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後篇
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蒼が消えた夜から、一年が経った。
《Nocturne Eve》は解散しなかった。
むしろ、数字だけを見れば「飛躍」と呼ばれるべき一年だった。配信再生数は右肩上がり、タイアップも途切れず、ドームツアーの発表動画は数分でトレンドを占拠した。
公式プロフィールには、最初から「四人組ダンスボーカルユニット」とだけ書かれている。
初期インタビュー記事のいくつかは、知らないうちに書き換えられていた。
五人並んで撮ったはずの写真は、解像度の低いまま、自然に「四人の構図」に収束している。
時間は、都合よく歴史を編集する。
けれど、すべての記録が書き換えられるわけじゃない。
「——ねぇ、リーダー。これ、知ってた?」
深夜二時。
都内のタワマン高層階。防音の効いたリビングで、湊がタブレットを突き出した。
玲央は、ソファに沈んだまま視線だけを動かす。
画面にはファンがまとめた「初期《Nocturne Eve》考察スレ」のスクショが並んでいた。
そこには、禁止ワードのように「蒼」という名前が点々と存在している。
──最初期のダンス構成、五人じゃないと成立しなくない?
──昔のフェス映像、センターの子の名前がどこにも出てこない
──録画してたCM、左から二番目の子だけ、今流れてるバージョンだと角度違うよね? 合成?
「“ゴーストメンバー”って呼ばれてるらしいよ」
湊は乾いた声で笑った。
「存在しなかったはずの五人目。都市伝説みたいだ。『祈った夜にだけ画面に映る』とか言ってさ」
「名前が出ないだけ、まだマシだ」
千景が、キッチンカウンターに背中を預けたまま言った。
「具体的な個人情報に辿り着いたら、向こうが本気で“処理”してくる」
「“向こう”って」
玲央が目を閉じる。
瞼の裏に暗い会議室の色が浮かんだ。
蒼が消えた直後、事務所から正式に通達があった。
「蒼は長期療養に入る」
「症状の性質上、詳細は公表できない」
「代わりに、ユニットは四人組として再始動する」
そして最後に、さらりと告げられた一文。
——『これ以上、彼の名前を公の場で出さないでください』
その席で、玲央だけは「理由」を聞かされた。
だから、誰にも言えない。
「リーダー、あの日のこと……本当に、蒼が“勝手に”いなくなっただけ?」
湊の声が、静かに落ちた。
あの日から一年。何度も飲み込まれてきた問いだ。
玲央は、答えを濁そうとした。
けれど喉の奥で、何かがつかえて出ない。
代わりに、別の言葉が零れた。
「……この間さ、事務所のサーバ担当から、“変なデータがある”って連絡が来た」
「変なデータ?」
「俺宛ての、未送信ファイル。日付は——蒼が消えた日」
湊と千景、愛斗の視線が一斉に集まる。
「内容は?」
「まだ、見てない」
「なんでだよ!」
「怖かったんだよ」
思わず素の声が出た。
玲央は額を押さえ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺はあの日、蒼の選択を“正当化するほう”を選んだ。
『これは逃げじゃない、選択だ』って言葉を、都合よく信じた。
もしあのファイルの中身が、全然違うものだったら……俺、たぶん」
耐えきれず、言葉が途切れる。
「今から、見る?」
千景が静かに提案した。
「逃げ続けるほうが、よほど長く苦しい」
「……ああ」
玲央は頷いた。
ソファから立ち上がり、部屋の隅に置かれた古いノートPCを開く。
事務所の共用端末からコピーしたまま、フォルダすら作らずに放り込んだファイルがひとつ。
『kimiga_kieta_day_log.aoi』
エンターキーを押す指先が、わずかに震えた。
再生ボタンを押すと、最初は低い環境音だけが流れた。
電車の走行音に似ている。
かすかにアナウンスが混じり、風の音がマイクを揺らす。
やがて、息を整える気配がした。
それから——
『……録れてる?』
聞き慣れた声。
けれど、ステージで響いていたものより少し低く、素の蒼の声だった。
『玲央。これ、たぶん送れない。送っちゃいけない類いのやつだから、サーバの隙間に隠す。見つけてるってことは、まだリーダーやってるってことだよね』
軽く笑う音。
