空が、とても、蒼かった日のこと

松田 かおる

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空が、とても、蒼かった日のこと

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僕の部屋の壁には、白い帽子が一つかかっている。
まるで夏の暑かった陽射しを思わせるような、鮮やかな白い色。
けれどそれはふわっとしたデザインの女物で、僕のものではない。
僕はそれを見る度に、一ヶ月前のあの出来事が、まるで昨日のように思いだされる。

一ヶ月前。
僕はある避暑地を訪ねていた。
本当だったら付き合っている彼女と一緒に来るはずの場所だったのだけど、旅行に出かける一週間前、
「ごめんなさい、もうあなたとは付き合えないわ」
という彼女の電話で、全てが台無しになってしまった。
とはいえ、せっかく大変な思いをして予約したホテルを無駄にするのも勿体ないので、せめて僕一人だけでも、格好良く言えば「傷心旅行」、格好悪く言えば「振られ男の一人旅」を満喫しようと思った。
宿泊予定の十日間くらいは、彼女の事を少しでも考えないようにしたかった。
というよりも少しでも彼女の事を忘れたかった、と言った方が正しいのかもしれない。
上野から電車に揺られて目的のホテルに着いた頃は、もう夕方近い時間だった。
ところが予約してあった部屋は、もともと彼女と二人で過ごす予定だったので、ツインルームだった。
ホテルの人にシングルルームに替えてもらえないかと頼んでみたけど、シーズン真っ只中で他に部屋の空きがないとの事で、そのままツインルームを一人で使う事になった。
部屋は確かに広々と使えるけど、それは空しい広さに感じない事もなかった。
なんだか今の僕の心境を現わしているみたいに思えた。
部屋からの眺めは素晴らしいし、料理の味もいいし、ホテルのサービスも最高。
何も言う事はなかった。
ここに彼女がいない事だけを除いて。
どうしても『彼女が一緒にいたら』と考えてしまうのは、まだ時間が経っていないから仕方のない事なのかもしれない、僕はそう考えるようにした。
その日の晩は、電車に揺られて来た疲れと夕食の時に少しばかり飲み過ぎたワインのせいで、あっという間に眠り込んでしまった。

ゆうべはぐっすりと眠ったおかげで、次の日の朝はとても気分がよかった。
いつまでもぼーっとしているのはせっかく避暑地に来た意味がないので、散歩に出る事にした。
僕は簡単な手荷物を準備して、出かける準備を始めた。

避暑地とは言っても半ば観光地のような場所なので、見どころはたくさんある。
美術館,牧場,記念館…
時間はたっぷりあるから、この機会に芸術や博学を堪能してみるのもいいかもしれない。
そう思った僕は、一つ一つじっくりと見て回る事にした。
そのせいで、最初に入ったなんとか美術館を隅から隅まで見終わると、時間は午後3時を回っていた。
こんなにじっくりと美術館を見たのは、生まれて初めてかもしれない。
美術館を出た所で、僕は煙草を吸いながら一息ついていた。
それにしても…
周りはアベックばかりで、僕への当て付けなんじゃないかと思わせるくらいだった。
考え過ぎだと思うようにして、僕は次の場所に行く事にした。
くわえていた煙草を地面に捨てて、足で踏み消して歩きだそうとした時、
「こらあっ!」
と、不意に怒鳴り声が聞こえた。
何だろうと思ってその声がした方を見ると、一人の女性が僕の方をおっかない顔をして睨みつけていた。
白いサマー・ドレスに白い帽子、そして白いサンダル。
そして透き通るような白い肌。
『別荘族』と言う言葉がすぐに思い浮かぶような、清楚な感じ。
それと同時に、ふっと消えてしまいそうな華奢さも感じさせた。
なんとも不思議な感じのする女性だった。
それに見とれてしまったのも少しあったけど、何が何だか解からないままぼけっと突っ立っていると、彼女はおっかない顔をしたままこちらへ歩いてきた。
やがて僕の前で立ち止まると、
「だめじゃない!こんな事しちゃ!」
と言って、足元の吸いがらを指差した。
そこでやっと、彼女がおっかない顔をしていた理由が解かった。
「…あ、あぁ、ごめん」
僕はそう言って吸いがらを拾い上げた。
すると彼女はにっこりと笑って、
「そう、それでいいのよ」
と言った。そして、
「吸いがらはきちんと灰皿へ、それがマナーなんだから。じゃあね」
彼女はそう言って、すたすたと歩き去った。
彼女が立ち去った後、僕はあっけにとられてしまっていた。
『…なんなんだ、彼女…』
おかげで他の所へ行く気力をそがれてしまった。

