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翌木曜日
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原田がベッドに上半身を起こして茫然としていると、健介が階段を駆け上がってきた。
「お茶持ってきた!」
そう言って健介は手に持ったグラスを原田に突き出す。
反動で中のお茶がボタっと零れる。
……多分、この様子だと階段も廊下もボタボタに濡らして来たんだろうな。
と、原田はグラスの中に半分くらい残っているお茶を受け取った。
「あのね、もうお茶もなくてね、ご飯もなくてね、食べる物もなくてね、秋ちゃんは出掛けたの」
原田はグラスに口をつけて、勢い込んで話す健介を見た。
よく意味がわからない。
「だから、このお茶、朱鷺ちゃんが持ってきてくれたの。ご飯も持ってきてくれたの」
次に朱鷺を見上げた。
朱鷺も今は面倒なので健介の口を読んではいないから全然話がわからず、なんとなく首を傾げた。
なので、さっぱりわからない。
原田は寝起きが悪いので頭がさっぱり動かない。
うーん、と頭を掻いて、呟いた。
「……風呂、入りたい」
聞いた健介はまた弾かれるように部屋を飛び出していった。
そして原田はグラス半分しか入ってなかったお茶を一気に飲み干してベッドボードに置き、布団をめくってベッドを降りようとして、黒い箱が足のあたりに一つ乗っていることに気付いた。
手を伸ばしてなんとか取ってみると、アロガン。
収納されているはずのクローゼットに目を移すと、扉が一枚開いている。
なんだこれ?
と、また朱鷺を見上げる。
朱鷺が説明しようと指を開いたが、原田が手話を理解しないことを思い出してジャケットのポケットから携帯を取り出して文字を打った。
『健介が出した』
それを読んでまた原田が朱鷺を見上げる。「何故」健介が出したんだ?と目で訊いている。
なんとなく意図を汲んだ朱鷺は笑って首を傾げた。
そこに健介が走って戻ってきた。
「父さん!あのね、さっきまで外にね、いっぱい、」
また勢い込んで健介はそこまでしゃべって、原田が持っている黒い箱に気付いて言葉を切った。
「……これ、どうしたんだ?」
絶句している健介に、アロガンを示して原田が訊いた。
「なんで突然こんなもの出したんだ?」
「あのね、」
そしてまた、健介は言葉を失う。
上手く説明ができない。
自分の思いを言葉にできない。
この匂いで、逃げられた。この匂いで逃げようと思った。この匂いで気付いた。自分が戻りたい場所に。
「あのね、黒い男がね、つけてて、」
車の中で男のジャケットからこれが匂い、再度勇気を持てた。
「車でね、車の中で、黒い男がね、」
そこまで必死に言葉を繋げたが、勝手に涙が溢れてきた。
そんなつもりじゃないのに、ぼろぼろと涙が零れてきた。
「あのね、アロガンの匂いでね、」
涙のせいでそれ以上の言葉が見つからない。
健介は言葉を探すのを諦めて涙を拭いながらしゃくりあげた。
俯いて手で涙を拭っていると、大きな手が頭を撫でた。
そして父の声が聞こえた。
「そうか」
健介が顔を上げると、父はアロガンをベッド脇のゴミ箱に放り入れていて、落ちた瓶がゴンと音を立てた。
「父さん!」
健介が慌ててゴミ箱に駆け寄り、同時に原田はサイドテーブルに乗っている残りのアロガンが入っている箱に手を伸ばそうとベッドから降りて、
ガタンと膝から崩れ落ちて床に手をついた。
三日間ベッドの上で寝たきりだったため、脚が自重を忘れていて支えられず、膝が立たない。
毎回発作後は必ずこの現象が起こるのに原田は全く学習しない。
またやったよ……、とベッドにもたれかかって頭を抱える。
「父さん!」
健介が慌てて戻ってきた。
「どうしたの!大丈夫?!」
「……うん。すぐ歩ける。多分」
「多分?」
そして原田は健介を見て、言った。
「その香水は捨てるよ。悪かったな」
健介は原田の腕を掴んで、首を振った。
「だめ。捨てないで」
ん?と原田が顔を顰める。
「それのおかげで、僕、帰ってこれたの」
じっと見詰める父に、健介は訴える。
「それのおかげで、僕ね、父さんの匂いだから、父さんの部屋の匂いだから、だから帰ってこれたんだよ」
また健介の目に涙が浮かぶ。
「きっと、この匂いがなかったら、帰ろうって思えなかったよ」
それでも原田は表情を変えずに健介を見詰めている。
「黒い男がアロガンつけなかったら、」
「黒い男って、犯人だろ?」
原田の問いに、涙を一粒零して健介が頷いた。
「それなら、その男のことも車のことも何もかも、その匂いで思い出すだろ」
健介は躊躇いながら頷いた。
「それなら、捨てろ」
健介は躊躇なく首を振った。
「どうして」
原田の問いに、また涙を零しながら健介が応えた。
「父さんだから。父さんの匂いだから。怖かったけど頑張れたのは、父さんの匂いだったから、だから、」
やはり思いを言葉にできない。
思いの代わりに涙ばかり零れる。
「忘れたく、ない。すごく、帰りたかったの。父さんのところに」
どうしてこんなに涙がでるのかと思う。
「これがなかったら、僕きっと、まだ車の中……」
その言葉を口に出して、恐怖が蘇った。
きっとまだ車の中。
黒い男とお母さんの乗る後ろの席に。
もしかしたらまたトランクの中。
アロガンがなかったら、僕はまだ車の中。
そして一層、涙が溢れた。
わかった。
僕に勇気をくれて、僕を動かしてくれて、僕を助けてくれたアロガンに、
僕は感謝してる。
だからこんなにも涙が出る。
「お茶持ってきた!」
そう言って健介は手に持ったグラスを原田に突き出す。
反動で中のお茶がボタっと零れる。
……多分、この様子だと階段も廊下もボタボタに濡らして来たんだろうな。
と、原田はグラスの中に半分くらい残っているお茶を受け取った。
「あのね、もうお茶もなくてね、ご飯もなくてね、食べる物もなくてね、秋ちゃんは出掛けたの」
原田はグラスに口をつけて、勢い込んで話す健介を見た。
よく意味がわからない。
「だから、このお茶、朱鷺ちゃんが持ってきてくれたの。ご飯も持ってきてくれたの」
次に朱鷺を見上げた。
朱鷺も今は面倒なので健介の口を読んではいないから全然話がわからず、なんとなく首を傾げた。
なので、さっぱりわからない。
原田は寝起きが悪いので頭がさっぱり動かない。
うーん、と頭を掻いて、呟いた。
「……風呂、入りたい」
聞いた健介はまた弾かれるように部屋を飛び出していった。
そして原田はグラス半分しか入ってなかったお茶を一気に飲み干してベッドボードに置き、布団をめくってベッドを降りようとして、黒い箱が足のあたりに一つ乗っていることに気付いた。
手を伸ばしてなんとか取ってみると、アロガン。
収納されているはずのクローゼットに目を移すと、扉が一枚開いている。
なんだこれ?
