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本編
過去からの刺客、すれ違う本音
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チカは、息を呑んだ。
トキと、あの男の間に、一体、何が―――。
アイフェスの成功という高揚感は、一瞬にして冷たい不安へと塗り替えられていた。
地鳴りのような歓声も、今はもう遠い。バックヤードの長い廊下は、無機質な蛍光灯に照らされ、しんと静まり返っていた。
チカは、自販機の光が届かない、機材用の通路の物陰に息を潜めていた。
心臓が、うるさい。さっきのステージでの高揚とは違う、冷たく、嫌な汗が背筋を伝う。数メートル先。チカが追いかけてきた張本人――トキが、立っていた。
そして、その目の前には、先ほど楽屋に挨拶に来た、あの銀髪の男……ソラが、まるで道を塞ぐように立ちはだかっている。
さっきの「裏切りモンが」という囁きが、まだ耳にこびりついていた。
ただならぬ二人の気配に、チカは、物陰からそっと見守ることしか出来なかった。
ソラの挑発的な態度に対し、トキは、チカがよく知る、あの「完璧なリーダー」の笑顔を貼り付けていた。ただ、その笑顔には、いつもの人懐っこさは微塵もなく、明確な「壁」が存在している。
「その言い草はひどいな、ソラ」
柔らかいが、突き放すような声。
「こういうことに、ずるいも何もないって、昔お前が言ったんだろう」
「ハッ!よく覚えてんじゃねえか」
ソラは、大げさに肩をすくめた。
「だとしても、だ。俺に一言もなく、あのツルんでた連中から抜けて、連絡も全部ブッチして。あげく、コソコソとまた別の事務所で練習生やって、デビュー?……なあ、トキ」
一転して、ソラの声がドスを帯びる。
「一言くらいあってもいいんじゃないかって、思うのは俺のワガママかねぇ?」
チカは、息を呑んだ。
(……ツルんでた、連中?)
「事務所の仲間」という響きとは、明らかに違う。
ソラの糾弾に、トキは、ふっと目を細めた。そして、悪びれもせず言った。
「……恥ずかしかったんだよ」
「あ?」
「話したら、お前、どうせ鼻で笑うだろう?『一度捨てられた癖に、まだやるのか』って」
「ハハッ!当たり前だろ!」
ソラは、腹を抱えるようにして笑った。
「……まあ、間違いなく、笑っただろうな。最高にダセェって!」
品のない笑い声が、廊下に響く。トキは意にも介さぬように、声だけは相変わらず和やかだ。
「それにしては、遅かったじゃないか? 俺の代わりにテッペン、取ってくれるんじゃなかったのか」
トキのその言葉に、笑いがピタリと止まった。
ソラは、猫科の獣のように、ゆっくりとトキの周りを歩き始めた。
「フン、そのつもりだったよ」
いまいましげな舌打ち。
「俺はとっくに仕上がってたのにな。……他の、クソみてえなメンバーが、足を引っ張ったのさ」
吐き捨てるような、侮蔑の言葉。
「おかげで、予定より一年もデビューが遅れた」
そこには、本来、苦楽を共にしてきたはずの仲間への愛情や、信頼のかけらも見て取れなかった。
その時、トキが、静かに口を開いた。
「……そういうとこ、本当に変わってないな。ソラ」
声は、あくまでも柔らかい。だが、チカの耳には、それが、今まで聞いたこともないほど冷たく響いた。
「その自分勝手さは、いつかお前の身を滅ぼすぞ」
それは、単なる指摘ではなかった。決定的な、価値観の相違。相容れない者への、冷ややかな宣告。
「は?」
ソラが、足を止める。
「偉そうに。……なあ、トキ。お前、うちの番組、見てないのか?」
「……」
「俺は、ブッチギリの一位だ。二位以下とは、倍ほどの得票数。わかるか?」
ソラは、自分の胸を、ドン、と強く叩いた。
「うちは、俺のワンマンチームなんだよ。俺と、その他の仲間たち。ファンは、他のザコじゃなく、この『俺』を観にくるんだ。俺と、俺を引き立てるための仲間たち。それが、『Bleach Heart』だよ」
傲慢な——あまりにも傲慢な、独白。それを聞いた瞬間、チカは、思わず、眉間にそっと手を当てて目を伏せた。
