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第4章 真実の扉
第21話 パンドラの匣
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その男に初めて会ったのは、まりあが学校から帰宅したある日のことだった。
(あれ? だれかいる)
アパートの玄関前、まりあが母親と二人で暮らしている部屋の扉に見知らぬ男が立っていた。殆ど寄り掛かるような形で、人待ち顔で煙草を燻らせている。端正な顔立ちだが、だらしのない格好に威圧的な雰囲気の、三十代半ばから後半の男性だ。
(うちに何の用だろう……)
声を掛けるべきか、迷った。近寄り難さから立ち止まり、遠巻きに見ていると、向こうから先にこちらに気が付いたようで視線が合う。訝しげに片眉を上げてじろりと睨み据えてきた後、男はハッとしたように瞠目して口を開いた。
「――まりあ? お前、まりあか?」
「え?」
どうして、わたしの名前を? まりあが疑問を呈する間もなく、男はズカズカ距離を詰めながら続けた。
「でかくなったなぁ。真理子にそっくりじゃん。こりゃあ、将来有望だな。アイツ、顔だけはいいからな」
「あ、あの」
「なぁ、真理子、離婚したんだろ? 父親のことって、聞いてるか?」
戸惑うまりあに、男はズケズケと質問を投げ掛ける。言葉と共に煙を含んだ息が吐き出され、空間に白い靄と化学物質の臭いが堆積していく。鼻が曲がるような悪臭。遮られる視界。逃れるようにまりあは顔を逸らし、目線を地面に落とした。
「な、なんの話ですか?」
「その様子じゃ知らなさそうだな。お前の本当の父親のこと、教えてやろうか?」
「あんた! 何してんのっ!?」
背後から、鋭い恫喝が飛んだ。廊下の先、まりあの母親、真理子の姿があった。食材の詰まった買い物袋を提げ、険しい表情で男を見ている。
「よぉ、真理子。久しぶり」
相手の剣幕など気にも留めず、男はへらへら笑いながら片手を上げた。真理子は足早に二人の間に割り込み、まりあを背に隠すように立つ。
「今更何しに来たの!? まりあに余計なこと言わないでよ!!」
「何だよ、んな怒んなよ。まだ何もしてねーよ」
真理子は鞄から取り出した鍵で玄関扉を解錠すると、唖然と固まるまりあの腕を掴み、内部に押し遣った。
「入ってなさい」
「でも」
「いいから!」
有無を言わさず、扉が目前で閉ざされる。その後、感情的に言い争う二人の声が外側から聞こえてきた。しかし話の内容は容量を得ず、上手く聞き取れない。
理解不能な状況下に置かれ、まりあはじりじりとした気分で母親を待った。胸中に不安が広がる。
(あの人は、一体何者なの?)
随分と自分達の事情に詳しいようだった。全くの他人とは思われない。
〝本当の父親〟――その単語が重くのしかかる。
やがて、扉の外がようやく静かになった頃、真理子が疲れた顔で戻ってきた。
「ママ!」
リビングで待機していたまりあを見ると、真理子は不機嫌そうに目を眇める。
「あんた、何で自分の部屋に戻ってないの?」
「あの人は」
「帰ったわよ。あんたには関係ないから」
「でも、わたしのこと知ってるみたいだった」
「いいから、忘れなさい。どうせ、もう二度と会わないんだから」
真理子はそれ以上話したがらず、とても〝本当の父親〟のことを聞けるような雰囲気ではなかった。やむなくまりあは言及を諦めたが、男との再会はその後すぐに意外な形でやってきたのだった。
◆◇◆
「改めて紹介するわね。この人は幹雄さん。あたしの元カレ」
なんと、忘れろと言っていた筈の真理子が自ら伴ってきたのだ。困惑して見つめるまりあに、幹雄と呼ばれた男が口元を釣り上げて笑い掛ける。そこに爽やかさは欠片もなく、何処か胡散臭さを感じさせた。
「もう分かってると思うけど、あんたの本当のお父さんだから」
「え……」
「あんたが生まれてすぐの頃に別れてたんだよね。物心着く前だったから、覚えてないと思うけど。……色々考えたんだけどさ、やっぱりあんたには父親が居た方がいいかなって。幹雄も心を入れ替えて、ちゃんと就職したって言うし。今日から一緒に住むことにしたから」