次の日。
気を取り直した僕は、今度は美術館から歩いて15分くらいの記念館に行く事にした。
記念館といっても地元だけで有名な人の記念館らしく、東京から来た僕には何が何だかさっぱり解からなかった。
ただ記念館の中で売っていたお土産のクッキーがおいしそうだったので、あとで食べるつもりで一つ買ってきた。
記念館を出て、ポケットに入っていたお釣りを小銭入れにしまおうとしたら、小銭が一枚手からこぼれて、地面に転がり落ちてしまった。
かがみ込んで小銭を拾おうとした瞬間、突然視界の外からすっと手が延びてきて、小銭を拾ってしまった。
誰だろうと思って視線を上げると、昨日の彼女が白い帽子の影から、僕の方を向きながらにっこりと笑っていた。
「煙草の次は、小銭?」
彼女は立ち上がりながらそう言った。
けれどもその口調は昨日とは全く違って、親しみを込めた感じにも聞こえた。
僕も立ち上がって、
「…どうも」
と言いながら、彼女が差し出す手から小銭を受け取った。
僕に小銭を手渡すと、
「昨日はごめんなさい。突然あんな…」
そう言って彼女は、帽子の奥で少し申し訳なさそうな顔をした。
その言葉を聞いて、僕は、
「いや、僕の方こそ、あんな事したんだからしようがないよ」
素直にそう応えた。
彼女は僕の言葉に応える代わりにもう一度にっこりと笑った。そして、
「旅行の方?」
と聞いた。
「え?あぁ、そうだけど、どうしてそれが?」
と訊ねると、
「その袋、そこの記念館のクッキーでしょ?あれ、地元の人は絶対に買わないのよ。まずいから」
彼女はそう言ってくすくすと笑った。
僕はそれを聞いて、
「随分詳しいんだね。地元の人なの?」
と言うと、彼女は少しかげりのある表情になり、
「…まぁ、そんなところかしら…」
と応えた。
彼女のその表情から、僕は何となく聞いてはいけない事を聞いてしまったような気分になって、
「…聞いちゃいけなかったかな?」
ついそう言ってしまった。
僕の言葉に対して彼女は小さく首を横に振って、そして黙り込んでしまった。
それはまるで何かを考えているように見えた。
しばらくすると、彼女は明るい表情に戻って、
「…入院してるの」
と言った。
「入院?」
彼女の口から出た意外な言葉に、思わず僕は聞き返してしまった。
彼女はコクリと小さくうなずくと、
「『膠原病』って知ってる?」
そう言った。
詳しい事は知らないけど、膠原病というものがどのようなものなのかは、大体知っているつもりだった。
僕は黙ってうなずいた。
「夏の間だけなんだけど、毎年ここに来て過ごすの。言ってみれば転地療養ね。最近調子がよくって、こうして外に出る事もできるの。でも強い陽射しはあまり体に良くないから、帽子を被っていなくちゃいけないけど」
彼女はそう言って、ちょいと帽子を直す仕草をしてみせて、
「だから自然とこの辺の事も詳しくなっちゃって…まぁ確かに半分地元みたいなものね」
にこりと笑って彼女はそう続けた。
そうだったのか…
そこまで聞いて、僕が昨日初めて彼女を見た時に感じた、消えてしまいそうなほどの華奢な感じの理由が解かった。
僕が何となくそんな事を考えていると、
「いつまでここにいるの?」
彼女が聞いてきた。
「え?…あと一週間だけど」
僕が応えると、彼女はしばらく何かを言いだそうかどうか迷っている感じだったけど、やがて、
「…あの、もしよかったらでいいんだけど、その間、わたしにこの辺の案内をさせてもらえかしら?」
と言った。
あまりに突然の申し出に、僕はどう答えるべきか正直考えてしまった。
それを察したのか、彼女は、
「ほら、昨日のお詫びって言うとおおげさだけど、なんだか申し訳ない気がして…それにこうして外に出て体を動かした方が、自分の体のためにもなるし…」
そう続けた。
そこまで僕に気を遣ってくれているのだったら、彼女の申し出を断るわけに行かない気がした。それに断る理由もなかったので、
「…そこまで言ってくれるんだったら、お願いしようかな」
僕はそう答えた。
すると彼女は一段とにっこりとした笑顔で、
「ありがとう。じゃあ、明日、ここでこの時間に。あ、わたしは沙織、九条 沙織。よろしくね」
彼女はそう言って手を延ばして、僕と握手した。

