11 / 101
第11話 無遠慮な視線と手
塩素の匂いは、やっぱり落ち着く。プールで泳いでいる時、そこには自分だけしか存在しない。音も世界も、周りの全てを遮断して、嫌なことも何もかも忘れ、一人静かに自分と対話しているような、そんな気分になる。
――だからオレは、泳ぐのが好きだった。
壁に手を付いて止まると、振り向いてゴーグルを外し、先輩達の方を窺う。
「ど、どう……でしたか?」
まずは、どのくらい泳げるのかが見たい、との提案を受け、軽く折り返し五十メートルをクロールで泳いでみせたところだった。
正直、そんなに速くはない。小柄で手足も小さいオレは、どうしたって推進力で他の人達に劣ってしまう。でも、フォームには自信があった。中学の時の顧問の先生にも、泳ぎ方が誰よりも綺麗だと褒めてもらえたことがある。
なので、先輩にこう言われた時は、耳を疑った。
「んー、悪くはないんだけど、ちょっと違うな」
「え?」
隣のコースの先輩が、ロープを潜ってこちらにやって来た。不意に後ろから抱き寄せられるようにして、腕を掴まれる。背を覆う人肌の感触と体温に、オレは思わず身を固くした。
先輩は構わずオレの腕を掴んだまま、水を掻く仕草をさせてみせる。
「そうだな、手をもっとこうしたら良くなるんじゃないか? こう……」
アドバイスを口にしながら、同じ動作を繰り返す。その度に肌と肌が擦れ、産毛が逆立った。首筋に落とされる熱い吐息が生々しい。
「わ、分かりました……やってみます」
硬直が解けると、オレはそそくさと先輩から身を離した。また別の先輩が新たな提案を投じる。
「足の型もしっかり見直した方がいいかもな。ちょっと、壁掴んでバタ足してみせてよ」
「はい……」
嫌な予感がしたけれど、否とも言えない。言われた通りにしてみせると、案の定、今度は脚を掴まれた。
「腿の辺りをこう……もっと内側に締めて」
言いながら、先輩の手が太腿の内側の際どい所に滑り込む。ぞくりと、背筋が粟立った。
――何だろう。
「今日は折角姫が来てるから、普通に泳ぐだけじゃつまらないし、水球でもやろうぜ!」
「おぉ、いいね! 更衣室に道具あったよな!」
――皆やけに、触ってくる。
「姫、パース!」
「させるか!」
ボールが飛来すると、周囲が一斉に群がった。掴まれる肩、腕、腰、抑え込まれた身体。手が、胸を撫ぜる。
「よっしゃあ! シュート!」
――気持ち悪い。
ダメだ。こんなこと思ったら、失礼だ。
こんなの、普通のこと。何でもないことなんだ。御影さんが変なこと言うから、変に意識してしまっているだけだ。きっと、そうだ。
ともすれば湧き上がりそうになる疑念と嫌悪感を押し殺し、後の時間をオレはひたすら耐えてやり過ごした。
「お疲れ様~!」
「いやぁ、今日は楽しかったなぁ」
「姫、明日も来てくれるかな?」
問われて、オレはまた曖昧な笑みで誤魔化した。
……でも、やっと終わった。安堵感に、深く息を吐く。明日のことは後で考えるようにして、今日はもう帰ろう。何だかやたらに草臥れた。
皆で更衣室に向かった。後はもう、着替えて帰るだけ、という段になって――遂に、決定的なことが起きた。
「……あれ?」
ロッカーを前に、凍り付く。
無い。何度荷物を検めても、ある物が見つからない。
――下着が、無い。
青ざめる。何でだ? 何で、無い?
替えは、確かに入れてきた。なのに、替えどころか着てきたやつまで無い。二枚とも無くなるなんて、そんなこと有り得ない。――まさか。
「姫、どしたん?」
「着替えないのー?」
声を掛けられ、恐る恐る振り向いた。先輩達がにやにや笑いでこちらを窺っている。鼓動が不穏に脈打つ。
――盗られた?
誰に? 何で?
ロッカーの鍵は掛からない。皆、途中で一回はトイレに抜けたりしていた。更衣室はその間無人で、誰でも入れてしまう。誰にでも、やろうと思えば犯行は可能だった。
先輩達の笑顔が、歪んで見えた。全員が全員、怪しく見えてくる。
そんなまさか、と思う気持ちと、どこかで、やっぱり……と思う気持ちが綯い交ぜになって、くらくらと目眩がしてくる。
「姫? 疲れちゃった?」
「何か手伝おうか?」
回る。廻る。世界が回る。――気持ち悪い。
「身体、拭いてあげようか」
「脱がせてやるよ」
伸ばされる手、手。――嫌だ、怖い。
だけど、声が出ない。喉の奥が張り付いたように塞がっている。身体が動かない。――怖い。
助けて。
コンコンッ
その時、更衣室の扉をノックする音が聞こえた。
ハッとして、場の全ての動きが止まる。扉の外から声がした。
「陽様、こちらにいらっしゃいますか?」
――御影さんだ!
