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大西道場
⼤⻄綾
しおりを挟む東京都⽂京区、⾳⽻。
護国寺の鐘の⾳が微かに届く閑静な⾼台に、その異質な空間は存在した。
「神宮寺流居合術・⼤⻄道場」。
戦後の開発から取り残されたような、鬱蒼とした⽊⽴に囲まれた敷地。
⾨をくぐれば、空気の質が変わる。
⾞の排気ガスや都会の喧騒は遮断され、代わりに⿐を突くのは、古い⽊材の匂いと、カビと、そして染み付いた鉄錆の臭気だ。
築⼋⼗年を超える⽊造道場の床は、幾千もの⾜捌きによって黒光りし、鏡のように磨き上げられている。
本来ならば、⼦供たちの元気な掛け声が響くはずの⼟曜⽇の午後。だが、この道場には沈黙しかなかった。
三⼗⼈近い⾨下⽣が正座し、あるいは壁際に⽴ち尽くしている。全員が屈強な男たちだ。警察官、⾃衛官、あるいは興信所の荒事担当。暴⼒の扱いに慣れた彼らが、⼀様に顔を⻘ざめさせ、脂汗を垂らしながら、道場の中央を⾒つめ
ている。
視線の先にいるのは、⾝⻑百⼗センチの少⼥だった。
⼤⻄綾。五歳。
豪奢な絹の稽古着を纏い、⽇本⼈形のように切り揃えられた黒髪が、雪のように⽩い肌を際⽴たせている。
その美しさは、⾒る者が息を呑むほどだ。
だが、彼⼥が⼿にしているのは玩具ではない。
⾚樫(あかがし)で作られた、⼤⼈⽤の⽊⼑だ。ずしりと重いその凶器を、彼⼥は⼩指⼀本分の狂いもなく正眼に構えている。
対峙するのは、師範代の町⽥だ。柔道三段、剣道四段。⾝⻑百⼋⼗五センチ、体重九⼗キロの巨漢。素⼿でレンガを砕くほどの腕⼒を持つ彼が、震えていた。
⽵⼑を持つ⼿が、カタカタと⾳を⽴てている。
「……来ないの?」
綾が唇を開いた。
鈴を転がすような可憐な声ではない。地獄の底から響くような、冷徹な響き。
「私の時間が無駄になる。死ぬ気で来なさいよ、デカブツ」
町⽥は喉を鳴らした。
五歳児相⼿に本気を出せば、怪我をさせてしまうかもしれないという躊躇いではない。
逆だ。
殺される、という本能的な恐怖。
彼は知っていた。この少⼥は、ただの⼦供ではない。
先代から続く「神宮寺の⾎」を、最も純粋な形で受け継いでしまった突然変異(モンスター)。
「……参ります!」
町⽥は恐怖を振り払うように咆哮し、床を蹴った。
ドォン、と道場が揺れるほどの踏み込み。
上段からの唐⽵割り。⼿加減はない。当たれば、五歳の頭蓋⾻など容易く粉砕する⼀撃だ。
⾒守る⾨下⽣たちが息を呑む。
だが、綾の瞳には、退屈な⾊しか浮かんでいなかった。
(遅い)
綾の世界では、時間は泥のように重く、緩慢に流れていた。
町⽥の筋⾁の収縮。呼吸の乱れ。⽵⼑が振り下ろされる軌道。すべてがスローモーションのように⾒えている。
綾は動かない。
⽵⼑が彼⼥の額を割る⼨前、前髪を⾵圧が揺らしたその瞬間。
彼⼥は半歩、左斜め前に滑った。
「避ける」のではない。「⼊る」動き。
町⽥の懐、死⾓へ。
同時に、⾚樫の⽊⼑が下から上へと跳ね上がる。
狙うのは顎ではない。⼿⾸の内側。橈⾻(とうこつ)の神経が集中する⼀点。
ゴッ。鈍く、嫌な⾳がした。⾻と神経が同時に悲鳴を上げる⾳。
町⽥の⽵⼑が宙を舞う。
⼀瞬の静寂の後、巨漢が膝から崩れ落ちた。
「ぐあぁぁっ……!」
町⽥は右腕を押さえ、床を転げ回った。
脂汗が床に⾶び散る。
⼿⾸はあり得ない⽅向に腫れ上がっていた。
綾は、⾒下ろすことすらしなかった。
残⼼。
