45 / 94
告白
美代
しおりを挟む同日、夕刻。目黒区の閑静な高級住宅街。
高い石壁に囲まれた五百坪の豪邸が、天童の自宅だった。
天皇家とも連なる歴史を持つ名家。祖父は現役の閣僚として永田町に常駐し、父は霞が関のトップ官僚、そして母は都内の一等地で総合病院を経営する開業医。
大人たちは皆、国や社会を回す歯車として多忙を極めている。この広大すぎる家で、天童が一人で過ごす時間は必然的に長かった。
重厚な玄関の扉を開け、天童は静かに靴を脱いだ。
今日は母のクリニックの休診日だ。一週間ぶりに、母が家にいるはずだった。
「ただいま帰りました」
広いリビングに入ると、革張りのソファで分厚い医学書に目を通していた母が、顔を上げた。
「おかえりなさい。今日も遅かったのね」
「生徒会の仕事があったからね。母さんも、休診日なのに勉強?」
「ええ、新しい論文が出たから。冷蔵庫にフルーツがあるわよ」
会話はそこで途切れた。
冷暖房が完璧に効いた室内には、紙をめくる音と、アンティーク時計の秒針の音だけが響いている。
「奥様。……理人様」
そこへ、盆に紅茶を乗せた手伝いの美代が静かに入ってきた。
天童が幼い頃からこの家で働き、両親の代わりに彼の大半の面倒を見てきた初老の女性だ。
美代は天童の前にティーカップを置きながら、その横顔をちらりと見た。
そして、トレイを胸に抱えたまま、ソファの母に向かって控えめに口を開いた。
「奥様。……理人様、何かお悩み事でもおありなのではないでしょうか。お疲れのように見えますが」
長年寄り添ってきた美代には、わかった。
今日の天童は、どこかがおかしい。足音の重さ、瞬きの回数、そして何より、部屋に入ってきた時の「空気の温度」が、普段の彼とはまるで違っていた。
母は医学書から目を離し、天童の顔をじっと見た。
医者としての、無機質で正確な「視診」だった。
「そう? 顔色に異常はないし、瞳孔の開きも正常。歩行時の重心のブレもなかったわ。ただの受験や生徒会のストレスでしょう。睡眠さえ取れば、いつも通りの健康体よ」
「……そうで、ございますか」
「思い過ごしよ、美代さん。この子は昔から、手のかからない完璧な子なんだから」
母は再び医学書に目を落とした。そこに一切の疑念はない。
「母さんのおかげだよ。美味しいお茶をありがとう、美代さん」
天童は、ティーカップを手に取り、美代に向かって微笑んだ。
完璧な笑顔だった。目尻のシワ、口角の上がり方。どこからどう見ても、品行方正な優等生のそれだ。
だが、美代の背筋に、冷たい悪寒が走った。
違う。
この笑顔には、「芯」がない。
目の奥に光がない。まるで、精巧に作られた人形が、プログラム通りに表情筋を動かしているだけのような、異様な空虚さ。
(……理人様は、本当に、理人様なのでしょうか)
息子を「症例」としてしか見ない母親には気づけない。
完璧を強いられ続けた少年の内側が、すでに“得体の知れない何か”に空洞化されていることに。
美代は言い知れぬ不安と恐怖を腹の底に押し込み、「失礼いたします」と深く一礼して、逃げるようにリビングを後にした。
誰もいなくなった廊下で、美代は自分の腕をさすった。
初夏だというのに、肌が粟立って止まらなかった。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
