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本編
手負いの、獣
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楽屋に戻ると、そこは、さっきまでの緊張感が嘘のような、日常だった。
「あー! チカさん、おかえりー!」
「遅かった! チカさん! 俺たちの分は!?」
ソウタが、チカの手元を見て、叫ぶ。
「あるわけないだろ?」
「なんで!? 俺たちの心の声、聞こえなかったの!?」
「そうだよ! 俺、炭酸とアイスコーヒーって、めっちゃテレパシー送ったのに!」
コマチまでが、騒いでいる。
「……聞こえてたとしても、全員分は、物理的に無理だろ……」
チカは、呆れたように、自分のドリンクを呷った。
いつもは、うるさいとさえ感じる、このどうでもいいやり取り。だが、トキとソラの、あの凍りつくような揉め事を目の当たりにした後では。
この、平和で、馬鹿馬鹿しいほどの日常が、一種の清涼剤のように、チカのささくれ立った心を、優しく軽くしてくれるのだった。
(……早く、戻ってこいよ、リーダー)
チカは、楽屋のドアを、ちらりと見ながら、そう、胸の内で呟いた。
楽屋のドアが、控えめに開いた。
「お待たせー!」
そこに立っていたのは、いつもの完璧な笑顔を貼り付けたトキだった。
「うおー! トキさん、遅いっスよ! 忘れ物、ありました?」
ソウタが駆け寄るが、トキは「あー、ごめん! 見つからなかった!」と、明らかに嘘とわかる言い訳で笑う。
(……見つからなかった、か)
チカは、ドリンクを飲むフリをしながら、横目でトキを観察する。
さっきまでの、あの血の気を失った顔、ソラと対峙していた時の冷徹な仮面、そして、チカの励ましに力なく笑った、あの弱々しい姿……。
そのすべてが、今の「完璧なリーダー」の笑顔の下に、無理やり塗り込められている。
「さあ! マネージャー! 焼肉! 焼肉、行きましょう!」
「お前はそればっかりだな、ソウタ」
トキは、わざと大げさにソウタの頭をかき回し、その場を盛り上げようとしている。
だが、チカの目には、その指先が微かに震えているのが見えていた。
(あいつ)
胸が、チリ、と焦げるように痛んだ。
励ましが、届かなかった。
それどころか、彼は、チカの前ですら「平気なフリ」をすることを、選んだのだ。
「チカさん、どうしたんスか? 難しい顔して」
いつの間にか隣に来ていたコマチが、チカの顔を覗き込む。
「……なんでもない」
「ふーん……。ま、今日の姫は、マジで『姫』だったから、許してやろっかな」
コマチは、ニヤニヤと意地悪く笑うと、「トキさーん! チカさんが『焼肉食いたい』って顔してますよー!」と、大声で叫んだ。
「おい、コマチ! 言ってないだろ!」
「あはは、チカ、素直じゃないなあ! よーし、じゃあ今日は、俺がチカにいっぱい食べさせてあげる!」
トキが、いつものワンコスマイルで、チカの肩に腕を回そうとする。
「……っ!」
チカは、反射的に、その手を強く振り払っていた。
「えっ」
トキの手が、行き場を失って、宙で止まる。
楽屋の空気が、一瞬で凍りついた。
ソウタもコマチも、ユウトもロクも、何が起こったのかわからず、チカとトキを交互に見ている。
「チカ?」
「……ベタベタすんな」
チカは、自分でも驚くほど冷たい声で、それだけを吐き捨てた。
「……あー、……ごめん」
トキは、傷ついたような、困ったような顔で、ゆっくりと手を下ろす。
「疲れてるよな、みんな。……ごめん、俺、ちょっとはしゃぎすぎた」
完璧なリーダーは、すぐに「自分」を悪者にして、その場を収めようとする。
違う。
そうじゃない。
チカが苛立ったのは、スキンシップが嫌だったからじゃない。
無理して笑っているくせに。
チカが本当に知りたい「お前」を隠して、薄っぺらい「リーダー」の仮面で、触れようとしてくる。
そのことが、チカには、たまらなく腹立たしかったのだ。
「チカ、お前また……」
ユウトが、見かねて声をかけようとした、その時。
「……先、帰る」
チカは、自分の荷物をひったくると、凍りついた楽屋の空気を無視して、部屋を飛び出した。
「おい!」「チカさん!?」
後ろでメンバーの声がしたが、知ったことではなかった。
寮までの帰り道。冷たい夜風が、火照った頭を少しだけ冷ましてくれる。
(……最悪)
まただ。
また、感情のコントロールができずに、グループの空気を最悪にしてしまった。
何度迷惑をかけたら気が済むのかと、チカは自己嫌悪で死にたくなっている。
でも、我慢ならなかったのだ。
素直に「助けて」と、言ってくれると、思っていた。