『本当はさ、あの日のスピーカー通話だけで終わらせるつもりだった。でもあれじゃ、たぶん足りなかった。……俺のほうが、足りなかった』
玲央の指先に、汗がにじむ。
隣で湊が息を詰め、愛斗が腕を組んで目を閉じる。
千景はただ静かに、音に耳を澄ませていた。
『結論から言うね』
蒼の声が少しだけ硬くなる。
『俺は、“消えたかった”わけじゃない。
“消されること”を選んだんだ』
言葉の意味が、すぐには飲み込めない。
蒼は続けた。
『初めてパニック起こした日のこと、覚えてる? バックステージの影で膝抱えて、見えない観客を全部背負ってるみたいで、呼吸できなくなった日』
覚えている。
玲央の脳裏に、あの夜の湿った床と、スモークの残り香と、震える肩の感触が蘇る。
『あの日、医務室に運ばれた後、偉い人が来た。
“最近、こういう子が増えてる”ってさ。
“それでもステージに立てるように、調整する場所がある”って』
調整。
聞き覚えのある単語に、千景が目を細めた。
『“調整施設”っていう綺麗な名前の檻。
完全遮断の病棟みたいなビルがあって、そこに送られた子は、次に出てくるとき、だいたい“別人みたいにプロ意識が高くなってる”んだって』
淡々とした口調だった。
感情を殺すように整理された語り。
『俺も、そこに入れられる予定だった。
でも、それには条件があった。
“問題行動を起こしたことにする”って』
湊が顔をしかめる。
『“突然失踪した”“ルールを破った”“SNSに不用意なことを書いた”。なんでもいい。作り話でもいい。そうやって“問題児”のラベル貼ってから調整すれば、誰も疑わない。
——ちゃんと戻ってきたとき、『更生した』って物語が作れるから』
乾いた笑いが、録音の向こう側から漏れた。
『ねぇ、それ、もうアイドルじゃなくて商品だよね。
壊れたら工場に送って直して、また棚に並べる。
俺は、自分で歩いてステージに上がれなくなったら、その瞬間に終わりだって思ってた』
玲央は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
——あの日、会議室で聞かされた話。
「蒼くんの状態を考えると、一度“環境を変える”必要があると思います。
もちろん、数年後に復帰できるようこちらも準備します。そのかわり——」
あのとき、提示されたのは「ユニット」を守るための取り引きだった。
蒼を一時的に「問題児」にして、調整施設に送る。
その代わり、《Nocturne Eve》の活動は全力で支える。
蒼のことは、公式には「最初からいなかった」ことにする。
それを飲んだのは、誰か。
そして、拒んだのは——
『玲央、きっとあの人たちは、君にも同じ条件を出したよね』
録音の中の蒼が、静かに言う。
『“リーダーなら、納得させられる”って。
“ユニットを守るために、ひとりを切り捨ててほしい”って』
その通りだった。
胸の奥で、古い痛みが再燃する。
『君がうなずきそうになったの、分かった。
だから先に、俺が勝手に決めた。
“問題行動”の枠、全部俺が引き受けるって』
風の音が一瞬だけ強くなる。
電車のブレーキ音。ホームのアナウンス。
『ライブ当日、俺は事務所の許可なく抜け出した。
GPS切って、いちばん通信が不安定になる路線の、いちばん端っこの車両で、これを録ってる。
スピーカー通話、勝手に繋いだのも俺。あれ、多分バレてる』
そんな冗談、笑えなかった。
『“蒼は逃げた”って形にしてもらえれば、それでいい。
“調整施設に送られて直されるアイドル”じゃなくて、“逃げたアイドル”でいたい。
逃げたやつのことなんて、すぐ忘れられるでしょ?』
「忘れられるわけ、ねぇだろ……」
気づけば、玲央は声に出していた。
録音の中で、蒼が少しだけ黙る。
そして、最後の言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
『君が消えた日の記録、ってタイトルにした。
——俺がいなくなった日、ほんとは“君”のほうが消えかけてたから』
違う、と反射的に思う。
否定したかった。
けれど、あの日の自分は確かに、リーダーとしての顔と、ひとりの人間としての顔のどちらを残すかで揺らいでいた。
『俺が先に消えれば、君は残る。
君が残れば、《Nocturne Eve》は残る。
俺は、君と、ユニットと、ファンの記憶の中でだけ、生きてればいいや』
風の音が、優しくなる。
『勝手な自己犠牲って知ってる。
でも、アイドルなんて最初から、“誰かの物語のために”生きてるんでしょ?
