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二章
第39話 懺悔
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アビゲイルを乗せた馬は北に向かって丘を駆け上る。ロイは乗馬に叱咤をかけ、全速力でそれを追う。
やがてロイが丘の上へたどり着くと、刺客の馬は前方左側に広がる林の中に姿を消すところだった。
「逃がすか!」
ロイは再び馬の腹を蹴った。そして馬がその身体を揺らす度に体勢を崩しそうになる。
これほど馬を走らせたことなど今までなかったのだ。
──油断した。ロイは顔面いっぱいに焦りを見せながら舌打ちする。
あの刺客はジュリアンが連れてきたアミアン人に紛れ込んでいたに違いない。砦の兵士たちの心情のためにある程度の自由を与えたことが仇になった。
おそらくはクリフトアスが放った刺客。だがアビゲイルを行軍に伴っていることを何故奴が知っている。常に陣幕において人目に触れぬようにしていたというのに。
内通者。いや、そうでなくとも密偵が軍中に紛れ込んでいた可能性はある。それに今はそんなことを考えても。
落ち着け。ロイは逸る心を鎮めるように大きく息を吸う。
まだアビゲイルを取り返すことはできる。落ち着かなくては。
しかしそう努めようとしても、すぐに腹のそこからこみ上げてくる思いがある。
ここであの子を失えば全ては終わる。あの子は絶望の苦しみの中にわずかに残った一筋の光明。私が今も生きる理由そのもの。
この世に自分を繋ぎ止める唯一の動機。それを無くせば、もう。
「アビゲイル!」
ロイが叫び声を上げる。
やがてその目線の先に、刺客の姿が見える。
その男は馬を止め、ロイを待っていた。
男の前に乗せられているのは両手を後ろで縛られ、布を噛まされたアビゲイル。アビゲイルの顔は恐怖で満ちているように見える。
そして男が何を手にし、ロイに向けている。
小型の弩。
それがロイの胸を狙っていた。
「しまっ──」
ロイがその言葉を言い切る前に、男が放った短い矢が風を切る。
弩から放たれた矢は、驚愕するロイの身体を刺し貫いた。
強い衝撃。そしてやってくる焼け付くような鋭い痛み。
ロイは後ろに吹き飛ばされ落馬してしまうのを、すんでのところでこらえた。
「……ちっ、仕損じたか」
男がそう舌打ちする。
男が放った矢は、ロイの左肩を貫いていた。
「閣下!」
ロイの背後から兵士の声が聞こえる。ライルかランドルフが咄嗟に兵を放ったのだろう。
刺客はその声を聞き止めると、馬首を返して再び逃走する。
「……待て!」
ロイも再び馬を走らせるが、痛みで手綱が思うように操れない。
それでも馬を駆けさせ、ようやく林の出口に出たとき、刺客の背は遠い北の向こうに消えていくところだった。
「閣下! ご無事ですか!」
馬上にて呆然としているロイの元へ数名の騎兵が駆け寄ってくる。
「……お怪我を、直ちに軍医の元へ!」
そう言う兵士の言葉はロイの耳に届いていない。
ロイは真っ白になりかけている頭の中で考えた。そして後悔する。
甘かった。
私はどこかで慢心していた。
自らを摂政と称しまがりなりにも権力を得て、事は順調に進みつつあるのだと。
この絶望の中でみた一筋の希望は、その輝きを確かなものにしつつあるのだと。
私はかつてこの世に地獄を作ると言った。あの日、妻を失ったとき、若くして結婚した夫婦に出来たたった一人の娘を救うためならばどのような犠牲でも払うと。たとえそれによってこの世界が地獄に変貌したとしてもそれを成し遂げてみせると。
何が地獄を作るだ。作るまでもない。
この世はすでに地獄だったではないか。私はそれを知っていたはずだ。
なのに、地獄の底なし沼に首まで浸りながらそう息巻いていたのだ。自らの身体にまとわりつくヘドロは幻覚なのだと無意識に夢想して。
摂政の座につき政務を行った執務室はかつて役人だった頃を思い出させ、そこに居心地の良さすら覚えていた。
書類を読んで政策を練り、それによる成果を眺めることはかつての生活そのものだ。私はこの期に及んでそんな生き方を捨てきれないでいた。
その小さな家の外には悪意に満ちた世界が存在するというのに。その悪意に蝕まれた結果が今だというのに。
娘の身体を侵すあの”呪い”に対してだってそうだ。いつの間にか仮初めの生活によって直視しないで済む日々に安堵していた。
甘かった。我が事ながら信じられない愚鈍さだ。
この悪意に満ちた世界で光を抱きしめ続けたいのなら、やるべきことは唯一つ。
自らを暗黒と穢れの化身としあらゆる悪意を飲み尽くすほかない。その内側に抱く光のために。わかっていたはずだ。
ロイは何者かに祈るように目を閉じ、唇を血が滲むほど噛み締めた。
まだ自分にチャンスがあるというのなら、もう二度と過ちは犯さない。
神など存在しないことはとうの昔にわかっている。だから悪魔に祈ろう。
悪魔ならば、いつもそばで微笑んでいる。
そして今度こそ私は全てを捧げると誓う。今日それを証明してみせよう。
だから、だから──。
クリフトアス、お前を殺す。私が知る限り、最も無残な方法で。
ロイは馬上で顔を上げた。そして心配する兵士たちをよそに北の地平線を見る。
その地平線の先に軍勢が見えた。
つまりはセラステレナ主力軍。ヨハン・クリフトアス率いる一万五千の軍団。