ソラのことで悩んでいると、打ち明けてくれてくれると。
でもトキは、それをしなかった。
チカを好きだと言ったくせに。
ところ構わず接触してきて、自分の気持ちは好き放題押し付けてくるくせに。
人の心に土足でずかずか、入り込んで、乱して。
それなのに——
(あいつ、「壁」を作った)
それはチカを、信頼していない証拠だと、チカには思えたのだ。
(……俺だけ、バカみたいじゃないか)
チカは、寮の自室のドアに、暗証番号を叩きつけるように入力した。
部屋に飛び込み、電気もつけず、ベッドに倒れ込む。
焼肉は、どうなっただろうか。
チカが抜けたことで、気まずい雰囲気になっていないだろうか。
いや、きっと、あの「完璧なリーダー」が、うまくやっているに違いない。
『チカ、体調悪いみたい。そう言う時って、触られると不機嫌になるよな』
『少し休ませてあげよう。焼肉は、俺たちだけでも盛り上がるって!』
そう言って、笑っているに、違いない。
そう思った瞬間、胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられた。
(俺がいなくても)
あいつは、うまくやれる。
トキの世界は、トキだけで完結していて。
他人の、俺の、入る隙間なんて、本当は、ないんじゃないか。
月の明かりだけが照らす、うすぼんやりとした、部屋の中で。
絶望にも似た孤独が、チカを包み込んだ、その時。
ピピッ、と。
静かな部屋に、電子ロックの解除音が響いた。
(……は?)
チカは、心臓が跳ね上がるのを感じ、ベッドから飛び起きた。
ガチャリ、とドアが開き、シルエットが滑り込んでくる。
「……チカ」
暗闇に慣れた目が、息を切らしたトキの姿を捉えた。
「……なんで、来た」
「なんでって……」
トキは、困ったように微笑んでいる。
まるで駄々っ子を相手にするようなその態度に、苛立ちが募る。
「焼肉、行けよ」
「行かないよ。チカ、怒ってたし」
「リーダーのくせに」
「……けっこう、根に持つよね。それ」
トキはつとめて明るく振る舞っているようだった。
さっきまでの出来事が、なんでもないことのように。
チカはそれが、気に食わなかった。
「ユウトがね。追いかけて、帰れって」
「……」
「俺が甘やかすから、チカが、さらにお姫さまみたいになってる、って。責任とって、最後まで面倒見ろって言われちゃった」
焼肉、食べたかったけどね。
と、トキは冗談めかして笑った。
「ごめんね」
「……」
「心配、してくれたんだよな」
「違う!」
と、チカは、間髪入れず、否定した。
しかし次の瞬間、トキの手が、シーツの上に投げ出されていたチカの手に重ねられる。
「……っ!」
トキの顔が、チカの顔を、暗闇の中で覗き込む。
息がかかるほどの距離。
トキは、チカの掴んだ手とは反対の手で、チカの顎を、そっと掬い上げた。
「違うの?」
と、試すようにチカを見ている。
ぶつかった瞳の奥に、不穏な光を感じて、チカはのけぞった。
「おい、近い!」
「二人きりのときは、いいって、言った」
「許可した時だけって言っただろ!」
「じゃあ、許可、ちょうだい」
「……っ」
「チカに触る許可、ちょうだい?」
そういうとトキは、黒目がちな瞳をまっすぐにこちらに向けたまま、動かない。
律儀に返事を待つつもりらしかった。
「——わ、かったよ」
チカは渋々、声を絞り出した。
「手だけなら」
「なに、それ。けちだな」
「けち!?」
(一体なにしようとしてたんだ、この男……)
間髪入れずに付け加えておいてよかった、とチカは胸を撫で下ろした。
予想外なことに——
トキは、おずおずとチカの手に触れた。
指と指を絡ませるようにてのひらを被せ、それを柔く、握ったり、離してみたりしている。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……たのしいのか、それ」
思わず聞いてしまった。
「楽しいよ」
「——そうか、よかったな」
万に一つも、いや億に一つも、これっぽっちも期待などしていなかったが、トキがチカのいうことを聞いてそれ以上のことをしないというのは、思った以上に不気味だった。
トキはなにか考え事をしているのか、ぼんやりと宙を見つめている。
「——聞かないの?」
「聞いていいのか?」
何を、とは言わなかった。お互いにわかっていたから。
チカの脳裏に、先程の男の顔が浮かぶ。
ソラ、とか言っただろうか。
正直なところ、あのソラという男と、トキが知り合いだということがピンとこない。
話し方も、オーラも、まるで違う。
共通点を見つける方が難しいくらいだった。
(前の事務所の、やつか?)