(……うわ、)
脳裏に蘇る、数ヶ月前の、自分。最年長だから、一番わかっているからと、年下メンバーを力で押さえつけ、自分の「完璧」を押し付けていた、あの頃の自分。
(……俺も、見えてなかった)
ここまではっきりとは言わなかった。ここまで、仲間を「ザコ」と見下してはいなかった、と信じたい。
だが、周りの「見えてなさ」に関しては、このソラという男と、過去の自分は、確かに重なり合うところがあった。
今更ながら、強烈な羞恥心が、チカの胸を灼いた。
チカが、そんな自己嫌悪に陥っている、まさにその時。
トキが、あの完璧な「リーダー」の笑顔で、こう言った。
「……ごめん、観てないや。忙しくて」
「!」
チカは、弾かれたように顔を上げた。空気が、凍った。
今のは、なんだ?
いつもは穏やかで、誰に対しても優しさを忘れない、あのトキが。
今の言葉は、明らかに、ソラを煽る目的で吐かれたものだ。
チカは、トキが、自分以外の人間を、本気で攻撃するのを初めて見た。
チカに対して見せる、あの「意地悪な狼」の顔とも違う。それは、完璧に制御された、冷徹な「拒絶」だった。
相手が傷つくとわかっていて、明確に「お前には何の価値もない」と切り捨てるために、計算して放たれた言葉だった。
ソラの顔が、みるみる怒りで歪んでいく。
「……はっ。……ああ、そうかい」
数秒の沈黙の後、ソラは、怒りを押し殺したような、低い笑い声を上げた。
「……年末が、楽しみだよなァ」
それは、ほとんど宣戦布告に近かった。
「お前ら『イグナイト』と同じ年にデビュー出来たことは、せめてもの救いだわ。なあ?」
「……」
「アイドルの本質は、結局、人気だよな。数字は裏切らねえ」
ソラは、再びトキの前に立つと、その顔に自分の顔を近づけた。
「お前らを、圧倒的な『物量』で潰してやるよ。その時まで、せいぜい、お山の対象を気取ってな」
ガツン、と。ソラは、挨拶代わりとでも言うように、トキの肩を乱暴に叩いた。
「じゃ、お山の皆さんにヨロシク」
そして、まるで邪魔者を押しのけるように、トキの体を突き飛ばし、チカが隠れているのとは反対の方向へと、荒々しく歩き去っていった。
その足音は、怒りと、屈辱に満ちていた。
廊下に、再び静寂が戻る。トキは、背中を向けたまま、動かない。チカは、どうすべきか、迷った。
(……あいつ、大丈夫か)
ソラの言葉。「裏切りモン」。そして、トキが見せた、あの冷たい拒絶。二人の間には、チカの知らない、深い因縁があるらしい。
チカが、そこまで考えを巡らせた、その時。
「……いつまで隠れてんの?」
静かな声が、チカにかけられた。トキだった。ゆっくりと振り返った彼の顔は、いつもの「リーダー」の笑顔でも、「狼」の顔でも、さっきの「冷徹な仮面」でもない。ひどく、疲れたような、苦笑いだった。
「盗み聞きなんて、人が悪いな」
「……っ!」
チカは、慌てて物陰から姿を現した。
「いや、違う!聞くつもりだったわけじゃ……」
「わかってるって」
トキは、力なく笑う。
「俺の様子が、変だったから。……追いかけてきてくれたんだろ?」
その声は、チカの返事を期待しているようにも聞こえた。
「……だったらいいな~って、俺が思ってるだけだけど」
そう、付け足して、彼は自嘲するように、また笑った。
そうだ、と言ってやりたい。だが、「心配だったから」なんて、そんな素直な言葉が、このプライドの高いの口から、すぐに出るはずもなかった。
チカが、言葉に詰まっていると、トキの表情が、目に見えて、また暗く沈んでいく。その様子に、チカは、慌てて話題を変えた。
「……あいつと、仲悪いのか」
「悪いっていうか……」
トキは、答えを濁すように、視線を床に落とした。
「……実際、裏切り者って言われても、仕方のないことをしたしね」
やはり、何かがあったのだ。
チカの頭の中で、さきほどの会話が反芻される。
(……ツルんでた連中から、抜けて)
(……『一度捨てられた癖に』)
チカは、二人の関係を、デビューにまつわるものだと、ほぼ確信していた。
前の事務所で、一度デビューが白紙になったトキ。ソラは、その時の仲間だったのだろうか?
