ARROGANT

co

文字の大きさ
98 / 194
翌木曜日

10

しおりを挟む
 シュっと、音がした。
 父子が見上げると、朱鷺がゴミ箱からアロガンを取り出して空中に噴射している。

「朱鷺」
 ベッドに寄り掛かって座り込んでいる原田が顔を顰めて朱鷺を詰るが、当然朱鷺には聞こえていない。
 そして当然のように原田を無視して、朱鷺は原田の横に膝をついている健介に顔を向けて訊いた。

『これ、鷹村の離れの匂いだ?』
 そう!と健介が頷いた。
 朱鷺もアロガンが漂っているあの部屋に踏み込んだから覚えている。
『そうなの!あの時この匂いがしたから僕窓から外見たの!だから、朱鷺ちゃんを見つけたの!』
『そうなんだ?』
 朱鷺が笑って頷いた。
『そうなの!これがなかったら僕戻ろうと思わなかったの!』
『そっか。そうだね。これ原田さんの部屋の匂いだもんね。この部屋を思い出したんだね』
『そうなの!ここに帰ろうと思ったの!』
『そうなんだ。それじゃ、アロガンが健介を目覚めさせたんだね。大事な香水だね』
『そうなの!』

 朱鷺に気持ちを全てわかってもらえて、嬉しくて健介はまた涙を零した。
 そんなふうに泣く健介に、朱鷺は笑いながらアロガンを手渡した。

 そして、手話を理解せず二人に一切無視されていた原田がまた朱鷺を詰ったが、当然朱鷺には聞こえない。だから次に健介を呼んだ。

「健介。何話してたんだ?」
「あのね!朱鷺ちゃんがね、朱鷺ちゃんもあそこの家にいたからね!この匂い覚えててね!」

 さっぱりわからない。相変わらず健介は意味不明だ。原田は諦めた。
 そしてため息をついてから、確認した。

「その香水、平気なのか?事件思い出して怖くなるんじゃないのか?」
 アロガンを握りしめて、健介は大きく首を振った。

「違うの。思い出すのは、事件じゃなくて、父さんだから」


 俺?


「今ね、朱鷺ちゃんが言ってたのはね、アロガンが僕を目覚めさせたんだって」
 また健介の目から涙が落ちる。
「だから大事な香水なの」

 さっぱりわからない。
 原田はまた朱鷺を見上げた。
 朱鷺は原田に詳しく説明する気はないから無表情に見下ろしている。

「だから、捨てないで」

 目を真っ赤にして、涙の跡を幾筋も頬につけて、息子がそんな懇願をしている。



 その顔を見て、気付いた。

 元に戻ったんだ。
 元通りこの家に戻ったんだ。
 やっとそれに原田は気付いた。



 覚悟していた運命が動き出して、健介を手離す気持ちを固めていった。
 それがつい数日前。
 それを君島に破壊された。
 健介自身がここに残ると宣言した。
 その直後奪われ、生死すら不明だった。
 やっと取戻し帰宅しようとして、面倒が発生し、その後の記憶はない。


 つい数日前まで、諦めていた。
 もうこんな日は永久に来ないと覚悟していたことだった。
 今こうして当たり前のように自分の部屋で息子と座って話をしている。
 こんなことはもうないのだと思っていた。

 あの時の覚悟を思い出すと、今この当たり前が夢のようで信じられない。


 健介の頭に手を伸ばす。
 当然自分には全く似ていないくしゃくしゃの癖毛。
 でも長い間この頭を撫でてきたから、似ていないということを忘れていた。
 違う、自分は多分考えたことがない。
 似ているとか似ていないとかどうでもよかった。
 自分は父親のつもりではなかったから。
 親の自覚もなくただ健介を傍に置いて育ててきただけだったから。


「いいよね?」


 そして、自分に似ていない茶色い丸い目で息子が自分を見上げる。
 原田は漆黒の釣り目を細めて、頷いた。


 ありがと!と笑って、健介がまた涙を零した。


 これまでの生活が戻ってきた。


 いや、違うか。違うのかな。多分何かが違うんだろうな。
 これまでとはきっと何かが違うんだろう。
 まぁ何かが違っていても構わない。



 何がどう変わっても、健介が手元にいるのならそれでいい。



 涙を拭いて笑っている健介の頭をまた、原田はくしゃくしゃに撫でた。





 そんなことをしている二人の前を、朱鷺が横切った。
 その手に他のアロガンが入っている小箱を持っている。
 そして、クローゼットの開いている扉に手を掛けた。

 その瞬間原田が立ち上がり、朱鷺の腕を掴んだ。

「戻さなくていい」

 驚いて振り向いた朱鷺に、原田がはっきりと告げ、それと同時に小箱を取り上げた。

 あっけに取られて朱鷺が目を丸くして原田を見詰める。さっきまで立てずに座り込んでいたはずなのに。
 そして原田は、戻さなくていいと自分で言ったくせにクローゼットの棚に小箱を戻して扉を閉めた。