だったらせめて、最後くらい、自分で物語の畳み方を決めたい』
短い沈黙のあと、蒼が微笑む気配がした。
『……君がこのファイルをいつか見つけたとき、《Nocturne Eve》はきっと、今とは違う形でステージに立ってる。
どうなっててもいい。
ただひとつだけ頼む』
そこで録音は、一瞬だけ途切れた。
ノイズが走り、復帰する。
『“四人組”って紹介されたとき、たまにでいい。
頭の中だけで“五人目”の立ち位置を空けといて』
そこで、音声は終わった。
再生バーが止まり、画面が暗くなる。
部屋の中には、誰も言葉を持っていなかった。
「……やっぱ、ずるいよ」
静寂を破ったのは、湊だった。
声は掠れていたが、泣き声ではなかった。
「全部、自分で抱えて、自分で決めてさ。
俺たちに“選ばせる機会”すらくれなかった」
愛斗が、低く笑う。
「ほんとだよ。逃げたくせに、ちゃんと物語として成立させて消えてるの、性格悪い」
「でも」
千景が、目元を指で押さえながら微笑んだ。
「君たちは、ちゃんと“見る”ことを選んだ。それもまた、選択だ」
玲央は、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外には、街の光が宝石みたいに散らばっている。
ネオンも、窓ガラスに映る自分の顔も、全部、どこか現実感が薄い。
「……ドームツアーの初日」
ぽつりと、呟いた。
「オープニングの立ち位置、変えようか」
湊が顔を上げる。
愛斗が眉をひそめる。
千景が興味深そうに首を傾げる。
「一曲目、《Nocturne》のイントロ。
センター、空ける」
「空けるって……誰も立たないの?」
「ああ」
玲央は、迷いなく頷いた。
「照明だけで、五人分の影を作る。
紹介テロップ上は“四人組”でもいい。
でも、ステージの上だけは“元から五人だった”って空気を、ちゃんと見せる」
それは、契約違反ギリギリの提案だった。
蒼の名前を出さないからセーフだと信じたいだけの、苦しい抜け道かもしれない。
「ファン、気づくだろうね」
湊が、ゆっくりと笑う。
「“ゴーストメンバー”の席だって。きっとまた、考察が増える」
「増えればいい」
玲央は、拳を握りしめた。
「忘れられるより、ずっとましだ」
千景も頷く。
「じゃあ俺、照明チームにそれとなく伝えとく。“演出として面白いから”って」
「愛斗は?」
「……賛成」
素っ気なく見せかけて、声はどこか震えていた。
「歌詞、ちょっとだけ変えない? どこにも書いてない“五人目”の居場所、隠すみたいに」
「それ、いい」
湊の瞳が輝く。
「観客には伝わらなくてもいい。でも、歌うたびに、俺たちは思い出せる」
蒼が残した「記録」は、ファイルとしてはそこで終わっている。
けれど、彼らがこの先積み重ねるライブも、歌も、演出も、全部が続きを書く。
——物語の畳み方を決める権利は、確かに蒼が奪っていった。
しかし、「物語の続け方」は、まだ四人の手元に残されている。
ドームツアー初日。
開演五分前のステージ袖には、一年前と同じ匂いが漂っていた。
熱を持った機材の金属臭、スモーク、わずかな香水。
違うのは、そこに立つ四人の目の色だけだ。
「……行くぞ、《Nocturne Eve》」
玲央がそう言った。
誰も「五人で」とは言わない。
でも、その沈黙の中に確かに「もうひとり」がいる。
暗転。
歓声。
オープニング映像。
一曲目のイントロ、レーザーが走る。
ステージ中央には、誰も立っていないはずの場所に、白いライトが落ちていた。