そして、ソラが「クソみてえなメンバー」のせいでデビューが遅れたと嘆いていた間に、トキは、自分たち「イグナイト」と、先にデビューを果たした?
ソラは、それが許せないのかもしれない。
自分ではなく、チカたちと、トキがデビューしたことが……。
そう結論づけたチカは、気づけば、口を開いていた。
それは、あの「ルール」を決めた夜に、トキが欲しがっていたかもしれない、素直な言葉だった。
「……俺たちは、お前と一緒にデビューできて、良かったと思ってるぞ」
トキが、顔を上げた。その目は、丸く開かれている。チカは、照れ隠しのように顔をそむけた。
「……お前がリーダーで、助かってる。……ユウトも、コマチも、ロクも、ソウタも……みんな、そう思ってるはずだ」
「…………チカ」
「だから、あんな奴の言うこと、気にするな」
数秒の沈黙。
やがて、トキは、ふ、と息を吐くように、笑った。
「……はは。……気遣ってくれて、ありがとう、チカ。……すげえ、嬉しい」
だが、その顔は、チカが期待したほど、晴れやかにはならなかった。むしろ、どこか、申し訳なさそうに、沈んだまま。
(……あれ?違ったか……?)
チカの励ましが、彼の心の核心には、届いていない。
チカは、戸惑う。
「……あ、俺、スタジオに忘れ物、取りに行かないと」
トキは、相変わらず、その「言い訳」を繰り返した。
「先に楽屋、戻ってて」
そう言うと、トキは、チカの返事も待たずに、今度こそ、ソラとは反対側の、スタジオへと続く廊下へと、歩き去っていった。
その背中は、ひどく、小さく見えた。チカは、もう、彼を追いかけることは、出来なかった。ただ、その場に立ち尽くす。
先ほど、ソラが立っていた場所。チカは、やり場のない気持ちのまま、目に付いた自販機で、適当なスポーツドリンクのボタンを押した。ガコン、と、鈍い音が響く。
楽屋に戻ると、そこは、さっきまでの緊張感が嘘のような、日常だった。
「あー!チカさん、おかえりー!」
「遅かった!チカさん!俺たちの分は!?」
ソウタが、チカの手元を見て、叫ぶ。
「あるわけないだろ?」
「なんで!? 俺たちの心の声、聞こえなかったの!?」
「そうだよ! 俺、炭酸とアイスコーヒーって、めっちゃテレパシー送ったのに!」
コマチまでが、騒いでいる。
「……聞こえてたとしても、全員分は、物理的に無理だろ……」
チカは、呆れたように、自分のドリンクを呷った。
いつもは、うるさいとさえ感じる、このどうでもいいやり取り。だが、トキとソラの、あの凍りつくような揉め事を目の当たりにした後では。
この、平和で、馬鹿馬鹿しいほどの日常が、一種の清涼剤のように、チカのささくれ立った心を、優しく軽くしてくれるのだった。
(……早く、戻ってこいよ、リーダー)
チカは、楽屋のドアを、ちらりと見ながら、そう、胸の内で呟いた。
トキと、あの男の間に、一体、何が―――。
アイフェスの成功という高揚感は、一瞬にして冷たい不安へと塗り替えられていた。
地鳴りのような歓声も、今はもう遠い。バックヤードの長い廊下は、無機質な蛍光灯に照らされ、しんと静まり返っていた。
チカは、自販機の光が届かない、機材用の通路の物陰に息を潜めていた。
心臓が、うるさい。さっきのステージでの高揚とは違う、冷たく、嫌な汗が背筋を伝う。数メートル先。チカが追いかけてきた張本人――トキが、立っていた。
そして、その目の前には、先ほど楽屋に挨拶に来た、あの銀髪の男……ソラが、まるで道を塞ぐように立ちはだかっている。
さっきの「裏切りモンが」という囁きが、まだ耳にこびりついていた。
ただならぬ二人の気配に、チカは、物陰からそっと見守ることしか出来なかった。