翌日、午後2時。
約束通りに記念館の前に行くと、彼女は既にそこにいた。
風にふわりと揺れる白い帽子で、すぐに解かった。
「やぁ」
後ろから僕が言うと、彼女はこちらを振り向いて、
「こんにちは」
と言った。
「待たせちゃったかな?」
と言う僕の言葉に彼女は横に首を振って、
「ううん、そんなに」
と応え、そして、
「それじゃ、どこに行く?美術館,牧場,記念館、いろいろあるわよ」
と彼女は聞いてきた。
僕はしばらく考えて、
「そうだなぁ…できれば地元の人しか知らないような所で、『いかにも避暑地だ』って感じの場所がいいなぁ」
と僕は答えた。
それを聞いた彼女はしばらく考えて、
「…わかったわ。できるだけ地元の人しか知らないような場所ね」
そう言うとくるりと踵を返して、美術館がある『観光地』とは反対の方向に歩き始めた。

それはまさしく『散歩』だった。
別にどこに行くという目的もなく、ただぶらぶらと歩く。
昨日まで僕が見て回っていた『観光地』とは正反対の、『避暑地』という言葉がぴったり合うような場所だった。
けれども彼女は僕を退屈させないように気を遣ってか、ここはどんな所で、あそこの建物はあんな由来があって…と、色々と説明してくれた。
おかげで僕はちっとも退屈せず、あっという間に時間が過ぎていった。
最初の記念館の前に戻ってきたら、もう5時になっていた。
「…ごめんなさい。わたし、そろそろ帰らなくちゃ…」
彼女が口を開いた。
「え?あぁ、そうか。今日は本当にありがとう」
僕のその言葉に、
「こっちこそごめんなさい。あんまり面白くなかったでしょ?これと言って面白い所もなかったし…」
と彼女は言ったけど、
「そんな事ないよ、とても面白かったよ。いかにも『避暑地』に来ているな、って感じだったし。地元の人が一緒じゃなくちゃ、こんな場所、行けないし」
僕は素直にそう言った。
それを聞くと帽子の奥の彼女の頬が少し赤らみ、
「…そう言ってもらえると、とてもうれしいわ…」
とだけ言った。
彼女のそんな表情が、とても愛らしく見えた。
「さ、早く帰らないと、遅くなるよ」
僕がそう言うと、
「あ、本当だ、いけない。それじゃ、また明日ね」
彼女はそう言って、僕の泊まっているホテルとは反対の方向に歩き始めた。
そして記念館の角を曲がる時、彼女はこっちを振り返って手を振った。
僕も手を振り返して、彼女が曲がり角を曲がるのを見届けた。
そして僕も、ホテルの方に歩き始めた。

