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第二章:現実という名の迷宮
013話『赤のゲート、再起動』
夜。
夕食を済ませたあと、僕はリビングのソファで目を閉じていた。
温め直したコーヒーみたいに、ようやく体が落ち着いてきた。
ちょうどいい温度の夜だ。
隣のクッションでは、コユキが香箱座りで小さく丸くなる。
白い毛並みが照明を柔らかく返して、視界の角が丸くなる感じがした。
「猫って、いいな」
思わず、独り言が漏れた。
「……なあ、少しだけ撫でてもいいか」
「撫でる“だけ”よ? 毛並みが乱れるのは嫌だから」
「了解。指先で一往復」
指の腹でそっと額に触れる。髪より細い繊維が、体温を帯びて指へ戻ってくる。
それだけで呼吸が深くなった。
——そのとき、視界の端に、色の違う空気が混じった。
廊下の突き当たり。二階の物置部屋のドアの隙間から、ほのかに赤が滲んでいる。
「コユキ。あの部屋……明かり、つけた記憶はない」
「私は行ってないわ。物置でしょ?」
胸の中で、心拍が一段だけ高く跳ねた。
僕は立ち上がり、階段を上る。足音が、壁に吸い込まれていく。
——まさか。
ドアノブに触れ、ゆっくり押す。
赤黒い光が、呼吸するみたいに部屋の壁を染め、中心に穴のような歪みを作っていた。
「ゲート……? いや、色が違う」
新大阪で見た“黒”ではない。
赤黒い光の層が複層に重なって、心拍と反対のリズムでゆらぐ。
「間違いないわね。サブゲートよ」
コユキが、当然のように断言する。
「大型ダンジョン——新大阪みたいな“黒いゲート”が本体。これはその“裏口”。どこかの階層に直通しているタイプ」
「入口が家に……理由は?」
「“導かれた者”であるあなたに反応した可能性が高いわ。座標というより、人に紐づく“経路”ね」
決定的な言い方だった。
こういうとき、彼女の確信は当たる。僕は深く息を吸い込む。
「今すぐ、はやめておく。準備をして、明日入る」
「賛成。段取り八割ね」
「……それを言うか」
仕事でもよく聞く。八割は準備で決まり、残りの二割が実行。
それを猫に言われるとは思わなかった。
コユキの一言は、まるで経験豊富なマネージャーのようで、少しだけ笑ってしまった。
日付が変わる前、僕はスマートスピーカーに声を投げる。
「申請チャットに送って。——明日火曜は、急用で休みます」
現実に一本、手を通してから非現実に触れる。
それが、社会人としての安全装備だ。
*
翌朝。
玄関に荷物を並べ、内容を最終確認する。
金属バット。非常食と水。替えのシャツ。簡易包帯。携帯ライト。スマホ。
前回、十時間近く口にできなかった空腹の記憶は、もう教訓に変わっている。
「バットって、野球でも始めるの?」
「鉄パイプの実績がある。運用実績は信用できる」
「ふふ、言い方が完全に会社員」
コユキが小さく笑って、尾をひと振りした。
階段を上がる。二階の物置部屋に漂う赤黒い光は、まだそこにあった。
光の波が壁紙の模様を撫で、部屋の空気だけ温度が違う。
「行く」
頷きを交わし、僕たちは渦へ踏み込む。
空間がねじれ、耳鳴りが一瞬だけ高くなる。
足裏に固い地面の反発が戻ると、暗い空が頭上にあった。
薄闇。雲の切れ目から、赤い月が覗く。
空気は乾いていて冷たい。息が白くならない程度の冷え方。
正面に、城がある。
黒い石で積まれた外壁は光を拒むように鈍く沈み、窓という窓が闇を抱えている。
廃墟のようでいて、どこか“生きている”気配があった。
風が止まり、耳鳴りのような静寂だけが続く。
「ボス感、満載だな」
言葉に出すと、少しだけ緊張が整理される。
背後を振り返ると、赤黒い光はまだ開いていた。退路は、いまのところ、ある。
「段取り通り。まずは周辺の確認——」
「グルル……」
低い唸りが闇から剥がれ落ちた。
茂みの陰で光の吸収が変わる。複数。目だけが先にこちらを掴む。
灰色の毛。二足のシルエット。牙。
僕より頭ひとつ分、大きい。
三匹。
心臓が一拍、強く。肺が一瞬だけ浅くなる。
恐怖は情報不足の裏返しだ。なら、観察して、補えばいい。
「落ち着いて、秀人。スキルは起動できる」
「……ああ」
この二日で、技能共有結の維持はすっかり体に染みついた。
意識しなくても、呼吸するみたいに保てる。
それでも、指先はわずかに震えていた。目の前の“現実”には、まだ慣れない。
「——来る」
三匹が滑るように距離を潰す。
反射が理屈を追い越す。
「影移動!」
影へ滑り込む。視界の明暗が反転し、敵背後の地面に跳ね返る。
肩の上でグリップを調整し、金属バットを振り抜いた。
