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3.ジョンの話
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3.
ぼくは迷っていた。当然だ。こんな、馬鹿げた、嫌な予感しかしないことに付き合うなんて。それに街には昨日着いたばかりじゃないか。まだ一銭と稼いじゃいない。
兵士の男とネコに出発の準備をするからここで待っていてくれないかといって部屋へと取って返した。荷物をまとめると彼らに会わないように逆方向に歩いて、こっそりと表に出た。石畳の通りに誰もいないのを確かめると大股の早足で歩き出した。
昼間どこかで時間をつぶした後でまた適当に宿をとり、今夜は酒場で歌をうたって金銭を得る。白夜というのも手伝ってか、この街はずいぶんと明るい雰囲気じゃないか。家々はきれいに整えられ、窓辺には花だって飾ってある。昨晩はちょっと気持ちがうつうつとしていたかもしれないがどうってことない。やれやれ、さてどこへ身を隠す?
表を歩き出して幾らも経たないうちに立ち並ぶ家の壁にもたれて腕組みをし、一晩中夜が訪れることのなかった空を見上げている金髪の男に気がついた。足元には大きな牙のネコ。男はすぐにぼくに気がついて笑みを浮かべた。
「ああっ!」ぼくは思わず声をだした。
男はいたずら者のような目でこちらを眺め、ゆっくりとこちらへ向かってきた。ぼくが逃げることも隠れることもできずに立ち尽くしている斜め前に立つと「おれはマグナス。こっちがサフソルム」と再び名乗った。「そしてきみがジョン。たまには何人かと一緒に旅をするのも悪くないだろう?」
ぼくは返事に窮した。口を結び、視線をどこへやろうかと思っているうちにまた手紙が目の前に出てきた。
手紙をひったくり、封を破った。中身を引っ張り出し、袋を下へと落として二つ折りの紙を開いた。そこにはまっ黒なインクで書かれた立派な文字が並んでいた……。
『親愛なるジョン・グランウィック様
とつぜんのお手紙で失礼いたします。
わたくしは本来ならばあなたさまに手紙を出すべきではないと周りの者からも止められたのでございますが、かつてあなたさまが闇夜のなかで人知れず歌われていたところを偶然通りかかり、あなたさまの深く低い歌声にすっかり心を奪われてしまったのでございます。
できればもっとお聞きしたいと思いながらもあなたさまは歌うのを終わりになさってしまって、わたくしもそのまま他の者たちに連れられてその場を立ち去ってしまいました。
しかしながら日を追うごとにあなたさまのお歌をもう一度聞きたいという思いは募るばかりでございます。
あなたさまのお名前や行方はわたくしの親切なおじやおばの助けで知ることができました。
どうか一度わたくしのお屋敷においでになり、お時間の許す限りあなたさまのお歌をお聞かせ願えればと思っております。
多くの報酬をお渡しできるかと存じます。
近いうちにお目にかかれることを願っております。
イーバ・レニア』
読み終え、そのまま手紙に目を落としたまま、は! と笑った。「なんだい、これ。つまりこいつはぼくに……」
「つまりそういうことだ」とネコがいった。「その方のおじ・おばさま方の依頼でオレさまたちはこの間抜けな歌うたいを連れ、はるばるとお屋敷まで向かおうというのだ」
「つまり、このぼくに恋をした、せいぜい十三歳ってところか、お金持ちのお嬢様がぼくをお屋敷にお呼びになりたいということか」
「なぜ十三歳と?」ネコが聞いた。
「だってそんなもんだろう? こんな手紙をよこすくらいだ、何かにすっかりのぼせるお年頃さ」ぼくは続けた。「とはいっても、わかるよ、まんざらでもない。歌を聞いた誰もがいう。この声はなかなかのもんだ。魂が震えるよ、今夜の酒の味がもっと深くなる。……たまに考えないでもない。ぼくに惚れこんだどこかの貴族がお抱えの楽士としてお屋敷に置いておきたいと頼まれるんじゃないかって。貴族が持ってる大きな楽団とは別にだ。そんなのとは別にこの歌うたいを雇ってみたいと思うんじゃないかって。安全な寝床に毎日の十分な食事。蝶よ花よと暮らす貴族の優雅な生活の一端を担いつつ、報酬を受け取る。憧れるだろう? ……だけどさ、そこまで考えてハッとするんだ。安心安全な生活と報酬を得てそれでどうするんだ、ぼくにとって大事なのは自由でいられるってことじゃないか。金銭よりも自由に自分の意思で動けるってこと。肝心なのはそこさ」
ぼくは手紙を掲げ、ひらひらとした。
ネコがいった。「まだだれもおまえのような間抜けを雇う、などとはいってないはずだが。ほぅ、しかし金銭よりも自由。オレさまたちが少し聞いてきたところでは一日につき歌うたいがおよそ一年で稼ぐ額ずつを支払うとのことであったが」
「なんだって?」
「そのように金銭よりも自由を重んじる高尚な歌うたいを無理やりにでも連れてゆかねばならぬのは心苦しいが、オレさまたちも何分頼まれたことゆえ……。とりあえずお屋敷まで赴いてそこでイーバ様にそのように申し上げるが良い。金銭は好みませんゆえ報酬はけっこうです、と」
「ちょっと待って、ちょっと待ってくれよ」
「その考えを恥じることはないぞ、歌うたい。いいにくいのならばそのようにオレさまが申し上げてくれよう」
ネコがひょいと方向を変え、歩き出そうとしていた。「先は長い。それにあまり時間もないのだ」
ぼくは慌てて男を見た。男はおかしそうな顔でぼくを見て「だいじょうぶさ」といった。
ぼくは迷っていた。当然だ。こんな、馬鹿げた、嫌な予感しかしないことに付き合うなんて。それに街には昨日着いたばかりじゃないか。まだ一銭と稼いじゃいない。
兵士の男とネコに出発の準備をするからここで待っていてくれないかといって部屋へと取って返した。荷物をまとめると彼らに会わないように逆方向に歩いて、こっそりと表に出た。石畳の通りに誰もいないのを確かめると大股の早足で歩き出した。
昼間どこかで時間をつぶした後でまた適当に宿をとり、今夜は酒場で歌をうたって金銭を得る。白夜というのも手伝ってか、この街はずいぶんと明るい雰囲気じゃないか。家々はきれいに整えられ、窓辺には花だって飾ってある。昨晩はちょっと気持ちがうつうつとしていたかもしれないがどうってことない。やれやれ、さてどこへ身を隠す?