次の日も、僕が待ち合わせの場所に行くと、彼女は先に来て待っていた。
昨日と同じように挨拶をかわして、歩き始めた。
歩き始めてしばらくして、
「あ、そう言えば、おととい記念館で買ってたクッキー、食べてみた?」
と、彼女は足を止めて僕に聞いてきた。
「え?うん、食べてみたよ」
「どうだった?」
更に聞いてきた彼女の言葉に、
「えーと…あの…」
としか答えられなかった。
そんな僕を見て彼女は、
「まずかったんでしょう?」
と言った。
あまりにも図星だったので、僕は何も言わずに、ただコクリとうなずいた。
そんな僕を見て彼女はくすくすと笑い、
「わかったわ。じゃあ今日は、あそこのなんかとは比べ物にならないほどおいしいクッキーを売ってる所に案内するわ。あんなものしか売ってないと思われるのも面白くないし」
そう言って彼女はまた歩き始めた。

20分ほど歩くと、小さな牧場が現われた。
「さ、着いたわ」
と彼女は言って、牧場の入口をくぐった。
入り口から入ってほどなくした所に、つつましやかな建物が見えてきた。
「ここよ」
と彼女は言って、その建物に入っていった。
僕も続いて入っていくと、外見と同じようにつつましやかな売場があった。
中にはクッキー以外にも、自家製のジャム,アイスクリーム、そして売り切れだったけど搾りたての牛乳も売っていた。
「ここのクッキーと牛乳はお勧めよ。3時のおやつにぴったりなの。ただ、牛乳はいつも朝一番に売り切れちゃって、この時間じゃなかなか手に入らないけど」
と、彼女は説明してくれた。
そう説明してくれる彼女の言葉と表情から、僕は彼女がここのクッキーと牛乳がとてもお気に入りだということはすぐに解かった。
僕はそこでクッキーを一つと、彼女と一緒に食べようと思って自家製アイスクリームを二つ買って、売店から出た。
そして彼女と一緒にアイスクリームを食べながら、歩き始めた。
「外でアイスクリーム食べるのって、気持ちいいわね」
アイスクリームを食べながらそう言う彼女の顔は、とても楽しそうだった。

「今日はどんな所に行きたい?」
次の日、待ち合わせの場所で、彼女は僕に聞いてきた。
「あの、それなんだけど…」
僕は口を開いた。
「何?」
彼女が聞くと、
「実は今日は、今までのお礼っていう訳じゃないけど、ちょっと僕に付き合って欲しいんだ」
と僕は言った。
彼女は一瞬迷ったような表情を見せたけど、
「…いいわ」
と答えた。
それを聞いて僕はほっとした。
「よかった。じゃあ行こう」
そう言って僕が歩き始めると、彼女も僕の後について来た。

彼女を連れて行ったのは、僕が泊まっているホテルだった。
フロントで鍵を受け取って、彼女を連れて部屋に向かう。
「どうぞ」
僕は彼女を部屋に招き入れると、彼女は一瞬警戒したような表情を見せたけど、部屋に入った。
「さ、こっちへ」
そう言って眺めのいい窓際のテーブルに、彼女を案内した。
そして僕は座っている彼女の前に、クッキーの盛ってあるお皿と、冷えた牛乳の入ったコップを置いた。
目の前に出されたそれを見て、彼女はびっくりしたような表情で、器と僕の顔を交互に見た。
「今朝、昨日の牧場に行って買って来たんだ。気に入ってもらえるといいんだけど…」
僕がそう言うと、
「…とんでもないわ。わたしのために、わざわざこんな…」
と、彼女はとても感激した口調で言った。
「さあ、牛乳が冷えてるうちに」
僕はそう言って、自分も席に着いた。

