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開演五分前のステージ袖には、匂いがあった。照明機材が熱で焦げる金属臭と、スモークの甘い残り香。それに、焦りをごまかすために振り撒いた香水の匂いが薄く混ざり、空気は喉に刺さるほど重かった。
モニターに映る観客席はざわついている。誰もが今か今かと固唾を飲み、照明が落ちる瞬間を待っていた。
けれどステージ袖にいる四人の視線は、ひとつの方向にだけ集まっている。
——ひとり、足りない。
「連絡は?」
低い声が空気を切り裂いた。リーダーの玲央は眉間に深い皺を刻んだまま、震える声を押し殺している。
マネージャーが顔を青くしながら答えた。
「電話には出ません。GPSは、止まってます」
「止めてるってこと……?」
「意図的でしょうね」
沈黙が降りた。
静かで、冷たい沈黙だった。
ユニット名は《Nocturne Eve》。
デビュー一年目にして、すでにSNSでは「次の賞レース席巻確実」と噂され、今日のライブは追加席まで即完売。メディアの注目度も高い。
本来なら祝福されるはずの夜だ。
けれど欠けた五人目。
ボーカルの蒼がいないだけで、この空間は簡単に崩壊へ傾く。
「……行かなくていいの?」
最年少の湊が、震える声で言った。
「迎えに行ったら……戻る可能性、まだあるでしょ?」
「それは、そうだ。でも」
玲央は拳を握りしめたまま、ゆっくりと首を振った。
「ステージは止められない」
言葉が痛かった。
それが正しいことを、全員が知っていたから。
この世界では「個人の感情」より「期待された瞬間」を優先するよう教育される。犠牲にするものが多いほど、喝采は大きくなる。
その仕組みを知りながら、それでも舞台に立つと決めたのは自分たちだ。
……蒼を除いて。
照明が落ちる合図が響いた。
反射的に身体が動き、モニターライトの白が視界の端で揺れる。
ステージへ歩き出す瞬間、玲央がぽつりと呟いた。
「蒼がいなくても、俺たちは《Nocturne Eve》だ。……行くぞ」
幕が開く。
客席の歓声は、暴風みたいだった。
期待と熱気が混ざり、鼓膜を揺らし、心臓の鼓動を奪うほどの圧力を持って押し寄せる。
オープニング映像。レーザー。スモーク。
そして一曲目——本来なら蒼のソロで始まる曲。
空白。
たった数拍の「声がない時間」が、全てを狂わせた。
観客の何割かは察し、何割かは目を見開き、何割かは絶叫した。
けれどステージは止まらない。
玲央が入り、千景のラップが刺さり、湊と愛斗がその空白を埋めるように動いた。
……穴は埋まらなかった。
埋めたふりをするだけだ。
ライブは終わった。
拍手は鳴り止まなかったが、歓声には不安とざわつきが混ざっていた。
控室に戻った瞬間、湊が泣き叫んだ。
「なんで……なんで今日なんだよ! 昨日まで普通だったじゃん。笑ってたじゃん」
「泣くな」
千景が冷静に言う。
「感情で動くと判断を誤る。まず状況整理だ」
「状況整理?」
愛斗が笑った。乾いた、壊れた笑いだった。
「失踪だろ? 表向きは“体調不良”で誤魔化すってやつ」
「言うな」玲央の声は低いが刺さる。「今はまだ決めつけるな」
「でも事実でしょ」
愛斗が吐き捨てた。
「蒼は逃げた。……こんな日に」
その瞬間、控室のスピーカーからノイズが走った。
――ザザ…………
――聞こえる?
