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第3章 廃校舎で隠れんぼ
第16話 再逢
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移動の最中もピアノの音が止むことはなかった。楽曲の最後まで弾き切ると、また初めから繰り返し同じ曲が奏でられる。
奏者は余程この曲が好きなのか、それとも何か別の意図でもあるのか。誘われるように件の音楽室の前までやってくると、音量は最高潮に達した。
確かにここが発生源で間違いないようだ。
シフォンとクラウンと顔を見合せ、まりあは無言で頷いた。唇を結び気を引き締め、扉へと手を掛ける。
上部に曇りガラスの嵌った引き戸は、何の抵抗もなくするりと開いた。目を引いたのは、窓際に配置された黒いグランドピアノ。白い光を纏った少女が椅子に腰を下ろし、小さな手で鍵盤を叩いている。
こちらに背を向けていても、誰だかはすぐに分かった。
「みちるちゃん!」
ピアノを弾いていたのは、彼女だったのだ。曲が終わるのも待ち切れずにまりあが呼び掛けると、みちるは弾かれたように演奏を止め、立ち上がった。
そのまま振り返りもせずに、走り出す。
「みちるちゃん! どうして逃げるの!?」
みちるは止まらない。驚く程の速さで反対側の扉の方まで駆けると、戸を引いて室外へと飛び出していく。後からまりあが追って顔を出した時には、廊下は閑散として人影も無く、みちるの姿は何処にも見受けられなかった。
「え?」
たった今彼女がここへ来た筈なのに、見失うには早過ぎやしないか。
「消えた?」
「何処かの教室に入ったんじゃないカナ」
唖然と零すまりあに、クラウンが現実的な推測を提示する。
「そっか、そうかも」
「近場から探してみよう。……けど、その前に」
話しながら、シフォンが今一度音楽室の方へと顔を向けた。視線の先には、置き去りにされたグランドピアノ。みちるが最後に指を放した鍵盤が、一つだけ眩い輝きを放っていた。離れていても、その光は薄闇を裂いてハッキリと見える。みちるが落としたものだろうか。
「まりあにも関係してるかもしれないし、試しにあれに触れておこうよ」
「でも、みちるちゃんが……」
そんなことをしている間に、どんどん遠くに行ってしまうのではないか。そう危惧してまりあが躊躇っていると、シフォンは重ねた。
「次に機会があるかも分からないよ。チャンスは逃さないようにしないと」
それもそうだ。納得すると、まりあは早速音楽室内へと引き換えし、鍵盤の前に立った。ピアノを弾いたことはない。少なくとも、今ある記憶の中では。まりあはぎこちなく人差し指を突き出して、光る鍵盤を押した。
ポーン……高く澄んだ快い音が響き、白い光が火花のように視界いっぱいに弾けた。最初の一音から旋律が広がっていく。夜の校舎で聞いていたのと同じ、『もろびとこぞりて』の楽曲だ。
明るい場所で聴くその曲は、暗闇で聴くよりも遥かに軽快で愉し気に感じられた。
放課後の音楽室。まだ日も暮れないそこで、みちるがピアノを弾いている。まりあはそれを傍らに佇んで聴いていた。
みちるの演奏は、特別上手という訳ではない。技術は無く、譜面も子供向けに直された簡単なものだ。それでも懸命で、何より当人が心から楽しんで弾いているのが伝わる、良い演奏だった。聴いていると、まりあの心まで洗われるようだ。
最後の一音まで丁寧に弾き終えると、みちるは鍵盤から手を離し、こちらに振り向いた。上気した頬。得意げな笑みで口を開く。
「どうだった?」
「すご~い、みちるちゃん!」
まりあは割れんばかりの拍手を送った。初めて聴かせてもらった友達の演奏は、いたく感動した。
大袈裟に褒められて、みちるは照れ臭そうに後頭部を掻く。はにかみながら補足した。
「今度のクリスマス会で弾くんだ。わたしのピアノに合わせて、みんなが歌うんだよ」
「そうなんだ、すごいね! クリスマス会って?」