それからの時間はとても楽しかった。
お互いの事を話しているうちに、色々な事がわかった。
彼女が僕と同い年である事、彼女も東京の人間である事、そして毎年半分ずつここと東京を行ったり来たりしているので、友達がほとんどいない事…
そんな事を彼女は話してくれた。
そしてあっという間に夕方になって、彼女が帰らなければいけない時間になった。
「…あ、もう帰らなくちゃ…」
時計を見た彼女が、残念そうに口を開いた。
「今日は本当にありがとう、ごちそうさま」
そう言って席を立つ彼女に、
「あの、もしよかったら…病院まで送ろうか?」
と僕が言うと、彼女は少しだけ迷った感じだったけど、
「…じゃあ、お願いしちゃおうかな」
と答えた。

ホテルから病院までの道でも、僕と彼女は色々な話をしながら歩いた。
その中で僕がここに一人で来ている理由が話題に登って、それを彼女に話すと、
「ふーん、そうなの…」
と言って、
「…」
それに続けて何か言ったようだったけど、小声だった上に向こうを向いていたので、何を言っているのかは解からなかった。
この話題はそこで終わって、また他の話題に変わった。
話をしながら歩いているうちに、彼女が入院している病院に着いた。
病院の正門で、
「…本当に今日はありがとう、とても楽しかったわ。…それと、ここまで送ってくれてありがとう。それじゃね」
彼女はそう言うと、病院の中に入って行った。

病院からホテルまでの道のりは、一人だとなんだかとても長く感じた。

次の日は、雨だった。
正しく言えば、彼女と待ち合わせていた時はいい天気だったけど、歩き始めてしばらくして突然天気が悪くなって、あっという間に土砂降りの雨が降り始めてしまった。
僕と彼女は、とにかく雨宿りできそうな場所を探して、ちょっと小走りになった。
しばらくして誰かの家の軒先を見付けたので、そこを借りる事にした。
けれど軒先に入った時には、僕も彼女もずぶ濡れになってしまっていた。
「まぁ、きっと夕立だろうから、しばらくここにいさせてもらおうよ」
僕がそう言うと、彼女は弾んだ息遣いでうなずいた。

10分待っても、20分待っても、雨は止みそうになかった。
むしろ雨足は更に強くなりそうな感じさえした。
僕が彼女の異常に気付いたのはその時だった。
いつまでたっても、彼女の息遣いが元に戻らないままだった。
というよりも、とても苦しそうな息遣いだった。
「沙織さん?」
僕が呼びかけると、彼女は返事をするかわりに、ふらっと僕の方に寄りかかってきた。
その時触った彼女の腕が、びっしょりと汗をかいていた。
どう見てもおかしいと思った僕は、彼女の額に手をあててみた。
物凄い熱だった。
救急車を!
僕はとっさに判断した。
彼女を軒下に座らせて、僕はこの家の玄関に走った。
チャイムを鳴らして、乱暴に玄関の扉を叩いたけど、返事がない。
こうなったら仕方がない、どこかガラスを破ってでもこの家に入ろうと思ったその瞬間、扉の向こうで玄関の鍵が開けられる気配がした。
鍵が開くのももどかしく、扉の前で待っていると、初老の女性が顔を出した。
その女性が何かを口にするよりも早く、
「電話を貸して下さい!救急車を!」
と僕は叫んでいた。