そこには、影だけが一本、揺れているように見えた。
客席のざわめきが、波のように広がる。
“空白”は、去年と同じように存在している。
けれど、その意味は全く違っていた。
去年は「穴」だった。
今年は「席」だった。
そこに誰が座っているのかを、知っている人だけが知っていればいい。
スタンド席の、照明の死角。
一番端の列に、フードを深く被った青年がひとり、立っていた。
視界の先、ステージの上には四つのシルエット。
そして、その中心に空いた“光だけの居場所”。
耳元で、歌が始まる。
——ノクターン、夜が明けるまで
——君の声を、まだ探している
歌詞は、公式に公開されているものとほとんど変わらないはずだった。
でも、その日歌われたバージョンだけ、ほんの一行だけ違っていた。
——「君が消えた日の記録を、今も歌ってる」
青年は、フードの影の中で目を細めた。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……勝手だなぁ、みんな」
声は観客の歓声に紛れて、誰にも届かない。
それで良かった。
ステージの上で、四つの影が跳ねる。
空いた真ん中の光は、ただそこにあるだけだ。
それでも、その光のかたちを知っている者たちにとっては、十分すぎるほどの「メッセージ」だった。
青年は、胸の奥でそっと呟いた。
——ありがとう。
「君が消えた日の記録」は、本来ならそこで終わっていた。
けれど、誰かが読み継ぎ、歌い継ぎ、演出し続ける限り、その記録は更新され続ける。
記録は、いつか物語になる。
物語は、いつか伝説になる。
伝説は、いつか都市伝説になって、名前を持たない「影」だけが残る。
それでも、誰かがその影に、特定の名前を心の中でそっと当てはめるなら——
《Nocturne Eve》は、ずっと五人組のままだ。
ドームの天井にレーザーが弧を描き、曲がクライマックスに向かう。
光と音の渦の中、青年は目を閉じた。
自分の声を、二度とステージに乗せないと決めた夜から一年。
それでも、心のどこかでずっと続いていた歌がある。
——君が消えた日の記録。
——俺が消えた日の記録。
それらが重なる場所で、夜はようやく、静かに明け始めた。
《Nocturne Eve》は解散しなかった。
むしろ、数字だけを見れば「飛躍」と呼ばれるべき一年だった。配信再生数は右肩上がり、タイアップも途切れず、ドームツアーの発表動画は数分でトレンドを占拠した。
公式プロフィールには、最初から「四人組ダンスボーカルユニット」とだけ書かれている。
初期インタビュー記事のいくつかは、知らないうちに書き換えられていた。
五人並んで撮ったはずの写真は、解像度の低いまま、自然に「四人の構図」に収束している。
時間は、都合よく歴史を編集する。
けれど、すべての記録が書き換えられるわけじゃない。
「——ねぇ、リーダー。これ、知ってた?」
深夜二時。
都内のタワマン高層階。防音の効いたリビングで、湊がタブレットを突き出した。
玲央は、ソファに沈んだまま視線だけを動かす。
画面にはファンがまとめた「初期《Nocturne Eve》考察スレ」のスクショが並んでいた。
そこには、禁止ワードのように「蒼」という名前が点々と存在している。
──最初期のダンス構成、五人じゃないと成立しなくない?
──昔のフェス映像、センターの子の名前がどこにも出てこない
──録画してたCM、左から二番目の子だけ、今流れてるバージョンだと角度違うよね? 合成?