骨ではない手応え。密度が揺れる。吠え声。
背後に足音。回避が間に合わず、肩に浅い痛みが走った。
「右、来る!」
コユキの声がクリックのように脳に刺さる。
足首を軸に、バットの先で噛みつきを弾く。鉄の感触が手のひらに戻る。
呼吸。
恐怖は、まだいる。けれど、並走させられる。
「——時間視界」
世界が半歩、遅くなる。
視界の端で“未来の残像”が薄く線を引く。
踏み込み、重心、腰の回転。三匹分の予兆が重なり、ほどける。
「見えた」
影の縁を踏み、背中の黒を狙ってもう一度“潜る”。
足元へ抜け、バットを一閃。
命中の瞬間、灰色の輪郭が粒子にほどけた。
崩壊というより、構造が分解された感じだ。
魔力そのものが空気に還っていく。
「消えた……?」
「普通のモンスターって感じじゃないわね。生き物っていうより現象に近いかも。」
一体目が消えると、恐怖の位置が後ろへ下がった。
残り二匹。
頭のどこかで、会議の段取りを立てるみたいに並び替える。
二匹目は外側へ振らせて、硬直へ差し込む。
三匹目は影の切り返しで“足元”を奪う。
「来い」
二匹が重なるタイミングで、再び視界を一段落とす。
牙の軌道と爪の角度が、スロー再生で“読める”。
すれ違いざま、全身のバネを一本にまとめて振る。
手首に、確かな終わりの感触。
音が、遅れて耳に落ちてきた。
静寂。
遠い風の音だけが、城の壁に擦れている。
「……終わったか」
喉の奥で空気を温め、吐く。
バットの先端に残る虚ろな重みが、少しずつ抜けていく。
「よくやったわ、秀人」
コユキが肩に前足を触れる。
それだけで、世界が現実側へ数ミリ戻る。
「模写捕食は?」
「一応、試してみたけど無理だったわ。粒になって消えて、取り込むものが何も残らなかったの。」
「なるほど」
敵のスキルは得られない。
でも、経験は蓄積される。
ステータスを確認するとレベルは8に上がっていた。
倒せば経験は入る。これは確かな手応えだった。
「……動き、だいぶ噛み合ってきたわね」
「ああ。さっきの連携も悪くなかった」
ふと顔を上げる。
赤い月の下、城の輪郭が黒い紙のように切り抜かれている。
入口は、まだ遠い。けれど、道は見える。
退路は背後に。相棒は隣に。
必要な条件は、そろっている。
「行こうか」
「ええ」
僕はバットを握りしめ、城へ向けて歩き出した。
夕食を済ませたあと、僕はリビングのソファで目を閉じていた。
温め直したコーヒーみたいに、ようやく体が落ち着いてきた。
ちょうどいい温度の夜だ。
隣のクッションでは、コユキが香箱座りで小さく丸くなる。
白い毛並みが照明を柔らかく返して、視界の角が丸くなる感じがした。
「猫って、いいな」
思わず、独り言が漏れた。
「……なあ、少しだけ撫でてもいいか」
「撫でる“だけ”よ? 毛並みが乱れるのは嫌だから」
「了解。指先で一往復」
指の腹でそっと額に触れる。髪より細い繊維が、体温を帯びて指へ戻ってくる。
それだけで呼吸が深くなった。
——そのとき、視界の端に、色の違う空気が混じった。
廊下の突き当たり。二階の物置部屋のドアの隙間から、ほのかに赤が滲んでいる。
「コユキ。あの部屋……明かり、つけた記憶はない」
「私は行ってないわ。物置でしょ?」
胸の中で、心拍が一段だけ高く跳ねた。
僕は立ち上がり、階段を上る。足音が、壁に吸い込まれていく。
——まさか。
ドアノブに触れ、ゆっくり押す。
赤黒い光が、呼吸するみたいに部屋の壁を染め、中心に穴のような歪みを作っていた。
「ゲート……? いや、色が違う」
新大阪で見た“黒”ではない。
赤黒い光の層が複層に重なって、心拍と反対のリズムでゆらぐ。
「間違いないわね。サブゲートよ」
コユキが、当然のように断言する。
「大型ダンジョン——新大阪みたいな“黒いゲート”が本体。これはその“裏口”。どこかの階層に直通しているタイプ」
「入口が家に……理由は?」
「“導かれた者”であるあなたに反応した可能性が高いわ。座標というより、人に紐づく“経路”ね」
決定的な言い方だった。
こういうとき、彼女の確信は当たる。僕は深く息を吸い込む。
「今すぐ、はやめておく。準備をして、明日入る」
「賛成。段取り八割ね」
「……それを言うか」
仕事でもよく聞く。八割は準備で決まり、残りの二割が実行。
それを猫に言われるとは思わなかった。
コユキの一言は、まるで経験豊富なマネージャーのようで、少しだけ笑ってしまった。
日付が変わる前、僕はスマートスピーカーに声を投げる。
「申請チャットに送って。——明日火曜は、急用で休みます」
現実に一本、手を通してから非現実に触れる。