さらりと告げられたいくつかの重大事項に、まりあの脳内は真っ白になった。何も返せずにいる内に、彼女の意思などお構いなしに勝手に話が進められていく。
「まぁ、急に慣れるのは無理だろうから、少しずつでいいからね」
「ってことで、よろしくな、まりあ。今日から、俺がお前のお父さんだ」
その日から、幹雄は本当に一緒に暮らし始めた。いきなり現れた実父の存在にまりあは大いに戸惑い、他人行儀に接していたが、対する幹雄の方は旧年来の関係性であったかのように、初めから距離感が近かった。
それでも母、真理子はまるで恋する乙女に戻ったようにはしゃいでいたし、幹雄の方も彼なりに気を遣っている節もあったので、暫くは良かったのだ。
歪ながらに三人が新たな家族を形成しようとしているところに、亀裂が生じたのは、程なくして。――幹雄が仕事を辞めてしまった後のことだった。
◆◇◆
「真理子~! おい、真理子!」
幹雄が母を呼んでいる。アパート中に届きそうな大音量の声に、まりあは辟易した。こんな時の彼は大概お酒を飲んで酔っ払っているのだ。
元来飽き性で短気な幹雄は、就職してもすぐに何かしらが気に食わないと言っては辞めてしまう性質を持っていたらしい。それが為に一度真理子に別離を言い渡されたというのに、復縁してもそう簡単に変わりはしないようだ。
またあっさりと職を辞してしまった彼は、こうして昼も夜も関係なく、酒に溺れるようになっていた。
酔っている時の幹雄は横暴になる。だから、極力関わり合いになりたくなくて自室に篭っていたまりあだったが、彼にプライベートスペースという概念はない。
「おい、真理子は何処だ!?」
ノックも無しに入ってこられ、まりあは悲鳴が飛び出しそうになるのを堪えた。居丈高な相手の態度に萎縮しつつ、「ママなら出掛けてるよ」と事実だけを述べる。
「何だよ、使えねーな」
幹雄は舌打ちをして顔を歪めた。それから学習デスクに座すまりあの方を改めて見、「お前でいいや。代わりに酌しろよ」などと宣う。
「やだよ。今、宿題してるんだもん」
「なんだと? 父親の言うことが聞けないってのか? いいから、こっち来い!」
断ると幹雄は一層気分を害したようで、まりあの腕を掴み、否応なしに引き立たせた。
「やめてよ! 痛い!」
抵抗も虚しく、引き摺られるようにしてリビングに連れて行かれる。すると、嫌がる飼い主の声を聞き付けて、シフォンが駆け寄ってきた。
キャン! キャン! 幹雄に向かって、威嚇するように吠え立てる。その手を離せ! と言っているようだった。
「あーもう、うっせえ!!」
癇に障ったのか、幹雄は足元の犬を思い切り蹴り上げた。キャイン! 容赦のない一撃を腹に食らい、悲痛な声が上がる。小さな身体が弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。
「シフォン!」
「コイツ、前の男の犬だろ? いつまで家に置いとくんだよ、うっとーしい。ちっとも俺に懐かねーし、可愛くねーんだよ」
まりあの腕を離すと、幹雄は倒れたシフォンの元へ行き、無造作にその首輪を掴んだ。
「やめて! 何するの!?」
「丁度いいから、捨ててくんだよ。真理子には逃げたって言えよ」
「嫌! シフォンを放して!」
乱雑に犬を持ち上げる幹雄の腕に、まりあは必死に取り縋った。しかし、「邪魔すんな!」と振り払われ、背中からテーブルに衝突する。置かれた酒瓶がいくつか音を立ててフローリングに落下した。
中身の液体が割れたガラスの破片と混ざり合い、むっとしたアルコール臭と共に床に撒き散らかされる。へたり込んだまりあの、お気に入りの白いワンピースの裾が濡れた。
「あー、何やってんだよ! もったいねえ! 後で新しいの買ってこいよ!」
怒鳴り付けながらも、幹雄は手を離さない。輪っかで吊り下げられたシフォンの首は絞まり、僅かに苦しげな喘鳴だけが漏れている。手足を痙攣させ、瞼を閉ざし、もう抵抗する力も残されていないようだった。
その残酷な姿に、まりあの総身からゾッと血の気が引いた。
(殺される)
このままだと、シフォンが殺されてしまう――!