病院の緊急治療室の前、僕はなす術もなく椅子に座っていた。
救急車の中で聞いた話だと、命には別状はないから心配いらないという事だったけど、とても心配でしようがなかった。
力なく椅子に座っていると、
「あの…」
と、僕に呼びかける声がした。
僕が振り返ると、そこには中年の男性が一人立っていた。
「あなたが、沙織を連れてきてくださった方ですか?」
男性がそう聞いたので、僕は黙ってうなずいた。
「…沙織の父です」
と、その男性は言った。
僕ははっとして立ち上がり、
「すみません。僕のせいで沙織さんをこんな目に…」
と言うと、彼女の父は僕の言葉をさえぎるように、
「…いえ、謝らなければいけないのはこちらの方です、いや、むしろお礼を言わなければいけないのかもしれません…」
と言った。
彼の言葉に僕が何も言えないでいると、
「実はつい最近まで、沙織はなかなか外に出たがらなかったんです」
と言った。そして
「ところが三日くらい前でしょうか。沙織が毎日外に出かけるようになって、心なしか表情も生き生きとしてきたんです」
と続けた。
そして椅子に腰掛けながら、
「『何かあったのか』と沙織に聞いたら、沙織は『友達ができた』と答えました」
そう続けた。
「友達?」
と僕が聞くと、彼女の父はうなずきながら、
「どうやら、あなたの事らしいのです」
と言った。
「…お恥ずかしい話ですが、娘のあんなに明るい顔はここ何年かの間、一度も見た事がありませんでした」
「…」
「だから娘にあんな明るい顔をさせてくれているあなたに感謝しているのと同時に、こんな娘に付き合わせてしまって申し訳ないと感じています」
「…」
「馬鹿な親の馬鹿なお願いかもしれませんが、どうか娘を、沙織を、よろしくお願いします…」
彼女の父はそう言って僕に頭を下げた。
けれども僕は、あと三日で東京に戻らなければいけなかった。
その事を話すと、
「…そうですか…」
と言ったきり、そのまま二人とも黙り込んでしまった。
それとほぼ同時に、治療室から彼女を乗せたストレッチャーが運び出されてきた。
後から出てきた医者の話によると、命に全く別状はないけど、あと二日は安静にしていなければいけないとの事で、大事を取って今日と明日は面会を控えるようにと医者は言った。
残念だけど、医者の言う事は聞かなければいけない。
何もできる事がない僕は、ホテルに戻るしかなかった。
僕は彼女の父に挨拶をして、その日は病院を後にした。

二日後、僕は病院に行って、彼女のお見舞いをした。
病室に入ると、彼女は少し驚いたような顔で僕を見た。
思った以上に彼女は元気だったので、僕はちょっとだけ安心した。
「ごめんね。迷惑かけちゃった」
開口一番、彼女は僕にこう言ったけど、本当に謝らなければいけなかったのは僕の方だったのかもしれない。
病室の壁にかけてある白い帽子が、とても痛々しく見えた。
「せっかくもっといろんな所に行こうと思ったのに…本当にごめんね」
彼女は本当に申し訳なさそうに言った。そして、
「明日、帰っちゃうのにね…」
そう続けた彼女の言葉は、申し訳なさの影に、どことなく淋しそうな感じが隠されていた様な気がした。
そんな彼女の気持ちを少しでも紛らわそうと、僕は努めて明るくふるまって、できるだけ楽しい話をするようにした。
彼女がどう感じたかはわからなかったけど、僕は面会時間ぎりぎりまで、一分一秒を惜しむように、彼女と話をした。
やがて面会時間の終了を告げる放送が、病院に流れた。
「…もう帰らなくちゃ…」
と僕が言うと、彼女は小さくうなずいて、
「…今日はお見舞いに来てくれて、ありがとう。うれしかった…」
そう言った彼女の表情が、少し暗くなった。
「明日、帰る前にもう一度寄るよ」
と言った僕の言葉に、彼女はほんの少しだけ、明るい表情をした。