(デビュー前に解散になったって言ってた、あの……)
もしくはあの感じなら、「やぶれかぶれになっていた頃の悪友」のセンもありそうだ。
いずれにせよ、あいつはトキの過去を知っているような口ぶりだった。
「……今は、だめ。聞かないでほしい」
「……うん」
「いつか、話す」
「ああ」
「……話せたら」
「どっちだよ」
ふっ、と思わず笑ってしまった。
つられて、トキも少しだけ顔を歪める。
「——なんか腹、減ったな」
わざと、話を変えるためにそんなことを言った。
「あー、行く? 今ならまだ、合流できそう」
「……また、言われるだろうなあ……」
「ほんと、ごめんな。俺が……」
「それはもういいよ」
いつか、話してくれるというなら。
チカはその日をただ、待てばいいのだと思った。
(そのくらいには、信頼してるんだからな)
と、言いたくなったが……やめる。
代わりに、脱ぎ捨ててあった上着を拾い上げる。
「行こう。よく考えたら、あいつら、なんで焼肉食ってんだ。ケーキに突っ込んだコンビと、変な絵描いただけのコンビが」
その言いぐさに、トキは今度こそ「いつも通り」の笑いを起こした。
「いや、それはひどいって。ウケてたのに」
「だとしても、絶対、俺たちの方が頑張ったよ」
「わかんないよ? コマチとソウタ、食べる速度もあがってたし……」
「速度ってなんだよ。そんなもん極めてどうする……」
チカが本気で呆れたように呟くと、トキは「あはは!」と声を上げて笑った。さっきまでの暗闇が嘘のように、その声は明るく、いつもの人懐っこい響きを取り戻している。
その屈託のない笑顔に、チカは、強張っていた肩の力が、ようやく抜けていくのを感じた。
まだ、指は絡められたままだ。
さっきまでの、凍えるような孤独の中で、電子ロックをこじ開けて飛び込んできた、この男。
無理やり触れようとしたかと思えば、子供のように「待って」と乞う。
獣なのか、犬なのか、それとも。
(……本当に、ワケがわからない)
チカは、小さく息を吐いた。
ソラのことも、トキが隠している「過去」も、何一つ解決はしていない。
けれど、「いつか話す」と。 そう言った、あの掠れた声を、今は信じてみるしかない。
チカが何も言わずに立ち上がるのを、トキも黙って見ている。 暗い部屋に、二人分の衣擦れの音だけが響く。
「……行くぞ」
「うん」
握られた手のひらの熱が、冷え切ったチカの体に、じわりと戻ってくる。
ガチャリ、とドアノブに手をかけ、チカはもう一度、暗闇の中のトキを振り返った。
「……あと、お前。焼肉、俺に全部焼けよ」
「ええー!? なんで俺が! チカこそ、俺に肉、包んでくれるんでしょ」
「そんな日は永久に来ない」
言い合いながら、それでも、今度こそ二人で一緒に、部屋のドアを後にする。
騒がしい弟たちが待つ、つかの間の日常へと。
手負いの獣が、その傷を癒すように。
今はただ、腹を満たすために。
「あー! チカさん、おかえりー!」
「遅かった! チカさん! 俺たちの分は!?」
ソウタが、チカの手元を見て、叫ぶ。
「あるわけないだろ?」
「なんで!? 俺たちの心の声、聞こえなかったの!?」
「そうだよ! 俺、炭酸とアイスコーヒーって、めっちゃテレパシー送ったのに!」
コマチまでが、騒いでいる。
「……聞こえてたとしても、全員分は、物理的に無理だろ……」
チカは、呆れたように、自分のドリンクを呷った。
いつもは、うるさいとさえ感じる、このどうでもいいやり取り。だが、トキとソラの、あの凍りつくような揉め事を目の当たりにした後では。
この、平和で、馬鹿馬鹿しいほどの日常が、一種の清涼剤のように、チカのささくれ立った心を、優しく軽くしてくれるのだった。
(……早く、戻ってこいよ、リーダー)
チカは、楽屋のドアを、ちらりと見ながら、そう、胸の内で呟いた。
楽屋のドアが、控えめに開いた。
「お待たせー!」
そこに立っていたのは、いつもの完璧な笑顔を貼り付けたトキだった。