 お風呂が沸きました、と下から音声が聞こえる。

「風呂入る」

 そう言って二人に目を向けずに原田は壁に手をつきながらゆっくりと移動を始めた。やはりまだ膝はしっかり立たない。
 父さん、と慌てて健介が近寄る。
 朱鷺も首を傾げてから後ろをついていった。
 猫はまた原田の布団に潜りこんでいた。





 クローゼットの真ん中の一番上の棚に、香水のボトルを詰め込んでいる。
 海外旅行の土産として貰った物ばかりだ。アロガンも全て貰い物だ。
 その一番奥に、一番古い貰い物の小さなボトルを隠している。


 それに気付かれたくなかった。

 中身のほとんど入っていない、開けることもできず捨てることもできない、赤いボトル。

 それには思い出すこともない若い頃の原田の傷が封印されている。

 10年とそれ以上も前の古い傷。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

苺の誘惑 ~御曹司副社長の甘い計略~

泉南佳那
恋愛
来栖エリカ26歳✖️芹澤宗太27歳 売れないタレントのエリカのもとに 破格のギャラの依頼が…… ちょっと怪しげな黒の高級国産車に乗せられて ついた先は、巷で話題のニュースポット サニーヒルズビレッジ! そこでエリカを待ちうけていたのは 極上イケメン御曹司の副社長。 彼からの依頼はなんと『偽装恋人』! そして、これから2カ月あまり サニーヒルズレジデンスの彼の家で ルームシェアをしてほしいというものだった! 一緒に暮らすうちに、エリカは本気で彼に恋をしてしまい とうとう苦しい胸の内を告げることに…… *** ラグジュアリーな再開発都市を舞台に繰り広げられる 御曹司と売れないタレントの恋 はたして、その結末は⁉︎

冷徹社長は幼馴染の私にだけ甘い

森本イチカ
恋愛
妹じゃなくて、女として見て欲しい。 14歳年下の凛子は幼馴染の優にずっと片想いしていた。 やっと社会人になり、社長である優と少しでも近づけたと思っていた矢先、優がお見合いをしている事を知る凛子。 女としてみて欲しくて迫るが拒まれてーー ★短編ですが長編に変更可能です。

ほんの少しの仕返し

turarin
恋愛
公爵夫人のアリーは気づいてしまった。夫のイディオンが、離婚して戻ってきた従姉妹フリンと恋をしていることを。 アリーの実家クレバー侯爵家は、王国一の商会を経営している。その財力を頼られての政略結婚であった。 アリーは皇太子マークと幼なじみであり、マークには皇太子妃にと求められていたが、クレバー侯爵家の影響力が大きくなることを恐れた国王が認めなかった。 皇太子妃教育まで終えている、優秀なアリーは、陰に日向にイディオンを支えてきたが、真実を知って、怒りに震えた。侯爵家からの離縁は難しい。 ならば、周りから、離縁を勧めてもらいましょう。日々、ちょっとずつ、仕返ししていけばいいのです。 もうすぐです。 さようなら、イディオン たくさんのお気に入りや♥ありがとうございます。感激しています。

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

分かりやすい日月神示の内容と解説 🔰初心者向け

蔵屋
エッセイ・ノンフィクション
私は日月神示の内容を今まで学問として研究してもう25年になります。 このエッセイは私の25年間の集大成です。 宇宙のこと、118種類の元素のこと、神さまのこと、宗教のこと、政治、経済、社会の仕組みなど社会に役立たつことも含めていますので、皆さまのお役に立つものと確信しています。 どうか、最後まで読んで頂きたいと思います。  お読み頂く前に次のことを皆様に申し上げておきます。 このエッセイは国家を始め特定の人物や団体、機関を否定して、批判するものではありません。 一つ目は「私は一切の対立や争いを好みません。」 2つ目は、「すべての教えに対する評価や取捨選択は自由とします。」 3つ目は、「この教えの実践や実行に於いては、周囲の事情を無視した独占的排他的言動を避けていただき、常識に照らし合わせて問題を起こさないよう慎重にしていただきたいと思います。 それでは『分かりやすい日月神示 🔰初心者向け』を最後まで、お楽しみ下さい。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年(2025年)元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

【完結】結婚式の隣の席

山田森湖
恋愛
親友の結婚式、隣の席に座ったのは——かつて同じ人を想っていた男性だった。 ふとした共感から始まった、ふたりの一夜とその先の関係。 「幸せになってやろう」 過去の想いを超えて、新たな恋に踏み出すラブストーリー。

処理中です...