ロイはそれを一瞥するなり馬首を切り返し、自らの本営へ向かって駆け出した。
左肩の痛みなどすでにどうでも良かった。
やがてロイが丘の上へたどり着くと、刺客の馬は前方左側に広がる林の中に姿を消すところだった。
「逃がすか!」
ロイは再び馬の腹を蹴った。そして馬がその身体を揺らす度に体勢を崩しそうになる。
これほど馬を走らせたことなど今までなかったのだ。
──油断した。ロイは顔面いっぱいに焦りを見せながら舌打ちする。
あの刺客はジュリアンが連れてきたアミアン人に紛れ込んでいたに違いない。砦の兵士たちの心情のためにある程度の自由を与えたことが仇になった。
おそらくはクリフトアスが放った刺客。だがアビゲイルを行軍に伴っていることを何故奴が知っている。常に陣幕において人目に触れぬようにしていたというのに。
内通者。いや、そうでなくとも密偵が軍中に紛れ込んでいた可能性はある。それに今はそんなことを考えても。
落ち着け。ロイは逸る心を鎮めるように大きく息を吸う。
まだアビゲイルを取り返すことはできる。落ち着かなくては。
しかしそう努めようとしても、すぐに腹のそこからこみ上げてくる思いがある。
ここであの子を失えば全ては終わる。あの子は絶望の苦しみの中にわずかに残った一筋の光明。私が今も生きる理由そのもの。
この世に自分を繋ぎ止める唯一の動機。それを無くせば、もう。
「アビゲイル!」
ロイが叫び声を上げる。
やがてその目線の先に、刺客の姿が見える。
その男は馬を止め、ロイを待っていた。
男の前に乗せられているのは両手を後ろで縛られ、布を噛まされたアビゲイル。アビゲイルの顔は恐怖で満ちているように見える。
そして男が何を手にし、ロイに向けている。
小型の弩。
それがロイの胸を狙っていた。
「しまっ──」
ロイがその言葉を言い切る前に、男が放った短い矢が風を切る。
弩から放たれた矢は、驚愕するロイの身体を刺し貫いた。
強い衝撃。そしてやってくる焼け付くような鋭い痛み。
ロイは後ろに吹き飛ばされ落馬してしまうのを、すんでのところでこらえた。
「……ちっ、仕損じたか」
男がそう舌打ちする。
男が放った矢は、ロイの左肩を貫いていた。
「閣下!」
ロイの背後から兵士の声が聞こえる。ライルかランドルフが咄嗟に兵を放ったのだろう。
刺客はその声を聞き止めると、馬首を返して再び逃走する。
「……待て!」
ロイも再び馬を走らせるが、痛みで手綱が思うように操れない。
それでも馬を駆けさせ、ようやく林の出口に出たとき、刺客の背は遠い北の向こうに消えていくところだった。
「閣下! ご無事ですか!」
馬上にて呆然としているロイの元へ数名の騎兵が駆け寄ってくる。
「……お怪我を、直ちに軍医の元へ!」
そう言う兵士の言葉はロイの耳に届いていない。
ロイは真っ白になりかけている頭の中で考えた。そして後悔する。
甘かった。
私はどこかで慢心していた。
自らを摂政と称しまがりなりにも権力を得て、事は順調に進みつつあるのだと。
この絶望の中でみた一筋の希望は、その輝きを確かなものにしつつあるのだと。
私はかつてこの世に地獄を作ると言った。あの日、妻を失ったとき、若くして結婚した夫婦に出来たたった一人の娘を救うためならばどのような犠牲でも払うと。たとえそれによってこの世界が地獄に変貌したとしてもそれを成し遂げてみせると。
何が地獄を作るだ。作るまでもない。
この世はすでに地獄だったではないか。私はそれを知っていたはずだ。
なのに、地獄の底なし沼に首まで浸りながらそう息巻いていたのだ。自らの身体にまとわりつくヘドロは幻覚なのだと無意識に夢想して。
摂政の座につき政務を行った執務室はかつて役人だった頃を思い出させ、そこに居心地の良さすら覚えていた。
書類を読んで政策を練り、それによる成果を眺めることはかつての生活そのものだ。私はこの期に及んでそんな生き方を捨てきれないでいた。
その小さな家の外には悪意に満ちた世界が存在するというのに。その悪意に蝕まれた結果が今だというのに。
娘の身体を侵すあの”呪い”に対してだってそうだ。いつの間にか仮初めの生活によって直視しないで済む日々に安堵していた。
甘かった。我が事ながら信じられない愚鈍さだ。
この悪意に満ちた世界で光を抱きしめ続けたいのなら、やるべきことは唯一つ。
自らを暗黒と穢れの化身としあらゆる悪意を飲み尽くすほかない。その内側に抱く光のために。わかっていたはずだ。
ロイは何者かに祈るように目を閉じ、唇を血が滲むほど噛み締めた。
まだ自分にチャンスがあるというのなら、もう二度と過ちは犯さない。
神など存在しないことはとうの昔にわかっている。だから悪魔に祈ろう。
悪魔ならば、いつもそばで微笑んでいる。
そして今度こそ私は全てを捧げると誓う。今日それを証明してみせよう。
だから、だから──。
クリフトアス、お前を殺す。私が知る限り、最も無残な方法で。
ロイは馬上で顔を上げた。そして心配する兵士たちをよそに北の地平線を見る。
その地平線の先に軍勢が見えた。
つまりはセラステレナ主力軍。ヨハン・クリフトアス率いる一万五千の軍団。
ロイはそれを一瞥するなり馬首を切り返し、自らの本営へ向かって駆け出した。
左肩の痛みなどすでにどうでも良かった。
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