ソラの挑発的な態度に対し、トキは、チカがよく知る、あの「完璧なリーダー」の笑顔を貼り付けていた。ただ、その笑顔には、いつもの人懐っこさは微塵もなく、明確な「壁」が存在している。
「その言い草はひどいな、ソラ」
柔らかいが、突き放すような声。
「こういうことに、ずるいも何もないって、昔お前が言ったんだろう」
「ハッ!よく覚えてんじゃねえか」
ソラは、大げさに肩をすくめた。
「だとしても、だ。俺に一言もなく、あのツルんでた連中から抜けて、連絡も全部ブッチして。あげく、コソコソとまた別の事務所で練習生やって、デビュー?……なあ、トキ」
一転して、ソラの声がドスを帯びる。
「一言くらいあってもいいんじゃないかって、思うのは俺のワガママかねぇ?」
チカは、息を呑んだ。
(……ツルんでた、連中?)
「事務所の仲間」という響きとは、明らかに違う。
ソラの糾弾に、トキは、ふっと目を細めた。そして、悪びれもせず言った。
「……恥ずかしかったんだよ」
「あ?」
「話したら、お前、どうせ鼻で笑うだろう?『一度捨てられた癖に、まだやるのか』って」
「ハハッ!当たり前だろ!」
ソラは、腹を抱えるようにして笑った。
「……まあ、間違いなく、笑っただろうな。最高にダセェって!」
品のない笑い声が、廊下に響く。トキは意にも介さぬように、声だけは相変わらず和やかだ。
「それにしては、遅かったじゃないか? 俺の代わりにテッペン、取ってくれるんじゃなかったのか」
トキのその言葉に、笑いがピタリと止まった。
ソラは、猫科の獣のように、ゆっくりとトキの周りを歩き始めた。
「フン、そのつもりだったよ」
いまいましげな舌打ち。
「俺はとっくに仕上がってたのにな。……他の、クソみてえなメンバーが、足を引っ張ったのさ」
吐き捨てるような、侮蔑の言葉。
「おかげで、予定より一年もデビューが遅れた」
そこには、本来、苦楽を共にしてきたはずの仲間への愛情や、信頼のかけらも見て取れなかった。
その時、トキが、静かに口を開いた。
「……そういうとこ、本当に変わってないな。ソラ」
声は、あくまでも柔らかい。だが、チカの耳には、それが、今まで聞いたこともないほど冷たく響いた。
「その自分勝手さは、いつかお前の身を滅ぼすぞ」
それは、単なる指摘ではなかった。決定的な、価値観の相違。相容れない者への、冷ややかな宣告。
「は?」
ソラが、足を止める。
「偉そうに。……なあ、トキ。お前、うちの番組、見てないのか?」
「……」
「俺は、ブッチギリの一位だ。二位以下とは、倍ほどの得票数。わかるか?」
ソラは、自分の胸を、ドン、と強く叩いた。
「うちは、俺のワンマンチームなんだよ。俺と、その他の仲間たち。ファンは、他のザコじゃなく、この『俺』を観にくるんだ。俺と、俺を引き立てるための仲間たち。それが、『Bleach Heart』だよ」
傲慢な——あまりにも傲慢な、独白。それを聞いた瞬間、チカは、思わず、眉間にそっと手を当てて目を伏せた。
(……うわ、)
脳裏に蘇る、数ヶ月前の、自分。最年長だから、一番わかっているからと、年下メンバーを力で押さえつけ、自分の「完璧」を押し付けていた、あの頃の自分。
(……俺も、見えてなかった)
ここまではっきりとは言わなかった。ここまで、仲間を「ザコ」と見下してはいなかった、と信じたい。
だが、周りの「見えてなさ」に関しては、このソラという男と、過去の自分は、確かに重なり合うところがあった。
今更ながら、強烈な羞恥心が、チカの胸を灼いた。
チカが、そんな自己嫌悪に陥っている、まさにその時。
トキが、あの完璧な「リーダー」の笑顔で、こう言った。
「……ごめん、観てないや。忙しくて」
「!」
チカは、弾かれたように顔を上げた。空気が、凍った。
今のは、なんだ?