「“ゴーストメンバー”って呼ばれてるらしいよ」
湊は乾いた声で笑った。
「存在しなかったはずの五人目。都市伝説みたいだ。『祈った夜にだけ画面に映る』とか言ってさ」
「名前が出ないだけ、まだマシだ」
千景が、キッチンカウンターに背中を預けたまま言った。
「具体的な個人情報に辿り着いたら、向こうが本気で“処理”してくる」
「“向こう”って」
玲央が目を閉じる。
瞼の裏に暗い会議室の色が浮かんだ。
蒼が消えた直後、事務所から正式に通達があった。
「蒼は長期療養に入る」
「症状の性質上、詳細は公表できない」
「代わりに、ユニットは四人組として再始動する」
そして最後に、さらりと告げられた一文。
——『これ以上、彼の名前を公の場で出さないでください』
その席で、玲央だけは「理由」を聞かされた。
だから、誰にも言えない。
「リーダー、あの日のこと……本当に、蒼が“勝手に”いなくなっただけ?」
湊の声が、静かに落ちた。
あの日から一年。何度も飲み込まれてきた問いだ。
玲央は、答えを濁そうとした。
けれど喉の奥で、何かがつかえて出ない。
代わりに、別の言葉が零れた。
「……この間さ、事務所のサーバ担当から、“変なデータがある”って連絡が来た」
「変なデータ?」
「俺宛ての、未送信ファイル。日付は——蒼が消えた日」
湊と千景、愛斗の視線が一斉に集まる。
「内容は?」
「まだ、見てない」
「なんでだよ!」
「怖かったんだよ」
思わず素の声が出た。
玲央は額を押さえ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺はあの日、蒼の選択を“正当化するほう”を選んだ。
『これは逃げじゃない、選択だ』って言葉を、都合よく信じた。
もしあのファイルの中身が、全然違うものだったら……俺、たぶん」
耐えきれず、言葉が途切れる。
「今から、見る?」
千景が静かに提案した。
「逃げ続けるほうが、よほど長く苦しい」
「……ああ」
玲央は頷いた。
ソファから立ち上がり、部屋の隅に置かれた古いノートPCを開く。
事務所の共用端末からコピーしたまま、フォルダすら作らずに放り込んだファイルがひとつ。
『kimiga_kieta_day_log.aoi』
エンターキーを押す指先が、わずかに震えた。
再生ボタンを押すと、最初は低い環境音だけが流れた。
電車の走行音に似ている。
かすかにアナウンスが混じり、風の音がマイクを揺らす。
やがて、息を整える気配がした。
それから——
『……録れてる?』
聞き慣れた声。
けれど、ステージで響いていたものより少し低く、素の蒼の声だった。
『玲央。これ、たぶん送れない。送っちゃいけない類いのやつだから、サーバの隙間に隠す。見つけてるってことは、まだリーダーやってるってことだよね』
軽く笑う音。
『本当はさ、あの日のスピーカー通話だけで終わらせるつもりだった。でもあれじゃ、たぶん足りなかった。……俺のほうが、足りなかった』
玲央の指先に、汗がにじむ。
隣で湊が息を詰め、愛斗が腕を組んで目を閉じる。
千景はただ静かに、音に耳を澄ませていた。
『結論から言うね』
蒼の声が少しだけ硬くなる。
『俺は、“消えたかった”わけじゃない。
“消されること”を選んだんだ』
言葉の意味が、すぐには飲み込めない。
蒼は続けた。
『初めてパニック起こした日のこと、覚えてる? バックステージの影で膝抱えて、見えない観客を全部背負ってるみたいで、呼吸できなくなった日』
覚えている。
玲央の脳裏に、あの夜の湿った床と、スモークの残り香と、震える肩の感触が蘇る。
『あの日、医務室に運ばれた後、偉い人が来た。
“最近、こういう子が増えてる”ってさ。
“それでもステージに立てるように、調整する場所がある”って』
調整。
聞き覚えのある単語に、千景が目を細めた。
『“調整施設”っていう綺麗な名前の檻。
完全遮断の病棟みたいなビルがあって、そこに送られた子は、次に出てくるとき、だいたい“別人みたいにプロ意識が高くなってる”んだって』
淡々とした口調だった。
感情を殺すように整理された語り。
『俺も、そこに入れられる予定だった。
でも、それには条件があった。
“問題行動を起こしたことにする”って』
湊が顔をしかめる。
『“突然失踪した”“ルールを破った”“SNSに不用意なことを書いた”。なんでもいい。作り話でもいい。そうやって“問題児”のラベル貼ってから調整すれば、誰も疑わない。
——ちゃんと戻ってきたとき、『更生した』って物語が作れるから』