⽊⼑の切っ先を、倒れた町⽥の喉元にピタリとつけ、トドメを刺す体勢のまま微動だにしない。
完璧な所作。教科書通りの、いや、実戦を知り尽くした古武術の理(ことわり)。
「……つまらない」
綾は⽊⼑を下ろした。
興味を失った玩具を捨てるように、町⽥に背を向ける。
彼⼥の視線は、道場の最奥、上座に鎮座する⼀⼈の男に向けられた。
⽗、⼤⻄正義。
神宮寺流居合術第⼗⼋代当主。
黒紋付の⽻織袴を纏い、祭壇の前に座するその姿は、⼈間というより、祀られた御神体に近い威圧感を放っている。
彼の横には、真剣が置かれている。
美術品としての⼑ではない。柄⽷(つかいと)が黒ずみ、幾度となく⾎を吸い、脂を拭われてきた「⼈斬り包丁」。
正義の⽬は、半分閉じられていた。
娘の勝利を、⾒ていたはずだ。
町⽥という⾼段者を、傷⼀つ負わずに制圧した技量を。
(……お⽗さん)
綾は⼼の中で叫んだ。
⾒て。私を⾒て。
お⽗さんが⾔う「殺⼈剣」の⽚鱗を、私は⾒せたはずよ。
褒めてなんて⾔わない。頭を撫でてなんて⾔わない。
ただ、その⽬で私を「認識」してほしい。
「お前は強い」と。
「お前は私の娘だ」と。
だが、正義は動かなかった。
瞼を開くことすらしなかった。
深い溜め息が、⼀つ漏れただけだった。
「……軽いな」
正義の低い声が、道場の空気を凍らせた。
綾の肩がビクリと震える。
「町⽥の⼿⾸を砕けば、それで勝ちか?戦場なら、お前は今、死んでいるぞ」
正義がゆっくりと⽬を開けた。
そこにあるのは、親の情愛ではない。冷徹な鑑定⼠の⽬だ。
「痛みで転げ回る相⼿に背を向けた。その瞬間に、隠し持ったナイフで刺されたらどうする?あるいは、死んだふりをしていたら?」
「で、でも!私は完全に……」
「黙れ」⼀喝。
空気が物理的な質量を持って綾を押し潰す。
「お前の剣は、道場の剣だ。ルールに守られた、綺麗事の踊りだ。匂いがしない」
正義は再び⽬を閉じた。
「⾎の匂いも、泥の味もしない。……下がりなさい」
拒絶。
完全なる否定。
綾の顔から⾎の気が引いた。
握りしめた⽊⼑の柄がミシミシと⾳を⽴てる。
違う。
私は強い。誰よりも速い。
なのに、なぜ。
なぜお⽗さんは、私の中に流れる⾃分と同じ⾎を認めてくれないの。
悔しさが、熱い塊となって喉元までせり上がる。だが、彼⼥は泣かなかった。
泣けば、それこそ⽗に⾒限られる。
彼⼥は唇を噛み切り、その痛みで涙を飲み込んだ。
くるりと振り返る。
その顔は、五歳の少⼥のものではなかった。
夜叉。
⾏き場のない激情と殺意を湛えた、美しき化け物。
「……おい」
綾がドスの効いた声で⾨下⽣たちを睨みつけた。
全員が、蛇に睨まれた蛙のように縮み上がる。
「⾒てるだけ?突っ⽴ってるだけ?役⽴たずの⽊偶(デク)の坊どもが」
綾は⽊⼑を構え直した。
その切っ先が、⼩刻みに震えている。怒りで。渇きで。
「次。誰でもいいわ。……私を殺す気で来なさいよ。そうじゃなきゃ」
彼⼥は歪んだ笑みを浮かべた。
「私が本当に、壊してしまうから」
道場には、重苦しい沈黙だけが降り積もった。
誰も動けない。
この幼い暴君を⽌めることができるのは、上座の⽗だけだ。
だが、その⽗は、娘の暴⾛を⽌める気配すらない。
ただ、遠い⽬をして虚空を⾒つめている。
まるで、これから訪れるであろう「本物の災厄」を予感しているかのように。
綾の孤独な演武は、誰にも届くことなく、ただ空回りを続けていた。
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