いつもは穏やかで、誰に対しても優しさを忘れない、あのトキが。
今の言葉は、明らかに、ソラを煽る目的で吐かれたものだ。
チカは、トキが、自分以外の人間を、本気で攻撃するのを初めて見た。
チカに対して見せる、あの「意地悪な狼」の顔とも違う。それは、完璧に制御された、冷徹な「拒絶」だった。
相手が傷つくとわかっていて、明確に「お前には何の価値もない」と切り捨てるために、計算して放たれた言葉だった。
ソラの顔が、みるみる怒りで歪んでいく。
「……はっ。……ああ、そうかい」
数秒の沈黙の後、ソラは、怒りを押し殺したような、低い笑い声を上げた。
「……年末が、楽しみだよなァ」
それは、ほとんど宣戦布告に近かった。
「お前ら『イグナイト』と同じ年にデビュー出来たことは、せめてもの救いだわ。なあ?」
「……」
「アイドルの本質は、結局、人気だよな。数字は裏切らねえ」
ソラは、再びトキの前に立つと、その顔に自分の顔を近づけた。
「お前らを、圧倒的な『物量』で潰してやるよ。その時まで、せいぜい、お山の対象を気取ってな」
ガツン、と。ソラは、挨拶代わりとでも言うように、トキの肩を乱暴に叩いた。
「じゃ、お山の皆さんにヨロシク」
そして、まるで邪魔者を押しのけるように、トキの体を突き飛ばし、チカが隠れているのとは反対の方向へと、荒々しく歩き去っていった。
その足音は、怒りと、屈辱に満ちていた。
廊下に、再び静寂が戻る。トキは、背中を向けたまま、動かない。チカは、どうすべきか、迷った。
(……あいつ、大丈夫か)
ソラの言葉。「裏切りモン」。そして、トキが見せた、あの冷たい拒絶。二人の間には、チカの知らない、深い因縁があるらしい。
チカが、そこまで考えを巡らせた、その時。
「……いつまで隠れてんの?」
静かな声が、チカにかけられた。トキだった。ゆっくりと振り返った彼の顔は、いつもの「リーダー」の笑顔でも、「狼」の顔でも、さっきの「冷徹な仮面」でもない。ひどく、疲れたような、苦笑いだった。
「盗み聞きなんて、人が悪いな」
「……っ!」
チカは、慌てて物陰から姿を現した。
「いや、違う!聞くつもりだったわけじゃ……」
「わかってるって」
トキは、力なく笑う。
「俺の様子が、変だったから。……追いかけてきてくれたんだろ?」
その声は、チカの返事を期待しているようにも聞こえた。
「……だったらいいな~って、俺が思ってるだけだけど」
そう、付け足して、彼は自嘲するように、また笑った。
そうだ、と言ってやりたい。だが、「心配だったから」なんて、そんな素直な言葉が、このプライドの高いの口から、すぐに出るはずもなかった。
チカが、言葉に詰まっていると、トキの表情が、目に見えて、また暗く沈んでいく。その様子に、チカは、慌てて話題を変えた。
「……あいつと、仲悪いのか」
「悪いっていうか……」
トキは、答えを濁すように、視線を床に落とした。
「……実際、裏切り者って言われても、仕方のないことをしたしね」
やはり、何かがあったのだ。
チカの頭の中で、さきほどの会話が反芻される。
(……ツルんでた連中から、抜けて)
(……『一度捨てられた癖に』)
チカは、二人の関係を、デビューにまつわるものだと、ほぼ確信していた。
前の事務所で、一度デビューが白紙になったトキ。ソラは、その時の仲間だったのだろうか?