乾いた笑いが、録音の向こう側から漏れた。
『ねぇ、それ、もうアイドルじゃなくて商品だよね。
壊れたら工場に送って直して、また棚に並べる。
俺は、自分で歩いてステージに上がれなくなったら、その瞬間に終わりだって思ってた』
玲央は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
——あの日、会議室で聞かされた話。
「蒼くんの状態を考えると、一度“環境を変える”必要があると思います。
もちろん、数年後に復帰できるようこちらも準備します。そのかわり——」
あのとき、提示されたのは「ユニット」を守るための取り引きだった。
蒼を一時的に「問題児」にして、調整施設に送る。
その代わり、《Nocturne Eve》の活動は全力で支える。
蒼のことは、公式には「最初からいなかった」ことにする。
それを飲んだのは、誰か。
そして、拒んだのは——
『玲央、きっとあの人たちは、君にも同じ条件を出したよね』
録音の中の蒼が、静かに言う。
『“リーダーなら、納得させられる”って。
“ユニットを守るために、ひとりを切り捨ててほしい”って』
その通りだった。
胸の奥で、古い痛みが再燃する。
『君がうなずきそうになったの、分かった。
だから先に、俺が勝手に決めた。
“問題行動”の枠、全部俺が引き受けるって』
風の音が一瞬だけ強くなる。
電車のブレーキ音。ホームのアナウンス。
『ライブ当日、俺は事務所の許可なく抜け出した。
GPS切って、いちばん通信が不安定になる路線の、いちばん端っこの車両で、これを録ってる。
スピーカー通話、勝手に繋いだのも俺。あれ、多分バレてる』
そんな冗談、笑えなかった。
『“蒼は逃げた”って形にしてもらえれば、それでいい。
“調整施設に送られて直されるアイドル”じゃなくて、“逃げたアイドル”でいたい。
逃げたやつのことなんて、すぐ忘れられるでしょ?』
「忘れられるわけ、ねぇだろ……」
気づけば、玲央は声に出していた。
録音の中で、蒼が少しだけ黙る。
そして、最後の言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
『君が消えた日の記録、ってタイトルにした。
——俺がいなくなった日、ほんとは“君”のほうが消えかけてたから』
違う、と反射的に思う。
否定したかった。
けれど、あの日の自分は確かに、リーダーとしての顔と、ひとりの人間としての顔のどちらを残すかで揺らいでいた。
『俺が先に消えれば、君は残る。
君が残れば、《Nocturne Eve》は残る。
俺は、君と、ユニットと、ファンの記憶の中でだけ、生きてればいいや』
風の音が、優しくなる。
『勝手な自己犠牲って知ってる。
でも、アイドルなんて最初から、“誰かの物語のために”生きてるんでしょ?
だったらせめて、最後くらい、自分で物語の畳み方を決めたい』
短い沈黙のあと、蒼が微笑む気配がした。
『……君がこのファイルをいつか見つけたとき、《Nocturne Eve》はきっと、今とは違う形でステージに立ってる。
どうなっててもいい。
ただひとつだけ頼む』
そこで録音は、一瞬だけ途切れた。
ノイズが走り、復帰する。
『“四人組”って紹介されたとき、たまにでいい。
頭の中だけで“五人目”の立ち位置を空けといて』
そこで、音声は終わった。
再生バーが止まり、画面が暗くなる。
部屋の中には、誰も言葉を持っていなかった。
「……やっぱ、ずるいよ」
静寂を破ったのは、湊だった。
声は掠れていたが、泣き声ではなかった。
「全部、自分で抱えて、自分で決めてさ。
俺たちに“選ばせる機会”すらくれなかった」
愛斗が、低く笑う。
「ほんとだよ。逃げたくせに、ちゃんと物語として成立させて消えてるの、性格悪い」
「でも」
千景が、目元を指で押さえながら微笑んだ。
「君たちは、ちゃんと“見る”ことを選んだ。それもまた、選択だ」
玲央は、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外には、街の光が宝石みたいに散らばっている。
ネオンも、窓ガラスに映る自分の顔も、全部、どこか現実感が薄い。
「……ドームツアーの初日」
ぽつりと、呟いた。
「オープニングの立ち位置、変えようか」
湊が顔を上げる。
愛斗が眉をひそめる。
千景が興味深そうに首を傾げる。
「一曲目、《Nocturne》のイントロ。
センター、空ける」
「空けるって……誰も立たないの?」
「ああ」