と、また朱鷺を見上げる。
朱鷺が説明しようと指を開いたが、原田が手話を理解しないことを思い出してジャケットのポケットから携帯を取り出して文字を打った。
『健介が出した』
それを読んでまた原田が朱鷺を見上げる。「何故」健介が出したんだ?と目で訊いている。
なんとなく意図を汲んだ朱鷺は笑って首を傾げた。
そこに健介が走って戻ってきた。
「父さん!あのね、さっきまで外にね、いっぱい、」
また勢い込んで健介はそこまでしゃべって、原田が持っている黒い箱に気付いて言葉を切った。
「……これ、どうしたんだ?」
絶句している健介に、アロガンを示して原田が訊いた。
「なんで突然こんなもの出したんだ?」
「あのね、」
そしてまた、健介は言葉を失う。
上手く説明ができない。
自分の思いを言葉にできない。
この匂いで、逃げられた。この匂いで逃げようと思った。この匂いで気付いた。自分が戻りたい場所に。
「あのね、黒い男がね、つけてて、」
車の中で男のジャケットからこれが匂い、再度勇気を持てた。
「車でね、車の中で、黒い男がね、」
そこまで必死に言葉を繋げたが、勝手に涙が溢れてきた。
そんなつもりじゃないのに、ぼろぼろと涙が零れてきた。
「あのね、アロガンの匂いでね、」
涙のせいでそれ以上の言葉が見つからない。
健介は言葉を探すのを諦めて涙を拭いながらしゃくりあげた。
俯いて手で涙を拭っていると、大きな手が頭を撫でた。
そして父の声が聞こえた。
「そうか」
健介が顔を上げると、父はアロガンをベッド脇のゴミ箱に放り入れていて、落ちた瓶がゴンと音を立てた。
「父さん!」
健介が慌ててゴミ箱に駆け寄り、同時に原田はサイドテーブルに乗っている残りのアロガンが入っている箱に手を伸ばそうとベッドから降りて、
ガタンと膝から崩れ落ちて床に手をついた。
三日間ベッドの上で寝たきりだったため、脚が自重を忘れていて支えられず、膝が立たない。
毎回発作後は必ずこの現象が起こるのに原田は全く学習しない。
またやったよ……、とベッドにもたれかかって頭を抱える。
「父さん!」
健介が慌てて戻ってきた。
「どうしたの!大丈夫?!」
「……うん。すぐ歩ける。多分」
「多分?」
そして原田は健介を見て、言った。
「その香水は捨てるよ。悪かったな」
健介は原田の腕を掴んで、首を振った。
「だめ。捨てないで」
ん?と原田が顔を顰める。
「それのおかげで、僕、帰ってこれたの」
じっと見詰める父に、健介は訴える。
「それのおかげで、僕ね、父さんの匂いだから、父さんの部屋の匂いだから、だから帰ってこれたんだよ」
また健介の目に涙が浮かぶ。
「きっと、この匂いがなかったら、帰ろうって思えなかったよ」
それでも原田は表情を変えずに健介を見詰めている。
「黒い男がアロガンつけなかったら、」
「黒い男って、犯人だろ?」
原田の問いに、涙を一粒零して健介が頷いた。
「それなら、その男のことも車のことも何もかも、その匂いで思い出すだろ」
健介は躊躇いながら頷いた。
「それなら、捨てろ」
健介は躊躇なく首を振った。
「どうして」
原田の問いに、また涙を零しながら健介が応えた。
「父さんだから。父さんの匂いだから。怖かったけど頑張れたのは、父さんの匂いだったから、だから、」
やはり思いを言葉にできない。
思いの代わりに涙ばかり零れる。
「忘れたく、ない。すごく、帰りたかったの。父さんのところに」
どうしてこんなに涙がでるのかと思う。
「これがなかったら、僕きっと、まだ車の中……」
その言葉を口に出して、恐怖が蘇った。
きっとまだ車の中。
黒い男とお母さんの乗る後ろの席に。
もしかしたらまたトランクの中。
アロガンがなかったら、僕はまだ車の中。
そして一層、涙が溢れた。
わかった。
僕に勇気をくれて、僕を動かしてくれて、僕を助けてくれたアロガンに、
僕は感謝してる。
だからこんなにも涙が出る。
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