まりあは咄嗟に手に触れたものを掴み、立ち上がるや幹雄目掛けてそれを勢いよく突き出した。
(あれ? だれかいる)
アパートの玄関前、まりあが母親と二人で暮らしている部屋の扉に見知らぬ男が立っていた。殆ど寄り掛かるような形で、人待ち顔で煙草を燻らせている。端正な顔立ちだが、だらしのない格好に威圧的な雰囲気の、三十代半ばから後半の男性だ。
(うちに何の用だろう……)
声を掛けるべきか、迷った。近寄り難さから立ち止まり、遠巻きに見ていると、向こうから先にこちらに気が付いたようで視線が合う。訝しげに片眉を上げてじろりと睨み据えてきた後、男はハッとしたように瞠目して口を開いた。
「――まりあ? お前、まりあか?」
「え?」
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「あ、あの」
「なぁ、真理子、離婚したんだろ? 父親のことって、聞いてるか?」
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「その様子じゃ知らなさそうだな。お前の本当の父親のこと、教えてやろうか?」
「あんた! 何してんのっ!?」
背後から、鋭い恫喝が飛んだ。廊下の先、まりあの母親、真理子の姿があった。食材の詰まった買い物袋を提げ、険しい表情で男を見ている。
「よぉ、真理子。久しぶり」
相手の剣幕など気にも留めず、男はへらへら笑いながら片手を上げた。真理子は足早に二人の間に割り込み、まりあを背に隠すように立つ。
「今更何しに来たの!? まりあに余計なこと言わないでよ!!」
「何だよ、んな怒んなよ。まだ何もしてねーよ」
真理子は鞄から取り出した鍵で玄関扉を解錠すると、唖然と固まるまりあの腕を掴み、内部に押し遣った。
「入ってなさい」
「でも」
「いいから!」
有無を言わさず、扉が目前で閉ざされる。その後、感情的に言い争う二人の声が外側から聞こえてきた。しかし話の内容は容量を得ず、上手く聞き取れない。
理解不能な状況下に置かれ、まりあはじりじりとした気分で母親を待った。胸中に不安が広がる。
(あの人は、一体何者なの?)
随分と自分達の事情に詳しいようだった。全くの他人とは思われない。
〝本当の父親〟――その単語が重くのしかかる。
やがて、扉の外がようやく静かになった頃、真理子が疲れた顔で戻ってきた。
「ママ!」
リビングで待機していたまりあを見ると、真理子は不機嫌そうに目を眇める。
「あんた、何で自分の部屋に戻ってないの?」
「あの人は」
「帰ったわよ。あんたには関係ないから」
「でも、わたしのこと知ってるみたいだった」
「いいから、忘れなさい。どうせ、もう二度と会わないんだから」
真理子はそれ以上話したがらず、とても〝本当の父親〟のことを聞けるような雰囲気ではなかった。やむなくまりあは言及を諦めたが、男との再会はその後すぐに意外な形でやってきたのだった。
◆◇◆
「改めて紹介するわね。この人は幹雄さん。あたしの元カレ」
なんと、忘れろと言っていた筈の真理子が自ら伴ってきたのだ。困惑して見つめるまりあに、幹雄と呼ばれた男が口元を釣り上げて笑い掛ける。そこに爽やかさは欠片もなく、何処か胡散臭さを感じさせた。
「もう分かってると思うけど、あんたの本当のお父さんだから」
「え……」
「あんたが生まれてすぐの頃に別れてたんだよね。物心着く前だったから、覚えてないと思うけど。……色々考えたんだけどさ、やっぱりあんたには父親が居た方がいいかなって。幹雄も心を入れ替えて、ちゃんと就職したって言うし。今日から一緒に住むことにしたから」
さらりと告げられたいくつかの重大事項に、まりあの脳内は真っ白になった。何も返せずにいる内に、彼女の意思などお構いなしに勝手に話が進められていく。