玲央は、迷いなく頷いた。
「照明だけで、五人分の影を作る。
紹介テロップ上は“四人組”でもいい。
でも、ステージの上だけは“元から五人だった”って空気を、ちゃんと見せる」
それは、契約違反ギリギリの提案だった。
蒼の名前を出さないからセーフだと信じたいだけの、苦しい抜け道かもしれない。
「ファン、気づくだろうね」
湊が、ゆっくりと笑う。
「“ゴーストメンバー”の席だって。きっとまた、考察が増える」
「増えればいい」
玲央は、拳を握りしめた。
「忘れられるより、ずっとましだ」
千景も頷く。
「じゃあ俺、照明チームにそれとなく伝えとく。“演出として面白いから”って」
「愛斗は?」
「……賛成」
素っ気なく見せかけて、声はどこか震えていた。
「歌詞、ちょっとだけ変えない? どこにも書いてない“五人目”の居場所、隠すみたいに」
「それ、いい」
湊の瞳が輝く。
「観客には伝わらなくてもいい。でも、歌うたびに、俺たちは思い出せる」
蒼が残した「記録」は、ファイルとしてはそこで終わっている。
けれど、彼らがこの先積み重ねるライブも、歌も、演出も、全部が続きを書く。
——物語の畳み方を決める権利は、確かに蒼が奪っていった。
しかし、「物語の続け方」は、まだ四人の手元に残されている。
ドームツアー初日。
開演五分前のステージ袖には、一年前と同じ匂いが漂っていた。
熱を持った機材の金属臭、スモーク、わずかな香水。
違うのは、そこに立つ四人の目の色だけだ。
「……行くぞ、《Nocturne Eve》」
玲央がそう言った。
誰も「五人で」とは言わない。
でも、その沈黙の中に確かに「もうひとり」がいる。
暗転。
歓声。
オープニング映像。
一曲目のイントロ、レーザーが走る。
ステージ中央には、誰も立っていないはずの場所に、白いライトが落ちていた。
そこには、影だけが一本、揺れているように見えた。
客席のざわめきが、波のように広がる。
“空白”は、去年と同じように存在している。
けれど、その意味は全く違っていた。
去年は「穴」だった。
今年は「席」だった。
そこに誰が座っているのかを、知っている人だけが知っていればいい。
スタンド席の、照明の死角。
一番端の列に、フードを深く被った青年がひとり、立っていた。
視界の先、ステージの上には四つのシルエット。
そして、その中心に空いた“光だけの居場所”。
耳元で、歌が始まる。
——ノクターン、夜が明けるまで
——君の声を、まだ探している
歌詞は、公式に公開されているものとほとんど変わらないはずだった。
でも、その日歌われたバージョンだけ、ほんの一行だけ違っていた。
——「君が消えた日の記録を、今も歌ってる」
青年は、フードの影の中で目を細めた。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……勝手だなぁ、みんな」
声は観客の歓声に紛れて、誰にも届かない。
それで良かった。
ステージの上で、四つの影が跳ねる。
空いた真ん中の光は、ただそこにあるだけだ。
それでも、その光のかたちを知っている者たちにとっては、十分すぎるほどの「メッセージ」だった。
青年は、胸の奥でそっと呟いた。
——ありがとう。
「君が消えた日の記録」は、本来ならそこで終わっていた。
けれど、誰かが読み継ぎ、歌い継ぎ、演出し続ける限り、その記録は更新され続ける。
記録は、いつか物語になる。
物語は、いつか伝説になる。
伝説は、いつか都市伝説になって、名前を持たない「影」だけが残る。
それでも、誰かがその影に、特定の名前を心の中でそっと当てはめるなら——
《Nocturne Eve》は、ずっと五人組のままだ。
ドームの天井にレーザーが弧を描き、曲がクライマックスに向かう。
光と音の渦の中、青年は目を閉じた。
自分の声を、二度とステージに乗せないと決めた夜から一年。
それでも、心のどこかでずっと続いていた歌がある。
——君が消えた日の記録。
——俺が消えた日の記録。
それらが重なる場所で、夜はようやく、静かに明け始めた。
9
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母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
私も処刑されたことですし、どうか皆さま地獄へ落ちてくださいね。
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