「うおー! トキさん、遅いっスよ! 忘れ物、ありました?」
ソウタが駆け寄るが、トキは「あー、ごめん! 見つからなかった!」と、明らかに嘘とわかる言い訳で笑う。
(……見つからなかった、か)
チカは、ドリンクを飲むフリをしながら、横目でトキを観察する。
さっきまでの、あの血の気を失った顔、ソラと対峙していた時の冷徹な仮面、そして、チカの励ましに力なく笑った、あの弱々しい姿……。
そのすべてが、今の「完璧なリーダー」の笑顔の下に、無理やり塗り込められている。
「さあ! マネージャー! 焼肉! 焼肉、行きましょう!」
「お前はそればっかりだな、ソウタ」
トキは、わざと大げさにソウタの頭をかき回し、その場を盛り上げようとしている。
だが、チカの目には、その指先が微かに震えているのが見えていた。
(あいつ)
胸が、チリ、と焦げるように痛んだ。
励ましが、届かなかった。
それどころか、彼は、チカの前ですら「平気なフリ」をすることを、選んだのだ。
「チカさん、どうしたんスか? 難しい顔して」
いつの間にか隣に来ていたコマチが、チカの顔を覗き込む。
「……なんでもない」
「ふーん……。ま、今日の姫は、マジで『姫』だったから、許してやろっかな」
コマチは、ニヤニヤと意地悪く笑うと、「トキさーん! チカさんが『焼肉食いたい』って顔してますよー!」と、大声で叫んだ。
「おい、コマチ! 言ってないだろ!」
「あはは、チカ、素直じゃないなあ! よーし、じゃあ今日は、俺がチカにいっぱい食べさせてあげる!」
トキが、いつものワンコスマイルで、チカの肩に腕を回そうとする。
「……っ!」
チカは、反射的に、その手を強く振り払っていた。
「えっ」
トキの手が、行き場を失って、宙で止まる。
楽屋の空気が、一瞬で凍りついた。
ソウタもコマチも、ユウトもロクも、何が起こったのかわからず、チカとトキを交互に見ている。
「チカ?」
「……ベタベタすんな」
チカは、自分でも驚くほど冷たい声で、それだけを吐き捨てた。
「……あー、……ごめん」
トキは、傷ついたような、困ったような顔で、ゆっくりと手を下ろす。
「疲れてるよな、みんな。……ごめん、俺、ちょっとはしゃぎすぎた」
完璧なリーダーは、すぐに「自分」を悪者にして、その場を収めようとする。
違う。
そうじゃない。
チカが苛立ったのは、スキンシップが嫌だったからじゃない。
無理して笑っているくせに。
チカが本当に知りたい「お前」を隠して、薄っぺらい「リーダー」の仮面で、触れようとしてくる。
そのことが、チカには、たまらなく腹立たしかったのだ。
「チカ、お前また……」
ユウトが、見かねて声をかけようとした、その時。
「……先、帰る」
チカは、自分の荷物をひったくると、凍りついた楽屋の空気を無視して、部屋を飛び出した。
「おい!」「チカさん!?」
後ろでメンバーの声がしたが、知ったことではなかった。
寮までの帰り道。冷たい夜風が、火照った頭を少しだけ冷ましてくれる。
(……最悪)
まただ。
また、感情のコントロールができずに、グループの空気を最悪にしてしまった。
何度迷惑をかけたら気が済むのかと、チカは自己嫌悪で死にたくなっている。
でも、我慢ならなかったのだ。
素直に「助けて」と、言ってくれると、思っていた。
ソラのことで悩んでいると、打ち明けてくれてくれると。
でもトキは、それをしなかった。
チカを好きだと言ったくせに。
ところ構わず接触してきて、自分の気持ちは好き放題押し付けてくるくせに。
人の心に土足でずかずか、入り込んで、乱して。
それなのに——
(あいつ、「壁」を作った)
それはチカを、信頼していない証拠だと、チカには思えたのだ。
(……俺だけ、バカみたいじゃないか)
チカは、寮の自室のドアに、暗証番号を叩きつけるように入力した。
部屋に飛び込み、電気もつけず、ベッドに倒れ込む。
焼肉は、どうなっただろうか。
チカが抜けたことで、気まずい雰囲気になっていないだろうか。