表を歩き出して幾らも経たないうちに立ち並ぶ家の壁にもたれて腕組みをし、一晩中夜が訪れることのなかった空を見上げている金髪の男に気がついた。足元には大きな牙のネコ。男はすぐにぼくに気がついて笑みを浮かべた。
「ああっ!」ぼくは思わず声をだした。
男はいたずら者のような目でこちらを眺め、ゆっくりとこちらへ向かってきた。ぼくが逃げることも隠れることもできずに立ち尽くしている斜め前に立つと「おれはマグナス。こっちがサフソルム」と再び名乗った。「そしてきみがジョン。たまには何人かと一緒に旅をするのも悪くないだろう?」
ぼくは返事に窮した。口を結び、視線をどこへやろうかと思っているうちにまた手紙が目の前に出てきた。
手紙をひったくり、封を破った。中身を引っ張り出し、袋を下へと落として二つ折りの紙を開いた。そこにはまっ黒なインクで書かれた立派な文字が並んでいた……。
『親愛なるジョン・グランウィック様
とつぜんのお手紙で失礼いたします。
わたくしは本来ならばあなたさまに手紙を出すべきではないと周りの者からも止められたのでございますが、かつてあなたさまが闇夜のなかで人知れず歌われていたところを偶然通りかかり、あなたさまの深く低い歌声にすっかり心を奪われてしまったのでございます。
できればもっとお聞きしたいと思いながらもあなたさまは歌うのを終わりになさってしまって、わたくしもそのまま他の者たちに連れられてその場を立ち去ってしまいました。
しかしながら日を追うごとにあなたさまのお歌をもう一度聞きたいという思いは募るばかりでございます。
あなたさまのお名前や行方はわたくしの親切なおじやおばの助けで知ることができました。
どうか一度わたくしのお屋敷においでになり、お時間の許す限りあなたさまのお歌をお聞かせ願えればと思っております。
多くの報酬をお渡しできるかと存じます。
近いうちにお目にかかれることを願っております。
イーバ・レニア』
読み終え、そのまま手紙に目を落としたまま、は! と笑った。「なんだい、これ。つまりこいつはぼくに……」
「つまりそういうことだ」とネコがいった。「その方のおじ・おばさま方の依頼でオレさまたちはこの間抜けな歌うたいを連れ、はるばるとお屋敷まで向かおうというのだ」
「つまり、このぼくに恋をした、せいぜい十三歳ってところか、お金持ちのお嬢様がぼくをお屋敷にお呼びになりたいということか」
「なぜ十三歳と?」ネコが聞いた。
「だってそんなもんだろう? こんな手紙をよこすくらいだ、何かにすっかりのぼせるお年頃さ」ぼくは続けた。「とはいっても、わかるよ、まんざらでもない。歌を聞いた誰もがいう。この声はなかなかのもんだ。魂が震えるよ、今夜の酒の味がもっと深くなる。……たまに考えないでもない。ぼくに惚れこんだどこかの貴族がお抱えの楽士としてお屋敷に置いておきたいと頼まれるんじゃないかって。貴族が持ってる大きな楽団とは別にだ。そんなのとは別にこの歌うたいを雇ってみたいと思うんじゃないかって。安全な寝床に毎日の十分な食事。蝶よ花よと暮らす貴族の優雅な生活の一端を担いつつ、報酬を受け取る。憧れるだろう? ……だけどさ、そこまで考えてハッとするんだ。安心安全な生活と報酬を得てそれでどうするんだ、ぼくにとって大事なのは自由でいられるってことじゃないか。金銭よりも自由に自分の意思で動けるってこと。肝心なのはそこさ」
ぼくは手紙を掲げ、ひらひらとした。
ネコがいった。「まだだれもおまえのような間抜けを雇う、などとはいってないはずだが。ほぅ、しかし金銭よりも自由。オレさまたちが少し聞いてきたところでは一日につき歌うたいがおよそ一年で稼ぐ額ずつを支払うとのことであったが」
「なんだって?」
「そのように金銭よりも自由を重んじる高尚な歌うたいを無理やりにでも連れてゆかねばならぬのは心苦しいが、オレさまたちも何分頼まれたことゆえ……。とりあえずお屋敷まで赴いてそこでイーバ様にそのように申し上げるが良い。金銭は好みませんゆえ報酬はけっこうです、と」
「ちょっと待って、ちょっと待ってくれよ」
「その考えを恥じることはないぞ、歌うたい。いいにくいのならばそのようにオレさまが申し上げてくれよう」
ネコがひょいと方向を変え、歩き出そうとしていた。「先は長い。それにあまり時間もないのだ」
ぼくは慌てて男を見た。男はおかしそうな顔でぼくを見て「だいじょうぶさ」といった。
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