四人が止まった。
聞き慣れた声。
蒼だ。
「接続……制限されてる。多分、長くは繋げない。だから先に言う」
息が少し乱れている。どこか遠い場所の空気の匂いが、声に混ざって響いていた。
「……ごめん」
ただその一言が、刺さった。
「蒼。どこ?」
玲央が低く、しかし必死に言う。
「戻ってこい。怒らない。理由を聞く。だから」
「戻れない」
その声は震えていなかった。
迷いもなかった。
ただ告げるだけの声音だった。
「俺、もう歌えない」
湊が息を呑んだ。
愛斗は拳を握り、千景は視線を落とした。
蒼の声が続く。
「歌うたびに誰かの期待を飲み込むみたいで、息ができない。
俺の声は、皆にとって希望なのに……俺にとっては証拠なんだ。
俺が自分を偽ってきたっていう証拠」
ノイズが強くなる。
聞こえにくくなる前に、蒼は最後の言葉を選ぶように息を吐いた。
「これは逃げじゃない。選択だよ」
その瞬間、声が途切れた。
通信は切れた。
残ったのは、沈黙と、理解できない痛みだけ。
玲央はゆっくりと立ち上がり、ステージが終わった手袋を握り潰すほどの力で呟いた。
「……蒼。お前がいない《Nocturne Eve》で、俺たちは何を歌えばいい」
問いの答えは返ってこない。
けれど、この夜からひとつ確かなことが生まれた。
——《Nocturne Eve》は、五人組ではなくなった。
——そして同時に、五人でなければならない理由が生まれた。
蒼の消失は、物語の終わりではなく始まりだった。
モニターに映る観客席はざわついている。誰もが今か今かと固唾を飲み、照明が落ちる瞬間を待っていた。
けれどステージ袖にいる四人の視線は、ひとつの方向にだけ集まっている。
——ひとり、足りない。
「連絡は?」
低い声が空気を切り裂いた。リーダーの玲央は眉間に深い皺を刻んだまま、震える声を押し殺している。
マネージャーが顔を青くしながら答えた。
「電話には出ません。GPSは、止まってます」
「止めてるってこと……?」
「意図的でしょうね」
沈黙が降りた。
静かで、冷たい沈黙だった。
ユニット名は《Nocturne Eve》。
デビュー一年目にして、すでにSNSでは「次の賞レース席巻確実」と噂され、今日のライブは追加席まで即完売。メディアの注目度も高い。
本来なら祝福されるはずの夜だ。
けれど欠けた五人目。
ボーカルの蒼がいないだけで、この空間は簡単に崩壊へ傾く。
「……行かなくていいの?」
最年少の湊が、震える声で言った。
「迎えに行ったら……戻る可能性、まだあるでしょ?」
「それは、そうだ。でも」
玲央は拳を握りしめたまま、ゆっくりと首を振った。
「ステージは止められない」
言葉が痛かった。
それが正しいことを、全員が知っていたから。
この世界では「個人の感情」より「期待された瞬間」を優先するよう教育される。犠牲にするものが多いほど、喝采は大きくなる。
その仕組みを知りながら、それでも舞台に立つと決めたのは自分たちだ。
……蒼を除いて。
照明が落ちる合図が響いた。
反射的に身体が動き、モニターライトの白が視界の端で揺れる。
ステージへ歩き出す瞬間、玲央がぽつりと呟いた。
「蒼がいなくても、俺たちは《Nocturne Eve》だ。……行くぞ」
幕が開く。
客席の歓声は、暴風みたいだった。
期待と熱気が混ざり、鼓膜を揺らし、心臓の鼓動を奪うほどの圧力を持って押し寄せる。
オープニング映像。レーザー。スモーク。
そして一曲目——本来なら蒼のソロで始まる曲。
空白。
たった数拍の「声がない時間」が、全てを狂わせた。
観客の何割かは察し、何割かは目を見開き、何割かは絶叫した。
けれどステージは止まらない。
玲央が入り、千景のラップが刺さり、湊と愛斗がその空白を埋めるように動いた。
……穴は埋まらなかった。
埋めたふりをするだけだ。
ライブは終わった。
拍手は鳴り止まなかったが、歓声には不安とざわつきが混ざっていた。
控室に戻った瞬間、湊が泣き叫んだ。
「なんで……なんで今日なんだよ! 昨日まで普通だったじゃん。笑ってたじゃん」
「泣くな」
千景が冷静に言う。
「感情で動くと判断を誤る。まず状況整理だ」
「状況整理?」
愛斗が笑った。乾いた、壊れた笑いだった。
「失踪だろ? 表向きは“体調不良”で誤魔化すってやつ」
「言うな」玲央の声は低いが刺さる。「今はまだ決めつけるな」
「でも事実でしょ」
愛斗が吐き捨てた。
「蒼は逃げた。……こんな日に」
その瞬間、控室のスピーカーからノイズが走った。
――ザザ…………
――聞こえる?
四人が止まった。
聞き慣れた声。
蒼だ。
「接続……制限されてる。多分、長くは繋げない。だから先に言う」
息が少し乱れている。どこか遠い場所の空気の匂いが、声に混ざって響いていた。
「……ごめん」
ただその一言が、刺さった。
「蒼。どこ?」
玲央が低く、しかし必死に言う。
「戻ってこい。怒らない。理由を聞く。だから」
「戻れない」
その声は震えていなかった。
迷いもなかった。
ただ告げるだけの声音だった。
「俺、もう歌えない」
湊が息を呑んだ。
愛斗は拳を握り、千景は視線を落とした。
蒼の声が続く。
「歌うたびに誰かの期待を飲み込むみたいで、息ができない。
俺の声は、皆にとって希望なのに……俺にとっては証拠なんだ。
俺が自分を偽ってきたっていう証拠」
ノイズが強くなる。
聞こえにくくなる前に、蒼は最後の言葉を選ぶように息を吐いた。
「これは逃げじゃない。選択だよ」
その瞬間、声が途切れた。
通信は切れた。
残ったのは、沈黙と、理解できない痛みだけ。
玲央はゆっくりと立ち上がり、ステージが終わった手袋を握り潰すほどの力で呟いた。
「……蒼。お前がいない《Nocturne Eve》で、俺たちは何を歌えばいい」
問いの答えは返ってこない。
けれど、この夜からひとつ確かなことが生まれた。
——《Nocturne Eve》は、五人組ではなくなった。
——そして同時に、五人でなければならない理由が生まれた。
蒼の消失は、物語の終わりではなく始まりだった。
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