いや、きっと、あの「完璧なリーダー」が、うまくやっているに違いない。
『チカ、体調悪いみたい。そう言う時って、触られると不機嫌になるよな』
『少し休ませてあげよう。焼肉は、俺たちだけでも盛り上がるって!』
そう言って、笑っているに、違いない。
そう思った瞬間、胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられた。
(俺がいなくても)
あいつは、うまくやれる。
トキの世界は、トキだけで完結していて。
他人の、俺の、入る隙間なんて、本当は、ないんじゃないか。
月の明かりだけが照らす、うすぼんやりとした、部屋の中で。
絶望にも似た孤独が、チカを包み込んだ、その時。
ピピッ、と。
静かな部屋に、電子ロックの解除音が響いた。
(……は?)
チカは、心臓が跳ね上がるのを感じ、ベッドから飛び起きた。
ガチャリ、とドアが開き、シルエットが滑り込んでくる。
「……チカ」
暗闇に慣れた目が、息を切らしたトキの姿を捉えた。
「……なんで、来た」
「なんでって……」
トキは、困ったように微笑んでいる。
まるで駄々っ子を相手にするようなその態度に、苛立ちが募る。
「焼肉、行けよ」
「行かないよ。チカ、怒ってたし」
「リーダーのくせに」
「……けっこう、根に持つよね。それ」
トキはつとめて明るく振る舞っているようだった。
さっきまでの出来事が、なんでもないことのように。
チカはそれが、気に食わなかった。
「ユウトがね。追いかけて、帰れって」
「……」
「俺が甘やかすから、チカが、さらにお姫さまみたいになってる、って。責任とって、最後まで面倒見ろって言われちゃった」
焼肉、食べたかったけどね。
と、トキは冗談めかして笑った。
「ごめんね」
「……」
「心配、してくれたんだよな」
「違う!」
と、チカは、間髪入れず、否定した。
しかし次の瞬間、トキの手が、シーツの上に投げ出されていたチカの手に重ねられる。
「……っ!」
トキの顔が、チカの顔を、暗闇の中で覗き込む。
息がかかるほどの距離。
トキは、チカの掴んだ手とは反対の手で、チカの顎を、そっと掬い上げた。
「違うの?」
と、試すようにチカを見ている。
ぶつかった瞳の奥に、不穏な光を感じて、チカはのけぞった。
「おい、近い!」
「二人きりのときは、いいって、言った」
「許可した時だけって言っただろ!」
「じゃあ、許可、ちょうだい」
「……っ」
「チカに触る許可、ちょうだい?」
そういうとトキは、黒目がちな瞳をまっすぐにこちらに向けたまま、動かない。
律儀に返事を待つつもりらしかった。
「——わ、かったよ」
チカは渋々、声を絞り出した。
「手だけなら」
「なに、それ。けちだな」
「けち!?」
(一体なにしようとしてたんだ、この男……)
間髪入れずに付け加えておいてよかった、とチカは胸を撫で下ろした。
予想外なことに——
トキは、おずおずとチカの手に触れた。
指と指を絡ませるようにてのひらを被せ、それを柔く、握ったり、離してみたりしている。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……たのしいのか、それ」
思わず聞いてしまった。
「楽しいよ」
「——そうか、よかったな」
万に一つも、いや億に一つも、これっぽっちも期待などしていなかったが、トキがチカのいうことを聞いてそれ以上のことをしないというのは、思った以上に不気味だった。
トキはなにか考え事をしているのか、ぼんやりと宙を見つめている。
「——聞かないの?」
「聞いていいのか?」
何を、とは言わなかった。お互いにわかっていたから。
チカの脳裏に、先程の男の顔が浮かぶ。
ソラ、とか言っただろうか。
正直なところ、あのソラという男と、トキが知り合いだということがピンとこない。
話し方も、オーラも、まるで違う。
共通点を見つける方が難しいくらいだった。
(前の事務所の、やつか?)