「申し訳ありません。寮で待つように命じられていたのですが、お帰りが遅いように感じられたので……お迎えに上がりました」
御影さんは遠慮がちに言う。オレの命令を破ったことを気にしているのだろう。あんなに冷たく突き放したのに……それでも、心配して来てくれた。
喉の奥がギュッと摘まれたようになり、目頭が熱くなった。絞り出すように、呼ぶ。
「……御影さん」
弱々しいオレの声音に何かしら感じ取ったのだろう。刹那の間の後、御影さんは入室を告げるが早いか、扉を開いた。
酷く慌てた表情だった。オレを見て、驚いたように息を呑む。それから唇を引き結び、彼は燕尾服の上着を脱いだ。無言でそれを、オレの肩に着せ掛け――。
「失礼致します」
直後、オレは宙に浮いていた。突然のことに頭が真っ白になり、御影さんに抱え上げられたのだと気が付いたのは、数拍後のことだった。
「陽様はお加減が優れないようですので、このままお連れ致します。荷物は後程取りに参りますので、そのままにしておいてください。……余計な手出しは、なさいませんように」
周囲の先輩方に突き刺すような眼差しで牽制すると、御影さんはオレを横抱きにしたまま更衣室を後にした。
――だからオレは、泳ぐのが好きだった。
壁に手を付いて止まると、振り向いてゴーグルを外し、先輩達の方を窺う。
「ど、どう……でしたか?」
まずは、どのくらい泳げるのかが見たい、との提案を受け、軽く折り返し五十メートルをクロールで泳いでみせたところだった。
正直、そんなに速くはない。小柄で手足も小さいオレは、どうしたって推進力で他の人達に劣ってしまう。でも、フォームには自信があった。中学の時の顧問の先生にも、泳ぎ方が誰よりも綺麗だと褒めてもらえたことがある。
なので、先輩にこう言われた時は、耳を疑った。
「んー、悪くはないんだけど、ちょっと違うな」
「え?」
隣のコースの先輩が、ロープを潜ってこちらにやって来た。不意に後ろから抱き寄せられるようにして、腕を掴まれる。背を覆う人肌の感触と体温に、オレは思わず身を固くした。
先輩は構わずオレの腕を掴んだまま、水を掻く仕草をさせてみせる。
「そうだな、手をもっとこうしたら良くなるんじゃないか? こう……」
アドバイスを口にしながら、同じ動作を繰り返す。その度に肌と肌が擦れ、産毛が逆立った。首筋に落とされる熱い吐息が生々しい。
「わ、分かりました……やってみます」
硬直が解けると、オレはそそくさと先輩から身を離した。また別の先輩が新たな提案を投じる。
「足の型もしっかり見直した方がいいかもな。ちょっと、壁掴んでバタ足してみせてよ」
「はい……」
嫌な予感がしたけれど、否とも言えない。言われた通りにしてみせると、案の定、今度は脚を掴まれた。
「腿の辺りをこう……もっと内側に締めて」
言いながら、先輩の手が太腿の内側の際どい所に滑り込む。ぞくりと、背筋が粟立った。
――何だろう。
「今日は折角姫が来てるから、普通に泳ぐだけじゃつまらないし、水球でもやろうぜ!」
「おぉ、いいね! 更衣室に道具あったよな!」
――皆やけに、触ってくる。
「姫、パース!」
「させるか!」
ボールが飛来すると、周囲が一斉に群がった。掴まれる肩、腕、腰、抑え込まれた身体。手が、胸を撫ぜる。
「よっしゃあ! シュート!」
――気持ち悪い。
ダメだ。こんなこと思ったら、失礼だ。
こんなの、普通のこと。何でもないことなんだ。御影さんが変なこと言うから、変に意識してしまっているだけだ。きっと、そうだ。
ともすれば湧き上がりそうになる疑念と嫌悪感を押し殺し、後の時間をオレはひたすら耐えてやり過ごした。
「お疲れ様~!」
「いやぁ、今日は楽しかったなぁ」
「姫、明日も来てくれるかな?」
問われて、オレはまた曖昧な笑みで誤魔化した。
……でも、やっと終わった。安堵感に、深く息を吐く。明日のことは後で考えるようにして、今日はもう帰ろう。何だかやたらに草臥れた。
皆で更衣室に向かった。後はもう、着替えて帰るだけ、という段になって――遂に、決定的なことが起きた。
「……あれ?」
ロッカーを前に、凍り付く。
無い。何度荷物を検めても、ある物が見つからない。
――下着が、無い。
青ざめる。何でだ? 何で、無い?
替えは、確かに入れてきた。なのに、替えどころか着てきたやつまで無い。二枚とも無くなるなんて、そんなこと有り得ない。――まさか。
「姫、どしたん?」
「着替えないのー?」
声を掛けられ、恐る恐る振り向いた。先輩達がにやにや笑いでこちらを窺っている。鼓動が不穏に脈打つ。
――盗られた?
誰に? 何で?