それが、社会人としての安全装備だ。
*
翌朝。
玄関に荷物を並べ、内容を最終確認する。
金属バット。非常食と水。替えのシャツ。簡易包帯。携帯ライト。スマホ。
前回、十時間近く口にできなかった空腹の記憶は、もう教訓に変わっている。
「バットって、野球でも始めるの?」
「鉄パイプの実績がある。運用実績は信用できる」
「ふふ、言い方が完全に会社員」
コユキが小さく笑って、尾をひと振りした。
階段を上がる。二階の物置部屋に漂う赤黒い光は、まだそこにあった。
光の波が壁紙の模様を撫で、部屋の空気だけ温度が違う。
「行く」
頷きを交わし、僕たちは渦へ踏み込む。
空間がねじれ、耳鳴りが一瞬だけ高くなる。
足裏に固い地面の反発が戻ると、暗い空が頭上にあった。
薄闇。雲の切れ目から、赤い月が覗く。
空気は乾いていて冷たい。息が白くならない程度の冷え方。
正面に、城がある。
黒い石で積まれた外壁は光を拒むように鈍く沈み、窓という窓が闇を抱えている。
廃墟のようでいて、どこか“生きている”気配があった。
風が止まり、耳鳴りのような静寂だけが続く。
「ボス感、満載だな」
言葉に出すと、少しだけ緊張が整理される。
背後を振り返ると、赤黒い光はまだ開いていた。退路は、いまのところ、ある。
「段取り通り。まずは周辺の確認——」
「グルル……」
低い唸りが闇から剥がれ落ちた。
茂みの陰で光の吸収が変わる。複数。目だけが先にこちらを掴む。
灰色の毛。二足のシルエット。牙。
僕より頭ひとつ分、大きい。
三匹。
心臓が一拍、強く。肺が一瞬だけ浅くなる。
恐怖は情報不足の裏返しだ。なら、観察して、補えばいい。
「落ち着いて、秀人。スキルは起動できる」
「……ああ」
この二日で、技能共有結の維持はすっかり体に染みついた。
意識しなくても、呼吸するみたいに保てる。
それでも、指先はわずかに震えていた。目の前の“現実”には、まだ慣れない。
「——来る」
三匹が滑るように距離を潰す。
反射が理屈を追い越す。
「影移動!」
影へ滑り込む。視界の明暗が反転し、敵背後の地面に跳ね返る。
肩の上でグリップを調整し、金属バットを振り抜いた。
骨ではない手応え。密度が揺れる。吠え声。
背後に足音。回避が間に合わず、肩に浅い痛みが走った。
「右、来る!」
コユキの声がクリックのように脳に刺さる。
足首を軸に、バットの先で噛みつきを弾く。鉄の感触が手のひらに戻る。
呼吸。
恐怖は、まだいる。けれど、並走させられる。
「——時間視界」
世界が半歩、遅くなる。
視界の端で“未来の残像”が薄く線を引く。
踏み込み、重心、腰の回転。三匹分の予兆が重なり、ほどける。
「見えた」
影の縁を踏み、背中の黒を狙ってもう一度“潜る”。
足元へ抜け、バットを一閃。
命中の瞬間、灰色の輪郭が粒子にほどけた。
崩壊というより、構造が分解された感じだ。
魔力そのものが空気に還っていく。
「消えた……?」
「普通のモンスターって感じじゃないわね。生き物っていうより現象に近いかも。」
一体目が消えると、恐怖の位置が後ろへ下がった。
残り二匹。
頭のどこかで、会議の段取りを立てるみたいに並び替える。
二匹目は外側へ振らせて、硬直へ差し込む。
三匹目は影の切り返しで“足元”を奪う。
「来い」
二匹が重なるタイミングで、再び視界を一段落とす。
牙の軌道と爪の角度が、スロー再生で“読める”。
すれ違いざま、全身のバネを一本にまとめて振る。
手首に、確かな終わりの感触。
音が、遅れて耳に落ちてきた。
静寂。
遠い風の音だけが、城の壁に擦れている。
「……終わったか」
喉の奥で空気を温め、吐く。
バットの先端に残る虚ろな重みが、少しずつ抜けていく。
「よくやったわ、秀人」
コユキが肩に前足を触れる。
それだけで、世界が現実側へ数ミリ戻る。
「模写捕食は?」
「一応、試してみたけど無理だったわ。粒になって消えて、取り込むものが何も残らなかったの。」
「なるほど」
敵のスキルは得られない。
でも、経験は蓄積される。
ステータスを確認するとレベルは8に上がっていた。
倒せば経験は入る。これは確かな手応えだった。
「……動き、だいぶ噛み合ってきたわね」
「ああ。さっきの連携も悪くなかった」
ふと顔を上げる。
赤い月の下、城の輪郭が黒い紙のように切り抜かれている。
入口は、まだ遠い。けれど、道は見える。
退路は背後に。相棒は隣に。
必要な条件は、そろっている。
「行こうか」
「ええ」
僕はバットを握りしめ、城へ向けて歩き出した。
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