龍血の系譜

盤上の観察者

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大西道場

白扇

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 午後⼆時。
 都内、超⼀流ホテルの⼤宴会場「孔雀の間」。
 シャンデリアの煌びやかな光の下、五百⼈の聴衆が静まり返っていた。
 演台に⽴つ男、⼤⻄正義の姿は、この現代的な空間において異質極まりなかった。

 黒紋付の⽻織に、仙台平(せんだいひら)の袴。
 ⽩⾜袋に雪駄。
 結婚式でも葬式でもない。

 ただの講演会に、彼は正装で臨んでいた。
 それは、彼にとって「⼈前に⽴つ」という⾏為が、常に真剣勝負であるという意思表⽰だった。
 正義は、⼿にした⽩扇(はくせん)をパチリと閉じた。

 その乾いた⾳が、マイクを通さずとも会場の隅々まで響き渡る。

「⼑は、抜かぬもの。鞘(さや)の内にて、すでに勝負を決する。……それが、我が国の『和』の精神であり、同時に最強の⾃衛であります」

 正義は静かに扇⼦を畳み、⽻織の右の袖(たもと)に滑り込ませた。
 その所作は、⼑を鞘に納める「納⼑」そのものだった。
 聴衆の誰もが、その優雅さに溜息を漏らす。
 だが、正義の神経は別の場所に向いていた。

 会場の後⽅。
 従業員⽤の出⼊り⼝付近。
 そこに⽴つ三⼈の男。
 ホテルマンの制服を着ているが、サイズが合っていない。
 ⽴ち⽅が違う。
 重⼼がつま先にあり、いつでも⾶びかかれる態勢をとっている。
 外国⼈だ。
 アジア系と、⽩⼈の混成チーム。

 そして何より、「匂い」だ。
 正義の嗅覚が、彼らから漂う乾いた⽕薬と、冷たい鉄の匂いを捉えていた。

(……客じゃないな)
 正義は話を区切ると、にこりと笑った。

「失礼。少々、⼩⽤を⾜してまいります」
 会場が和やかな笑いに包まれる中、正義は悠然と演台を降りた。
 袴の⾐擦れの⾳だけをさせて、廊下へと出る。

 予想通り、三⼈の男たちも動いた。
 無⾔の追跡。
 男⼦トイレ。
 正義は個室には⼊らなかった。
 ⼿洗い場の鏡の前で、ゆっくりと⼿を洗う。
 背後でドアが閉まる⾳。鍵がかけられる⾦属⾳。
 鏡越しに、三⼈の男が彼を取り囲んでいるのが⾒えた。

 ⼿にはサバイバルナイフ。特殊部隊が使うような、艶消しの黒い刃だ。

「……ミスター・オオニシ。少し、ご同⾏願おうか」
 リーダー格の男が、流暢な⽇本語で⾔った。

 その⽬には、侮りがあった。
 ⽬の前の男は、スカートのような服(ハカマ)を着た、ただの武道家。
 銃もナイフも持っていない、時代錯誤の遺物だと思っている。
 正義はハンカチで指を拭きながら、鏡越しに男たちを⾒た。

「断ると⾔ったら?」
「娘の命はない」

 その瞬間。
 正義の周囲の空気が、ごとりと⾳を⽴てて変わった。
 殺気ではない。
 もっと重く、冷たい「深淵」が⼝を開けた。

「……私の娘に触れるつもりか」
 正義が振り返る。
 その所作に、隙は皆無。

「ここを汚すなよ。掃除の⼈が困る」
「死ね!」
 男の⼀⼈が、恐怖を振り払うようにナイフを突き出した。

 速い。軍隊仕込みの刺突だ。
 だが、正義には⽌まって⾒えた。
 正義の右⼿が、⽻織の袖に吸い込まれる。

 抜⼑。
 銀の閃光が⾛ったと錯覚するほどの速度。
 だが、抜かれたのは⼑ではない。
 扇⼦だ。

 バヂッ!!