ロッカーの鍵は掛からない。皆、途中で一回はトイレに抜けたりしていた。更衣室はその間無人で、誰でも入れてしまう。誰にでも、やろうと思えば犯行は可能だった。
先輩達の笑顔が、歪んで見えた。全員が全員、怪しく見えてくる。
そんなまさか、と思う気持ちと、どこかで、やっぱり……と思う気持ちが綯い交ぜになって、くらくらと目眩がしてくる。
「姫? 疲れちゃった?」
「何か手伝おうか?」
回る。廻る。世界が回る。――気持ち悪い。
「身体、拭いてあげようか」
「脱がせてやるよ」
伸ばされる手、手。――嫌だ、怖い。
だけど、声が出ない。喉の奥が張り付いたように塞がっている。身体が動かない。――怖い。
助けて。
コンコンッ
その時、更衣室の扉をノックする音が聞こえた。
ハッとして、場の全ての動きが止まる。扉の外から声がした。
「陽様、こちらにいらっしゃいますか?」
――御影さんだ!
「申し訳ありません。寮で待つように命じられていたのですが、お帰りが遅いように感じられたので……お迎えに上がりました」
御影さんは遠慮がちに言う。オレの命令を破ったことを気にしているのだろう。あんなに冷たく突き放したのに……それでも、心配して来てくれた。
喉の奥がギュッと摘まれたようになり、目頭が熱くなった。絞り出すように、呼ぶ。
「……御影さん」
弱々しいオレの声音に何かしら感じ取ったのだろう。刹那の間の後、御影さんは入室を告げるが早いか、扉を開いた。
酷く慌てた表情だった。オレを見て、驚いたように息を呑む。それから唇を引き結び、彼は燕尾服の上着を脱いだ。無言でそれを、オレの肩に着せ掛け――。
「失礼致します」
直後、オレは宙に浮いていた。突然のことに頭が真っ白になり、御影さんに抱え上げられたのだと気が付いたのは、数拍後のことだった。
「陽様はお加減が優れないようですので、このままお連れ致します。荷物は後程取りに参りますので、そのままにしておいてください。……余計な手出しは、なさいませんように」
周囲の先輩方に突き刺すような眼差しで牽制すると、御影さんはオレを横抱きにしたまま更衣室を後にした。
あなたにおすすめの小説
処刑される悪役令息に転生したらなぜか推しの騎士団長がグイグイ近づいてくる
猫に小判
BL
交通事故で死んだはずの会社員・田中悠人は、気がつくとBL小説『恋と陰謀~はじまりは夜に~』の世界に転生していた。
しかも転生先は、原作で処刑される悪役令息エリオット。
当然そんな未来は回避したい。
原作知識を頼りに慎重に立ち回るつもりだったのに、気づけば王宮を揺るがす事件に巻き込まれていき――。
さらに困ったことに、原作で一番の推しだった騎士団長ガイウスがやたらと距離を詰めてきて……?
平穏に生きたい元悪役令息と、過保護な騎士団長がじれじれ距離を縮める話。
ガイウス(騎士団長)×エリオット(元悪役令息)
助けたドS皇子がヤンデレになって俺を追いかけてきます!
夜刀神さつき
BL
医者である内藤 賢吾は、過労死した。しかし、死んだことに気がつかないまま異世界転生する。転生先で、急性虫垂炎のセドリック皇子を見つけた彼は、手術をしたくてたまらなくなる。「彼を解剖させてください」と告げ、周囲をドン引きさせる。その後、賢吾はセドリックを手術して助ける。命を助けられたセドリックは、賢吾に惹かれていく。賢吾は、セドリックの告白を断るが、セドリックは、諦めの悪いヤンデレ腹黒男だった。セドリックは、賢吾に助ける代わりに何でも言うことを聞くという約束をする。しかし、賢吾は約束を破り逃げ出し……。ほとんどコメディです。 ヤンデレ腹黒ドS皇子×頭のおかしい主人公
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
穏やかに生きたい(隠れ)夢魔の俺が、癖強イケメンたちに執着されてます。〜平穏な学園生活はどこにありますか?〜
春凪アラシ
BL
「平穏に生きたい」だけなのに、
癖強イケメンたちが俺を狙ってくるのは、なぜ!?
トラブルを避ける為、夢魔の血を隠して学園生活を送るフレン(2年)。
彼は見た目は天使、でも本人はごく平凡に過ごしたい穏健派。
なのに、登校初日から出会ったのは最凶の邪竜後輩(1年)!?
他にも幼馴染で完璧すぎる優等生騎士(3年)に、不良だけど面倒見のいい悪友ワーウルフ(同級生)まで……なぜか異種族イケメンたちが次々と接近してきて――
運命の2人を繋ぐ「刻印制度」なんて知らない!
恋愛感情もまだわからない!
それでも、騒がしい日々の中で、少しずつ何かが変わっていく。
個性バラバラな異種族イケメンたちに囲まれて、フレンの学園生活は今日も波乱の予感!?
甘くて可笑しい、そして時々執着も見え隠れする
愛され体質な主人公の青春ファンタジー学園BLラブコメディ!
月、水、金、日曜日更新予定!(番外編は更新とは別枠で不定期更新)
基本的にフレン視点、他キャラ視点の話はside〇〇って表記にしてます!