「教会で毎年やってるの。わたしの家クリスチャンだから、運営の方に参加してるんだ。劇をやったり、ごちそうを食べたりするんだよ。お歌の伴奏に選ばれたのは、今回が初めてなんだ」
だから頑張らなくちゃ、とみちるは嬉し気に語る。まりあもこの友人が誇らしかった。ニコニコ笑顔で聞いていると、みちるが言う。
「一般の参加も自由なんだよ。子どもは会費もタダだから、良かったらまりあちゃんもおいでよ。あ、プレゼント交換のお金だけはかかっちゃうけど、大丈夫そうなら……」
「行きたい!」
食い気味に、まりあは身を乗り出して答えた。
「みちるちゃんのピアノ、応援したいもん! 絶対行く!」
「本当っ? うれしい!」
「絶対来てね、約束だよ!」と、みちるは念を押すように、小指を突き出した。そこに自らの小指を絡めて、まりあは誓いを立てる。
「うん! 約束!」
みちるの溢れんばかりの笑顔を最後に、再び白い光が視界を覆った。
「まりあ、どうだった?」
一瞬みちるに訊かれたのかと思ったが、違った。お決まりの心配そうな顔でこちらを見上げるシフォンと目が合う。辺りは先程までの明るさが嘘のように暗闇に包まれていた。追体験の旅から戻ってきたのだ。
まりあは、ふうと一息吐いて切り替えると、同行者達に向き直った。
「うん、みちるちゃんの記憶なのかもしれないけど、わたしにも見えたよ」
「二人の共通の記憶だったんだね」
「うん」
思い返すと、心が温かいものでいっぱいになった。自分は本当に、みちるのことが好きだったのだ。その想いを確かめるように胸に手を重ね、目を瞑る。ふわふわとした優しい気持ちが満たす中、一筋つきりとした痛みが走った。
(……あれ?)
「ケド、光は消えちゃったみたいだネ」
クラウンの言でハッとして鍵盤の方を見遣ると、確かに先刻までそこにあった筈の白い光が失せていることに気付く。
「本当だ。大丈夫なのかな……わたしがみちるちゃんの記憶の欠片を、横取りしちゃったんじゃ……」
「それはないでしょ。消えたってことは、たぶんまりあの欠片の方だったんじゃないかな」
「そうなのかな……」
ひとまずシフォンの説を受け入れることにしたが、まりあの胸の内はさっき痛みを覚えた後から不穏にざわめいていた。
(何だろう、この不安……)
正体の分からない暗雲が垂れ込めていくような、重たい気分。けれど、シフォン達に心配を掛けたくはないので、まりあは何でもないことにして痛みから目を逸らした。
「サテ、今度こそあの子を探しに行かないとネェ」
「そうだね。……って、うわ!」
「どうしたの!?」
突如シフォンが叫んだものだから、まりあの物想いも吹っ飛んでしまった。シフォンは壁に飾られた絵画を見上げている。バッハやベートーヴェンなど、著名な音楽家達の描かれた肖像画だ。それらがじろりと目玉を下に向けて、床の犬を見つめ返していた。
「肖像画が動いた!」
「あるあるの七不思議だネェ」
「あれ? あそこは何も描かれてない」
一つだけ、『シューベルト』と銘打たれた額縁の中は、空っぽだった。
「留守みたいね」
きっと、何処ぞを出歩いているのだろう。二宮金次郎や人体模型だってそうなのだから、肖像画の人物がお出かけしたところで今更驚かない。けれど、出くわさないに越したことはない。二人と一匹は今の内に立ち去ることにして、音楽室を後にした。
「みちるちゃん、まだ近くにいるかな」
気持ちを切り替えるべく、まりあは張り切って辺りを見回した。みちるらしき光は、やはり廊下の何処にも見当たらない。ひとまず、隣の教室から覗いてみようかと思った、その時。
ぞくり……と、首筋から一気に冷たいものが駆け巡った。
(この、感覚は――)
覚えがある。総身が凍て付くような、凄まじい恐怖とプレッシャー。今すぐにでもこの場から逃げ出したいのに、足が竦んで動けなくなる、圧倒的な絶望感。
「まりあ?」
「来る……」
シフォン達が疑問の眼差しを向ける中、まりあは震える声で告げた。前方から目が離せなくなる。緑色の蛍光灯が照らし出す空間。やがて、曲がり角からそれは姿を現した。
