眠たい。
 気だるげな空気と雰囲気に押し流されて意識が圧殺される。
 カタカタ、とキーボードを叩く手が途絶える。画面には"あ"の大群が羅列する。頭の中にも"あ"の大群が押し寄せる。視界にも"あ"の大群が敷き詰められる。
 ぐるぐると"あ"が回る。ぐるぐるぐると"あ"が回る。

「あっ」

 思わず声が出てしまった。うっかり居眠りしてしまった、と悟ったせいだ。思わず声が出てしまった。
 見られた。視線が集まった。目が集まった。視界が眼で埋まった。
 芽生えていた柔らかなまどろみ。それは恐怖によってぐりぐりとあっけなく塗り潰されていった。
 他人に見られる恐怖。他人に支配される恐怖。他人に己の過失を見られる恐怖。劣等感という恐怖。思い違いだという恐怖。恐怖。恐怖。恐怖恐怖恐怖。

「あ、ちが、すみません、違うんです、あの、あ、あ……」

 "あ"がいっぱいのスクリーンに視線が映る。みんな苦虫を噛み潰したような顔をする。ばつの悪そうな顔をする。壁は笑って床はあざ笑う。
 違うんだと弁解する。何は違うのかはわからないけれど、とにかく僕は弁解をする。
 違う。違うんだ。違う。違う。故意じゃない。声が出ない。恋じゃない。

「あ、あっはは、ちょっと居眠りしちゃってたみたいです、あはは、すみません、違うんですよ」

 いったい何が違うというのか。
 ごちゃごちゃぐちゃぐちゃぐるぐると頭の中が混乱して、顔は青ざめるのに熱は高まる。急な熱さに脳が沸騰しそうになる。
 床が僕を見ている。壁が僕を見ている。天井が僕を見ている。窓が僕を見ている。ドアが僕を見ている。コップが僕を見ている。うちわが僕を見ている。クリップが僕を見ている。ファイルが僕を見ている。カレンダーが僕を見ている。電卓が僕を見ている。ボールペンが僕を見ている。ホッチキスが僕を見ている。ブラインドが僕を見ている。時計が僕を見ている。付箋が僕を見ている。パソコンが僕を見ている。スクリーンが僕を見ている。"あ"が僕を見ている。
 見ている。見ている。みんなが。見られている。何もかもが。何もかもに。監視されるように。品定めされるように。見ている。見られている。見て。見ないで。見ないで。僕を見ないで。

「違うんですって、あ、あの、ごめ、やめて、みないで、ちがう、やめて、やめてやめてやめて!!」

 自分のものとは思えないような金切り声を上げる。それでも目は無くならない。
 芽を潰すように目を目で潰される。
 目たちは促す。唯一目の無い窓を見る。そこに行けとでも言うように目の無い普通の窓を見る。
 あそこなら助かるかもしれない。視線から逃れられるかもしれない。
 僕は立ち上がって窓を開ける。"あ"と書かれた窓の網戸を開ける。
 足を掛けて、足を掛けて、手を掛けて、危ないけれど身を乗り出して外を見る。
 空はとても晴れていた。黄昏の赤さではなかった。血のような赤だった。"あ"という雲が浮かんでいた。僕の心臓は跳ね上がった。
 恐る恐る街を見る。ビルに囲まれたオフィス街を見る。"あ"だった。目だった。赤いビルに無数の目が付いていた。蔓延っていた。見ている。覆うように見ている。

「あ、あ……、あ、うそ……」

 囲まれた。四方八方。四面楚歌。囲まれた。逃げられない。逃げられない?
 全部僕のミスのせいだ。全部僕の居眠りのせいだ。全部僕の過失のせいで、全部それは僕のせいだ。見られているのだ。見逃されないのだ。たった一度のミスも許されないのだ。僕は。僕は。許されない。赦されない。許してはいけない。
 視界の隅に追いやられていた地面にふと目を移す。一箇所だけ目が無かったような気がするからだ。
 真下。本当の真下。ビルの10階の窓から身を乗り出した、本当の真下。
 何も無い。誰もいない。目も口も耳も無い。"あ"とだけ書かれている。でもあれは僕を見ていない。つまり誰も見ていない。誰にも見られていない。誰も見ていない!誰にも見られていない!

「あそこに行けば助かる……あそこに行けば助かる……あそこに行けば助かる!助かるんだ!」

 いわば炎天下の避暑地。いわば砂漠の中のオアシス。いわば吹雪の中のかまくら。いわば……いわば……きっとあそこはそういう場所だ!と僕は確信した。
 根拠なんて無い。なぜなら、無くていいからだ。無くていい。
 あそこは窮地であり救地だ。
 誰にも見られない救地だ。救いだ。救いだ。救いだ、救いだ。

「××××××――――!!」

 周りの目が日本語ではない不思議で奇妙な言語で何かを叫んでいる。ぐらぐらと揺さぶるノイズに、何となく、耳を貸してはいけない気がした。何となくだ。それはただの何となくだが、耳を貸してはいけない気がした。
 気付いた頃には僕の体は宙を舞っていて。




 沢山の"あ"に見られていた。
















「……なーんて……」

 何がビルの10階だ。
 僕は13時の合図を時計が鳴らすのと同時に、1階の事務所で溜め息を吐いた。
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