(デビュー前に解散になったって言ってた、あの……)
もしくはあの感じなら、「やぶれかぶれになっていた頃の悪友」のセンもありそうだ。
いずれにせよ、あいつはトキの過去を知っているような口ぶりだった。
「……今は、だめ。聞かないでほしい」
「……うん」
「いつか、話す」
「ああ」
「……話せたら」
「どっちだよ」
ふっ、と思わず笑ってしまった。
つられて、トキも少しだけ顔を歪める。
「——なんか腹、減ったな」
わざと、話を変えるためにそんなことを言った。
「あー、行く? 今ならまだ、合流できそう」
「……また、言われるだろうなあ……」
「ほんと、ごめんな。俺が……」
「それはもういいよ」
いつか、話してくれるというなら。
チカはその日をただ、待てばいいのだと思った。
(そのくらいには、信頼してるんだからな)
と、言いたくなったが……やめる。
代わりに、脱ぎ捨ててあった上着を拾い上げる。
「行こう。よく考えたら、あいつら、なんで焼肉食ってんだ。ケーキに突っ込んだコンビと、変な絵描いただけのコンビが」
その言いぐさに、トキは今度こそ「いつも通り」の笑いを起こした。
「いや、それはひどいって。ウケてたのに」
「だとしても、絶対、俺たちの方が頑張ったよ」
「わかんないよ? コマチとソウタ、食べる速度もあがってたし……」
「速度ってなんだよ。そんなもん極めてどうする……」
チカが本気で呆れたように呟くと、トキは「あはは!」と声を上げて笑った。さっきまでの暗闇が嘘のように、その声は明るく、いつもの人懐っこい響きを取り戻している。
その屈託のない笑顔に、チカは、強張っていた肩の力が、ようやく抜けていくのを感じた。
まだ、指は絡められたままだ。
さっきまでの、凍えるような孤独の中で、電子ロックをこじ開けて飛び込んできた、この男。
無理やり触れようとしたかと思えば、子供のように「待って」と乞う。
獣なのか、犬なのか、それとも。
(……本当に、ワケがわからない)
チカは、小さく息を吐いた。
ソラのことも、トキが隠している「過去」も、何一つ解決はしていない。
けれど、「いつか話す」と。 そう言った、あの掠れた声を、今は信じてみるしかない。
チカが何も言わずに立ち上がるのを、トキも黙って見ている。 暗い部屋に、二人分の衣擦れの音だけが響く。
「……行くぞ」
「うん」
握られた手のひらの熱が、冷え切ったチカの体に、じわりと戻ってくる。
ガチャリ、とドアノブに手をかけ、チカはもう一度、暗闇の中のトキを振り返った。
「……あと、お前。焼肉、俺に全部焼けよ」
「ええー!? なんで俺が! チカこそ、俺に肉、包んでくれるんでしょ」
「そんな日は永久に来ない」
言い合いながら、それでも、今度こそ二人で一緒に、部屋のドアを後にする。
騒がしい弟たちが待つ、つかの間の日常へと。
手負いの獣が、その傷を癒すように。
今はただ、腹を満たすために。
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