ゆらりと霧が舞い込むように、不定形の闇がゆっくりと濃度を増して、形を成していく。
あの黒い影が、そこに存在していた。
奏者は余程この曲が好きなのか、それとも何か別の意図でもあるのか。誘われるように件の音楽室の前までやってくると、音量は最高潮に達した。
確かにここが発生源で間違いないようだ。
シフォンとクラウンと顔を見合せ、まりあは無言で頷いた。唇を結び気を引き締め、扉へと手を掛ける。
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こちらに背を向けていても、誰だかはすぐに分かった。
「みちるちゃん!」
ピアノを弾いていたのは、彼女だったのだ。曲が終わるのも待ち切れずにまりあが呼び掛けると、みちるは弾かれたように演奏を止め、立ち上がった。
そのまま振り返りもせずに、走り出す。
「みちるちゃん! どうして逃げるの!?」
みちるは止まらない。驚く程の速さで反対側の扉の方まで駆けると、戸を引いて室外へと飛び出していく。後からまりあが追って顔を出した時には、廊下は閑散として人影も無く、みちるの姿は何処にも見受けられなかった。
「え?」
たった今彼女がここへ来た筈なのに、見失うには早過ぎやしないか。
「消えた?」
「何処かの教室に入ったんじゃないカナ」
唖然と零すまりあに、クラウンが現実的な推測を提示する。
「そっか、そうかも」
「近場から探してみよう。……けど、その前に」
話しながら、シフォンが今一度音楽室の方へと顔を向けた。視線の先には、置き去りにされたグランドピアノ。みちるが最後に指を放した鍵盤が、一つだけ眩い輝きを放っていた。離れていても、その光は薄闇を裂いてハッキリと見える。みちるが落としたものだろうか。
「まりあにも関係してるかもしれないし、試しにあれに触れておこうよ」
「でも、みちるちゃんが……」
そんなことをしている間に、どんどん遠くに行ってしまうのではないか。そう危惧してまりあが躊躇っていると、シフォンは重ねた。
「次に機会があるかも分からないよ。チャンスは逃さないようにしないと」
それもそうだ。納得すると、まりあは早速音楽室内へと引き換えし、鍵盤の前に立った。ピアノを弾いたことはない。少なくとも、今ある記憶の中では。まりあはぎこちなく人差し指を突き出して、光る鍵盤を押した。
ポーン……高く澄んだ快い音が響き、白い光が火花のように視界いっぱいに弾けた。最初の一音から旋律が広がっていく。夜の校舎で聞いていたのと同じ、『もろびとこぞりて』の楽曲だ。
明るい場所で聴くその曲は、暗闇で聴くよりも遥かに軽快で愉し気に感じられた。
放課後の音楽室。まだ日も暮れないそこで、みちるがピアノを弾いている。まりあはそれを傍らに佇んで聴いていた。
みちるの演奏は、特別上手という訳ではない。技術は無く、譜面も子供向けに直された簡単なものだ。それでも懸命で、何より当人が心から楽しんで弾いているのが伝わる、良い演奏だった。聴いていると、まりあの心まで洗われるようだ。
最後の一音まで丁寧に弾き終えると、みちるは鍵盤から手を離し、こちらに振り向いた。上気した頬。得意げな笑みで口を開く。
「どうだった?」
「すご~い、みちるちゃん!」
まりあは割れんばかりの拍手を送った。初めて聴かせてもらった友達の演奏は、いたく感動した。
大袈裟に褒められて、みちるは照れ臭そうに後頭部を掻く。はにかみながら補足した。
「今度のクリスマス会で弾くんだ。わたしのピアノに合わせて、みんなが歌うんだよ」
「そうなんだ、すごいね! クリスマス会って?」
「教会で毎年やってるの。わたしの家クリスチャンだから、運営の方に参加してるんだ。劇をやったり、ごちそうを食べたりするんだよ。お歌の伴奏に選ばれたのは、今回が初めてなんだ」
だから頑張らなくちゃ、とみちるは嬉し気に語る。まりあもこの友人が誇らしかった。ニコニコ笑顔で聞いていると、みちるが言う。