そして最後の日。
少し早めにホテルをチェックアウトした僕は、その足で彼女の病院に向かった。
抜けるような青空だった。
けれどもそんな真っ青な空とは反対に、僕の心の中は何となくぼんやりした感じだった。
やがて病院に着いて、彼女の部屋に向かった。
病室のドアを開けると、彼女と、彼女の父親がいた。
「あ、おはよう」
今までと同じような明るい声で、彼女は僕を迎えてくれた。
それは最後の一時を、少しでも明るく過ごそうとている彼女の心遣いの様にも見えた。
僕もそんな彼女の心遣いに少しでも応えようとして、話は盛り上がっているように見えた。
そんな調子でしばらく話していると、
「何時の電車で帰るの?」
と彼女が口にした。
僕は切符を見て、
「えっと、13時の電車だ…」
と答えた。
それを聞いた彼女は、
「そうだ、駅までお父さんに送ってもらいましょう。ねぇお父さん、いいでしょ」
と言った。
その言葉を聞いて、彼女の父親はうなずいた。
「よかった。ね、そうしてもらいましょう」
と彼女は僕に言った。
彼女の言葉に対して、
「それじゃ、お言葉に甘えまして」
と僕は答えた。

電車の時間が近づいてきた。
「それじゃ、そろそろ」
と彼女の父親が立ち上がり、僕を送る準備を始めた。
僕が荷物をもって立ち上がると、彼女も壁から帽子をとって、出かける準備を始めた。
彼女と一緒に車に乗り込んで、駅へと出発した。
けれども車が動きだすと、彼女も僕も口数が少なくなり始め、ついには何も話さなくなってしまった。
お互い、確実に近づきつつある別れを痛いほど感じていたからだったのだろう。
やがて車は駅へ到着して、車は駅前に着けられた。
「どうもありがとうございました」
僕は彼女の父親にお礼を言って、車を降りた。
そして改札口を通る前、一度後ろを振り返って、そこに停っている車にもう一度頭を下げて、駅へ入った。

電車の発車時間までもう少し時間があった。
何だか喉が乾いたので、ジュースでも買おうと思って、自動販売機に向かった。
そして財布を出して小銭を取り出そうとしたら、指の間から小銭がこぼれてしまった。
「おっとと…」
しゃがみ込んで小銭を拾おうとしたら、視線の外から突然手が現われて、小銭を拾ってしまった。
誰だろうと思って視線を上げると、白い帽子を目深に被った彼女が立っていた。
僕が立ち上がると、彼女は何も言わずに小銭を持った手を差し出した。
「…ありがとう」
僕は小銭を受け取って、改めてジュースを買い直した。
「何か飲む?」
と僕が聞くと、彼女は何も言わず、横に首を振った。
目深に被った帽子のせいで、彼女の表情は全く見えない。
まるで帽子だけが揺れている様にも見える。
これといった会話を交わす事もなく、僕たちは黙ったまま、ホームで並んで立っていた。
電車がホームに入って来て、いよいよお別れの時が来た。
僕は荷物を持って、電車のドアに向かった。
そして入り口の所でいったん荷物を下ろして、ホームの方を振り返った。
彼女は帽子を目深に被っているので、表情は全く解からない。
そして発車のベルが鳴った。
「それじゃ、沙織さん…」
と僕が言いかけた時、不意に彼女が僕の方に駆け寄って来て、首筋に腕を回してきた。
何か言おうと思った次の瞬間、僕の口は彼女の唇でふさがれていた。

ベルが鳴り終わると、彼女は唇を離して、首筋から腕を外した。
そして目深に被っていた帽子を脱ぐと、それを僕の頭の上にちょこんと乗せた。
「あの…」
僕が口を開いた瞬間、電車の扉が閉まった。
ガラス一枚を隔てた向こうの彼女の顔は、少し涙ぐんでいるように見えたけど、今までで一番素敵な笑顔をしていた。
やがて電車は静かに動きだし、彼女の姿がどんどん小さくなっていった。
…そして僕の夏は終わった。
空がとても蒼い日の事だった。

僕の部屋の壁には、白い帽子が一つかかっている。
まるで夏の暑かった陽射しを思わせるような、鮮やかな白い色。
けれどそれはふわっとしたデザインの女物で、僕のものではない。
僕はそれを見る度に、一ヶ月前のあの出来事が、まるで昨日のように思いだされる。

そして、来年の夏、僕はもう一度あそこに行こうと思う。
彼女にこの帽子を渡すために…
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