 ⾻が砕ける⾳が響いた。
 正義は、閉じた扇⼦の先端で、突き出された男の⼿⾸の「脈所」を叩いていた。
 ただ叩いたのではない。「斬る」気迫で打ち抜いたのだ。
 橈⾻と尺⾻が同時に粉砕され、男の⼿⾸があり得ない⽅向に曲がる。

「ぐぎゃあぁっ!!」
 ナイフが落ちるより速く、正義は踏み込んだ。

 袴の裾が翻る。
 返しの⼀撃。
 扇⼦の「要(かなめ)」の部分が、男の喉仏
 (のどぼとけ)に突き刺さる。

 ゴフッ。

 男は声を上げることもできず、喉を押さえて悶絶し、崩れ落ちた。
 気道粉砕。
 ⼀⽣、まともに声は出せないだろう。

「なっ……!?」
 残る⼆⼈が⾊めき⽴つ。

 たかが扇⼦。紙と⽵でできた玩具のはずだ。
 なぜ、⾻が砕ける?なぜ、⼈間が壊れる?

「舐めるなよ」
 正義は扇⼦を開いた。

 バァァン!

 破裂⾳が狭い個室に反響する。
 その⾳は、銃声にも似ていた。
 男たちが反射的に⽬を閉じた⼀瞬。
 それが、彼らの運命を決めた。
 正義の姿が消えた。

 縮地。
 ⽇本の古武術が到達した、歩法による瞬間移動。

 ⼆⼈⽬の男の懐に⼊り込む。
 開いた扇⼦の「紙」のエッジが、男の眼球を横薙ぎにした。

「ギャァァァァッ!!」
 男が顔を押さえてのた打ち回る。

 失明。
 紙⼀枚でも、達⼈が扱えばカミソリになる。
 正義は冷酷に、その男の膝関節を⾰雪駄で踏み抜いた。

 バキリ。
 ⼆度と⾛れない⾜になった。
 残る⼀⼈。リーダー格。
 彼は腰を抜かし、壁に張り付いていた。
 ナイフを持つ⼿がガタガタと震えている。

 理解できない。
 これは格闘技ではない。
 魔法でもない。
 ただの「理(ことわり)」による殺戮だ。
 正義はゆっくりと扇⼦を閉じ、袖に納めた。

 チャッ。
 その⾳が、死刑執⾏の合図のように響く。

「……誰の差し⾦だ」
 正義が問う。
「い、⾔えな……ヒィッ!」
 正義が⼀歩近づくと、男は失禁した。

 ⽇本の伝統⾐装を纏ったこの男が、どんな悪魔よりも恐ろしく⾒えた。
 正義は男の胸ポケットから、震えるスマートフォンを抜き取った。

 画⾯を⾒る。
 地図アプリ。神⽥神保町。
 ⾚い点が点滅している。

「……陽動か」
 正義はスマホを握りしめた。
 ミシミシと⾳がして、最新のデバイスがひしゃげ、液晶が粉々になる。

 彼らの狙いは⾃分ではない。
 綾だ。
 正義は、恐怖で硬直するリーダーの男を⾒下ろした。
 視線だけで、喉を締める。
 呼吸すら許さない、絶対的な圧。

「……喋るな。顔を覚えた」
 それだけ⾔って、正義は背を向けた。
 男は絶望に顔を歪め、ガタガタと震えながら失禁した。
 この男は⼀⽣、⽇本の着物を⾒るだけで嘔吐することになるだろう。

 “次はない”。
 その無⾔の刻印を背中で語り、正義はトイレを出た。

 正義がトイレを出る。
 その背中には、⼀切の殺気は残っていなかった。
 あるのは、親としての焦燥だけ。

 正義は⾛った。
 袴の裾を翻し、ホテルのロビーを⾵のように駆け抜ける。
 だが、彼は知っていた。

 ここから神保町までは、遠すぎる。
 GPSの信号が消えた場所。そこにあるのは、絶望か、それとも。

(綾……⾺⿅な真似をするな。逃げろ!)
 現代の剣聖の祈りは、東京の空に吸い込まれていった。
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