「まぁ、急に慣れるのは無理だろうから、少しずつでいいからね」
「ってことで、よろしくな、まりあ。今日から、俺がお前のお父さんだ」
その日から、幹雄は本当に一緒に暮らし始めた。いきなり現れた実父の存在にまりあは大いに戸惑い、他人行儀に接していたが、対する幹雄の方は旧年来の関係性であったかのように、初めから距離感が近かった。
それでも母、真理子はまるで恋する乙女に戻ったようにはしゃいでいたし、幹雄の方も彼なりに気を遣っている節もあったので、暫くは良かったのだ。
歪ながらに三人が新たな家族を形成しようとしているところに、亀裂が生じたのは、程なくして。――幹雄が仕事を辞めてしまった後のことだった。
◆◇◆
「真理子~! おい、真理子!」
幹雄が母を呼んでいる。アパート中に届きそうな大音量の声に、まりあは辟易した。こんな時の彼は大概お酒を飲んで酔っ払っているのだ。
元来飽き性で短気な幹雄は、就職してもすぐに何かしらが気に食わないと言っては辞めてしまう性質を持っていたらしい。それが為に一度真理子に別離を言い渡されたというのに、復縁してもそう簡単に変わりはしないようだ。
またあっさりと職を辞してしまった彼は、こうして昼も夜も関係なく、酒に溺れるようになっていた。
酔っている時の幹雄は横暴になる。だから、極力関わり合いになりたくなくて自室に篭っていたまりあだったが、彼にプライベートスペースという概念はない。
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「何だよ、使えねーな」
幹雄は舌打ちをして顔を歪めた。それから学習デスクに座すまりあの方を改めて見、「お前でいいや。代わりに酌しろよ」などと宣う。
「やだよ。今、宿題してるんだもん」
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断ると幹雄は一層気分を害したようで、まりあの腕を掴み、否応なしに引き立たせた。
「やめてよ! 痛い!」
抵抗も虚しく、引き摺られるようにしてリビングに連れて行かれる。すると、嫌がる飼い主の声を聞き付けて、シフォンが駆け寄ってきた。
キャン! キャン! 幹雄に向かって、威嚇するように吠え立てる。その手を離せ! と言っているようだった。
「あーもう、うっせえ!!」
癇に障ったのか、幹雄は足元の犬を思い切り蹴り上げた。キャイン! 容赦のない一撃を腹に食らい、悲痛な声が上がる。小さな身体が弾き飛ばされ、床に叩きつけられた。
「シフォン!」
「コイツ、前の男の犬だろ? いつまで家に置いとくんだよ、うっとーしい。ちっとも俺に懐かねーし、可愛くねーんだよ」
まりあの腕を離すと、幹雄は倒れたシフォンの元へ行き、無造作にその首輪を掴んだ。
「やめて! 何するの!?」
「丁度いいから、捨ててくんだよ。真理子には逃げたって言えよ」
「嫌! シフォンを放して!」
乱雑に犬を持ち上げる幹雄の腕に、まりあは必死に取り縋った。しかし、「邪魔すんな!」と振り払われ、背中からテーブルに衝突する。置かれた酒瓶がいくつか音を立ててフローリングに落下した。
中身の液体が割れたガラスの破片と混ざり合い、むっとしたアルコール臭と共に床に撒き散らかされる。へたり込んだまりあの、お気に入りの白いワンピースの裾が濡れた。
「あー、何やってんだよ! もったいねえ! 後で新しいの買ってこいよ!」
怒鳴り付けながらも、幹雄は手を離さない。輪っかで吊り下げられたシフォンの首は絞まり、僅かに苦しげな喘鳴だけが漏れている。手足を痙攣させ、瞼を閉ざし、もう抵抗する力も残されていないようだった。
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