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30.ジョンの話

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30.
 広いバルコニーの柵の近くまで寄って荷物を下し、柵に腕をかけて思う存分に海を眺めた。言葉で表しようのないくらいの、青い海がどこまでも広がっていた。
「こんなにきれいな海は見たことない」ぼくはそういった。
 隣にフサフサのアリステアがいて、うなずいたように思ったけど定かではなかった。サフソルムはどこかに行ってしまっていたが、やがて戻ってきて「歌うたい」と声をかけてきた。
 ぼくは振り返って、宮殿のなかの暗がりを見た。暗いところから人影が動いて、明るいところに誰かが出てきた。ぼくは目を見張った。――何のことはない、要はきれいな若い女性が立っていたのだ。白いゆったりとしたドレスを着て、明るい茶色の長い髪を結って頭の上に乗せていた。彼女は優しい顔立ちでぼくを見て微笑んだ。
「歌うたいはイーバ様のことを十三歳に違いないといったのだ」下からネコは突如、そういった。
「どうして?」彼女は少し目を細めた。「初めまして、ジョン。ここまで来てくれてありがとう」
「いえ……」彼女とぼくだけしかいないように思い込んだって一向におかしくはない、ここに人間としているのは彼女とぼくだけであって、ほかは違うのであって、ここで二人だけの特別な会話をしているのだと思ったとしても変ではない、笑われることはない、と一瞬思った。
 しかしすぐにネコのいったことを訂正する必要があった。この美しく、優しい雰囲気の人に誤解させてはならなかった。「違うんです」
 だがネコはぼくの釈明なり何なりを話す暇を与えることなく、それを下から大きな声ではっきりといった。「歌うたいにのぼせあがるのはせいぜい十三歳だとゆったのだ!」
「ちょっと待ってくれよ」ぼくはネコに向かっていった。「そんなことはいわなかった」
「ゆった」
「いわない」
「ゆった」
「いわない!」
「いいや、ゆった。そのうえ、……イーバ様、この歌うたいはこうもいったのです」
「それ以上いうのはやめてくれ、サフソルム!」
 ネコは涼し気な顔で続けた。「金銭を好まぬので、報酬はけっこう……」
 ぼくは思わずしゃがんで、サフソルムの両側に両手をついて、ネコ顔の真ん前に顔を近づけた。「頼むよ!」
 ネコはきれいな瞳をゆっくりとまばたきさせ、目を細めた。「では認めるのだな?」
「なにを?」
「おまえさんが間抜けであるということを」
「ぼくがいつ、それを認めてなかった?」
 ネコはヒーヒーと数回、笑い声をあげた。
 ぼくは立ち上がり、イーバの前に立ち、丁寧に整った優しい顔と茶色の瞳を見た。「お招きいただき、光栄に思っています。報酬は」ぼくはそこで右手を自分の胸にあてた。「大事なことではありますが、あなたのような方から歌を認められたことは何ものにも代えがたい喜びであります」
 イーバはぼくに微笑んだ。「本当によく来てくれました。さぁ、こちらの日陰で少し話しましょう」
 バルコニーの少し奥に入ったところに、大きくて涼し気なソファが二つ置かれていた。イーバが手招きして、その一つにアリステアがあがり、すぐにサフソルムが続いた。
 大きなフサフサがゆったりと横になると、小さなフサフサもくっついて横になった。じきに二匹は目を閉じて、静かに夢のなかへと入っていった。
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