龍血の系譜

盤上の観察者

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神話の世界

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 東京、荒川河川敷。

 素振りを終えた綾は、荒い息を整えながら、木刀を傍らに置いて冷たいベンチに腰を下ろした。
 汗ばんだ白い道着が春の風に吹かれ、急速に体温を奪っていく。
 潰れ、固く結んだ掌のマメを無言で見つめていた彼女の鼓膜を、突如としてけたたましいローター音が叩いた。

 上空。
 報道ヘリ特有の重い風切り音が、異常な低空で河川敷の上を旋回し始める。

 綾が怪訝に思い、顔を上げようとした、その瞬間だった。

 足元の枯れ芝を照らしていた春の陽光が、ふっと消えた。

 雲が太陽を遮ったのではない。
 綾の背後――土手の向こう側から、物理的な『質量』を持った圧倒的な漆黒が、音もなく這い出してきたのだ。
 影は瞬く間に綾の足元を通り越し、広大な河川敷を呑み込み、対岸に達するほどの異常な広がりを見せる。

 振り向こうとした綾の首が、中途半端な角度でピタリと止まる。

 空気が、鉛に変わった。

 恐怖ではない。
 心臓が早鐘を打つよりも先に、生物としての根源的な本能が「動けば死ぬ」と細胞レベルで警鐘を鳴らし、身体の全機能を強制終了させたのだ。
 肺が動かない。呼吸すらできない。

 ただ背後に『それ』が存在しているという事実だけで。
 綾の肉体はベンチに座ったまま、石像のように完全に硬直していた。

 鼓膜を通さず、大気を、いや、骨そのものを直接震わせるような重低音が響いた。

「大西綾だな……」

 硬直した綾の背後。
 見上げるほどの漆黒の巨躯から発せられたのは、紛れもない人間の言語だった。
 絶対的な知性と理を伴った、異次元の存在。
 絶望的なまでの質量の差を前に、綾は鉛のように重い顎をわずかに動かし、肺の奥からかすれ声を絞り出す。

「……は、話せるのね」

 その問いに、王は答えない。

「一緒に来てもらおう」

 空が、さらに暗く沈んだ。
 王が、山のような巨大な腕をゆっくりと持ち上げ、ベンチに縫い付けられた白い道着へと伸ばしてきたのだ。
 逃げ場はない。

 その時。
 河川敷の乾いた土煙を乱暴に切り裂き、猛スピードで突っ込んでくる黒塗りの車体があった。
 オフロードなど走ることを一切想定されていない、最高級の漆黒のリンカーン。

 車内。
 後部座席の防弾ガラス越しに広がるのは、世界の終わりのような光景だった。
 広大な河川敷を埋め尽くすブラックドラゴン。そして今まさに、その巨大な手が、小さな白い点を無慈悲に押し潰そうとしている瞬間。

 常に絶対的な静寂と支配を纏っていた天童の双眸が、鋭く見開かれる。

「……間に合わないというのか」

 専属運転手のブレーキを踏み込む判断すら待てない。
 王の巨大な手が、完全に綾の頭上を覆い隠そうとしていた。

 運転手の田中はめいいっぱいにアクセルを踏んでいた。

「田中!アクセルを踏み込め!!」
 天童の声が車内に響く。

 その時、緑色の何かが天童たちの視界の隅に入った。
 天童の天才的な頭脳が処理を開始する。

「田中、彼女を拾うぞ!!」

 田中はアクセルを少しだけ緩め、同時に左足でブレーキをゆっくりと踏みこむ。
 左手はサイドブレーキに手をかけている。

「田中!いまだ!!!」

 田中はその声と同時、白い物体の手前十五メートルの位置でサイドブレーキを一気に引いた。

 キキィィィーッ!

 激しい金属音を発しながら、リンカーンは川沿いのあぜ道で半回転し停止する。
 その白い物体との距離はわずか五十センチ。

 天童は後部座席左のドアを勢いよく開け、白い物体を後部座席に乗せる。
 それを確認する前に田中はサイドブレーキを即座に戻し、再びアクセルをべた踏みする。

 車内。
 急激な加速のGに押し付けられながら、綾はすがりつくように後ろの防弾ガラスを振り返った。
 巻き上がる凄まじい土煙の奥。自分を救うために巨大な質量と激突し、緑色の影が礫(つぶて)のように弾き飛ばされるのを、彼女の動体視力は確かに捉えていた。

「降ろして……!」
 綾は血の滲む手で、ドアハンドルを力任せに掴んだ。
「お願い!車を止めて! シンジが!!」

「だめだ」
 隣に座る天童の冷徹な声が、車内に響いた。
 一切の動揺を見せない漆黒の双眸が、ただ真っ直ぐに、バックミラーの向こう側の惨状を見据えている。

「君が今戻ったところでどうにもならない。……今は、彼に任せるしかない」

 天童は綾の懇願を冷酷に切り捨て、運転席の田中へ短く命じた。

「飛ばせ、田中。振り返るな」
「はいッ!」

 V8エンジンの咆哮が轟き、黒塗りの巨体が土煙を引いて全速力で逃れ去っていく。
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