そして、ソラが「クソみてえなメンバー」のせいでデビューが遅れたと嘆いていた間に、トキは、自分たち「イグナイト」と、先にデビューを果たした?
ソラは、それが許せないのかもしれない。
自分ではなく、チカたちと、トキがデビューしたことが……。
そう結論づけたチカは、気づけば、口を開いていた。
それは、あの「ルール」を決めた夜に、トキが欲しがっていたかもしれない、素直な言葉だった。
「……俺たちは、お前と一緒にデビューできて、良かったと思ってるぞ」
トキが、顔を上げた。その目は、丸く開かれている。チカは、照れ隠しのように顔をそむけた。
「……お前がリーダーで、助かってる。……ユウトも、コマチも、ロクも、ソウタも……みんな、そう思ってるはずだ」
「…………チカ」
「だから、あんな奴の言うこと、気にするな」
数秒の沈黙。
やがて、トキは、ふ、と息を吐くように、笑った。
「……はは。……気遣ってくれて、ありがとう、チカ。……すげえ、嬉しい」
だが、その顔は、チカが期待したほど、晴れやかにはならなかった。むしろ、どこか、申し訳なさそうに、沈んだまま。
(……あれ?違ったか……?)
チカの励ましが、彼の心の核心には、届いていない。
チカは、戸惑う。
「……あ、俺、スタジオに忘れ物、取りに行かないと」
トキは、相変わらず、その「言い訳」を繰り返した。
「先に楽屋、戻ってて」
そう言うと、トキは、チカの返事も待たずに、今度こそ、ソラとは反対側の、スタジオへと続く廊下へと、歩き去っていった。
その背中は、ひどく、小さく見えた。チカは、もう、彼を追いかけることは、出来なかった。ただ、その場に立ち尽くす。
先ほど、ソラが立っていた場所。チカは、やり場のない気持ちのまま、目に付いた自販機で、適当なスポーツドリンクのボタンを押した。ガコン、と、鈍い音が響く。
楽屋に戻ると、そこは、さっきまでの緊張感が嘘のような、日常だった。
「あー!チカさん、おかえりー!」
「遅かった!チカさん!俺たちの分は!?」
ソウタが、チカの手元を見て、叫ぶ。
「あるわけないだろ?」
「なんで!? 俺たちの心の声、聞こえなかったの!?」
「そうだよ! 俺、炭酸とアイスコーヒーって、めっちゃテレパシー送ったのに!」
コマチまでが、騒いでいる。
「……聞こえてたとしても、全員分は、物理的に無理だろ……」
チカは、呆れたように、自分のドリンクを呷った。
いつもは、うるさいとさえ感じる、このどうでもいいやり取り。だが、トキとソラの、あの凍りつくような揉め事を目の当たりにした後では。
この、平和で、馬鹿馬鹿しいほどの日常が、一種の清涼剤のように、チカのささくれ立った心を、優しく軽くしてくれるのだった。
(……早く、戻ってこいよ、リーダー)
チカは、楽屋のドアを、ちらりと見ながら、そう、胸の内で呟いた。
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