「一般の参加も自由なんだよ。子どもは会費もタダだから、良かったらまりあちゃんもおいでよ。あ、プレゼント交換のお金だけはかかっちゃうけど、大丈夫そうなら……」
「行きたい!」
食い気味に、まりあは身を乗り出して答えた。
「みちるちゃんのピアノ、応援したいもん! 絶対行く!」
「本当っ? うれしい!」
「絶対来てね、約束だよ!」と、みちるは念を押すように、小指を突き出した。そこに自らの小指を絡めて、まりあは誓いを立てる。
「うん! 約束!」
みちるの溢れんばかりの笑顔を最後に、再び白い光が視界を覆った。
「まりあ、どうだった?」
一瞬みちるに訊かれたのかと思ったが、違った。お決まりの心配そうな顔でこちらを見上げるシフォンと目が合う。辺りは先程までの明るさが嘘のように暗闇に包まれていた。追体験の旅から戻ってきたのだ。
まりあは、ふうと一息吐いて切り替えると、同行者達に向き直った。
「うん、みちるちゃんの記憶なのかもしれないけど、わたしにも見えたよ」
「二人の共通の記憶だったんだね」
「うん」
思い返すと、心が温かいものでいっぱいになった。自分は本当に、みちるのことが好きだったのだ。その想いを確かめるように胸に手を重ね、目を瞑る。ふわふわとした優しい気持ちが満たす中、一筋つきりとした痛みが走った。
(……あれ?)
「ケド、光は消えちゃったみたいだネ」
クラウンの言でハッとして鍵盤の方を見遣ると、確かに先刻までそこにあった筈の白い光が失せていることに気付く。
「本当だ。大丈夫なのかな……わたしがみちるちゃんの記憶の欠片を、横取りしちゃったんじゃ……」
「それはないでしょ。消えたってことは、たぶんまりあの欠片の方だったんじゃないかな」
「そうなのかな……」
ひとまずシフォンの説を受け入れることにしたが、まりあの胸の内はさっき痛みを覚えた後から不穏にざわめいていた。
(何だろう、この不安……)
正体の分からない暗雲が垂れ込めていくような、重たい気分。けれど、シフォン達に心配を掛けたくはないので、まりあは何でもないことにして痛みから目を逸らした。
「サテ、今度こそあの子を探しに行かないとネェ」
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突如シフォンが叫んだものだから、まりあの物想いも吹っ飛んでしまった。シフォンは壁に飾られた絵画を見上げている。バッハやベートーヴェンなど、著名な音楽家達の描かれた肖像画だ。それらがじろりと目玉を下に向けて、床の犬を見つめ返していた。
「肖像画が動いた!」
「あるあるの七不思議だネェ」
「あれ? あそこは何も描かれてない」
一つだけ、『シューベルト』と銘打たれた額縁の中は、空っぽだった。
「留守みたいね」
きっと、何処ぞを出歩いているのだろう。二宮金次郎や人体模型だってそうなのだから、肖像画の人物がお出かけしたところで今更驚かない。けれど、出くわさないに越したことはない。二人と一匹は今の内に立ち去ることにして、音楽室を後にした。
「みちるちゃん、まだ近くにいるかな」
気持ちを切り替えるべく、まりあは張り切って辺りを見回した。みちるらしき光は、やはり廊下の何処にも見当たらない。ひとまず、隣の教室から覗いてみようかと思った、その時。
ぞくり……と、首筋から一気に冷たいものが駆け巡った。
(この、感覚は――)
覚えがある。総身が凍て付くような、凄まじい恐怖とプレッシャー。今すぐにでもこの場から逃げ出したいのに、足が竦んで動けなくなる、圧倒的な絶望感。
「まりあ?」
「来る……」
シフォン達が疑問の眼差しを向ける中、まりあは震える声で告げた。前方から目が離せなくなる。緑色の蛍光灯が照らし出す空間。やがて、曲がり角からそれは姿を現した。
ゆらりと霧が舞い込むように、不定形の闇がゆっくりと濃度を増して、形を成していく。
あの黒い影が、そこに存在していた。
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