中古一国記

安川某

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二章

第44話 ダカン平原の会戦④

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 まともに戦をするのは、これが初めてだ。

 ジュリアン・ダルシアクはナプスブルク軍右翼に布陣し、正面にいる敵を見つめながらそう初陣の心地を確かめた。

 率いるのは父の兵一千五百。皆自分よりも年重の戦なれした頼れる兵たち。それに囲まれていても、こうして敵の軍勢を目の前にすると恐れがこみ上げてくる。

 恐れてはだめだ。この戦い如何で自分たちアミアン貴族がその旧領を回復できるかが決まる。悲願は自分の手にかかっているのだ。

 戦に勝って父と再会する。
 そうしてダルシアク子爵家の嫡男にふさわしい武勲だと褒めてもらう。

 やがてはアミアン貴族を束ねる存在として、失われしアミアン人の誇りと栄光を取り戻す。そしてそれが叶ったなら──。

 そこでジュリアンは自分の思考が夢想に浸りかけているのに気づき、自嘲するように首を振った。

 いけない。悪い癖だ。
 この辛い現実から逃れるための希望を未来に描く。そこまではいい。問題はその空想の未来の先にさらなる空想を思い描いてしまうこと。

 空想の上に作られた空想は、希望というよりはもはや独り歩きした欲望に過ぎない。そういうところが若いのだと、よく叱られたではないか。

 だからまずはこの一戦に勝つ。全てはそれからなのだ。

 右隣に布陣するホランド・ガスケインからの指示はこの通りだ。

”指示があるまで守りに徹せよ”

”前進、防御、後退。発するべき命令はこの三つのみと心得よ”

”攻勢はこちらの動きに合わせよ”

 だが戦線は右翼のこちらだけではない。左翼のランドルフ隊やフィアット軍が危機に陥った場合はどうする?

 もしホランド隊が混戦になりこちらに指示を出せなくなったら? 動くべきか? それとも持ち場を守るべきか。

 頭の中に様々な予測が起きてはジュリアンの胸を脈打たせる。
 落ち着け、これが初陣の緊張なのだ。まずは言われたことを確実にやらなくては。

「ジュリアン様、正面の敵に動きがあります」

 側についていた将校がそう報告し、ジュリアンは我に返った。

「攻めてくる気だろうか」

「わかりません。弓兵に迎撃を指示しますか」

「……待て、様子がおかしい」

 ジュリアンは目を細めて敵を見つめる。
 すると敵の群れの中から将軍と思われる男が、側近を数名連れて歩み出てきた。

「やあやあ、パッシェンデール候のご子息の軍とみえる。ジュリアン殿はどちらにおわす」

 敵の将は不敵にも弓の射程内に入ると、そう言って笑みを見せた。

「挑発です。狙撃の可能性も。姿を見せてはなりません」

 将校がそう警告する。

「しかし……」

「今姿を出さないことは臆病ではありません。どうかご冷静に」

「ぐ……」

 セラステレナの将軍はジュリアンが姿を見せないと知ると、大声で残念がった。

「なんだ、熱情と気骨の士と謳われたパッシェンデール候の子息が、まさか私を恐れて隠れているのであるまいな?」

 将軍の側近たちが追従するように笑い声をあげる。

「なるほどなるほど、将の器量はそのまま兵の質を表すという。臆病者に率いられた臆病者の軍団というわけか。それならば故郷を蹂躙されたのも大いに頷けるなあ」

「おのれ……!」

「おやめください、ジュリアン様。これほどわかりやすい挑発はありませぬ。ここはこらえてください」

 ジュリアンは口を食いしばり、目を血走らせて吐き出しかけた言葉を飲み込む。

 その様子を見た敵の将は「ほう、将も兵も忍耐があるようだ」と少し感心を見せたが、これはジュリアンには聞こえない。

 やがて敵将は大きな笑い声をあげて「うん、うん」と言葉に出して頷いた。

「わかった。諸君らはどうやら湿った薪のような心であるな。アミアン人とは実に陰気な生き物だ」

 敵将はそう言うと、乗馬にくくりつけた大きな布袋を取り出し、それに手を突っ込み何かを探し始める。

「さてさて、ここでご子息らに我らからの献上の品を見ていただきたい。これを見れば諸君らの冷え切った闘志にも火が灯るのではないかと私は思う」

 そうして敵将が袋から何かを取り出し、こちらへ突きつけるようにしてそれを見せた。

「ウォード男爵……」

 その”何か”の正体に気づいたジュリアンは、そう思わず口にこぼした。

 父の側に参謀として仕えていた同胞貴族の一人。その首だった。

 ウォードはセラステレナに通じており、それをグレーナーによって見抜かれ、父に投獄されていた。

 パッシェンデール城に囚えられていたはずだ。それがなぜ。

「ふむ? 反応が薄い。これではなかったか」

 敵将はウォードの首を放り投げた。

 まさか、馬鹿な。
 ジュリアンの頬を冷たい汗が伝う。

 敵将は再び袋の中に手を入れると、おそらくは次の首であろう物を取り出そうとする。

 やめろ、やめてくれ。

「では、これかな?」

 敵将が袋から手を抜き、その手に持った物を掲げる。ジュリアンは血の気が一気に引くのを感じた。

「バレーヌ卿……」

 パッシェンデールに隣接する領の主。父の元に参じ、共にセラステレナに抵抗していた。

「ふむ……? これでもない。そうか……」

 敵将は再びその首をつまらぬものでも投げるように捨てると、袋の中に手を戻す。

 そしてにやりと笑うと、こう言った。

「では、これか」

 乱れきった髪を乱暴に掴まれ、ジュリアンの目の前に掲げられたその首。

 見間違えようもない、父エマニエル・ダルシアクだった。

 言葉が、出ない。

 視界が歪む。自分の呼吸音が頭の中に響く。

 まるで時が止まったかのようだ。

 ジュリアンはただ呆然と、全ての尊厳を奪われ衆目に晒された父の無残な姿を見つめている。

 何か、何か言わなくては。
 怒り。そうだ、怒りだ。父を殺されたのだぞ。

 怒り。吠えろ。恐怖。怒りだ。怖い。怒れ。足がすくむ。

 相反する二つの感情の渦に飲み込まれる。口を開いても言葉が続かない。

 誰かが叫ぶ声が聞こえる。

 誰だ? 誰が怒鳴っている。それは私がしなければならないのに。

 誰だ。

 ジュリアンが混濁する思考のまま、その目を声のする方に向ける。

 そこに映ったのは、怒声を上げながら敵に向かい突進する、パッシェンデール勢千五百名の姿だった。

「お前たち、落ち着け! 止まれえ!」

 将校が慌てて制止するも、兵たちは目を血走らせ各々の武器を振りかぶり驀進する。

「やればできるではないか。おお、怖い」

 セラステレナの将軍はそう笑うと、自陣に馬を戻らせた。

 暴走する配下たちの背を眺めながら、ジュリアンは震える手で剣の柄を握る。

 ──父上。私は。

 ナプスブルク軍右翼の戦端が開かれた。
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