晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略── やり直しじゃない。ここからが、僕の本番だ

七乃白 志優

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第六章:仮面の告発者

082話『顔を隠す理由、ジープの迎え』

火曜の朝。
窓の外は今日も曇りで、住宅街はまだ静かだ。
PCを立ち上げて、共有フォルダを開いた。

金曜の議事録。
保留になった決裁。
差し戻し。
返事ひとつで前に進むものが、地味に溜まっている。

(午後は信太山――延長なし、午前で片付けるしかない)

打ち合わせがひと息ついたところで、昨日の件に手を付ける。
退職相談。

東京の上司に、短く一報を入れる。
事実と方針だけ。

「昨日、三年目の田中君から退職の申し出がありました。本人意思は固い様子です。まず退職希望日は5月末。引継ぎ範囲を整理し、影響と代替案をこちらで取りまとめます。詳細は追って報告します」

送信。
余計な感情は添えない。
上げるべきは、気持ちじゃなくて事実と見立てだ。

次に、サブマネージャーを捕まえる。

「少しだけ、時間もらえる?ちょっと重い共有がある」

チャットに返して、数分後に通話を繋ぐ。
相手の顔が映った瞬間、僕は要点から入った。

「お疲れ様。さっそくだけど昨日、三年目の田中君から退職の相談があった。覆らなさそう。だから先に、影響範囲と引き継ぎの段取りを固めたい」

「わかりました。退職は、いつ頃ですか?」

「希望は5月末。まずは有給消化を含めた最終稼働が確定する前に、顧客説明の順番だけ押さえる。火種になりそうなところから先に」

「引継ぎは……」

「引継ぎは“全部”じゃなくて“絶対落とせない”ところだけでいい。安井君が田中君のやっている範囲を知っているはずだから。二週間で回る形にする。人員が足りないなら、社外含め調達をかける。必要工数とスケジュールだけ先に出して」

やり取りは短く、でも具体的に。
引継ぎ、穴埋め、顧客説明。
順番を擦り合わせたところで、僕は最後に一言だけ付け足した。

「午後、外出がある。いつもの半休以上に連絡がつきにくい。だから午前中で整理しておきたい。動けるところは先に動いておこう」

「分かりました。こちらでも対応しておきます」

慣れたくないのに――慣れている。
サブマネージャーを見ると、彼も冷静な顔をしていた。
4つ上の46歳。
こういう局面を何度も潜ってきた人だ。

大げさに騒がない。
感情の置き場を探す前に、手順が動く。
それは冷たさじゃなくて、崩さないための癖みたいなものだった。

コーヒーが冷めてるのに気づいて、ようやく息を吐いた。
通話が切れる。

考える間もなく、次のタスクに手が伸びた。

そこで立ち止まっていられない。
午後は信太山だ。
思考の棚を切り替える。

昼過ぎ。
在宅の段取りをひと区切りつけたところで、僕はディアに呼ばれて94階へ来ていた。

広場へ向かう途中、風の匂いが少し変わる。
――来た。

気配がひとつ、こちらへ近づく。
足音は大きいのに、乱れがない。
騎士型の三メートルが、広場の縁に静かに立っていた。

「秀人殿」

レグリスが、いつもの淡い光で視線を合わせる。

「魔力炉のチャージ完了。92階へ帰投する」

「……もう3日か。早いな」

「体感差を確認。――更新効率を最適化した結果、この周期が最も安定する」

さらっと言う。
……更新効率。
その単語、妙に引っかかった。

コユキが横から尻尾を揺らした。

「3日後、また来れる?」

「肯定。チャージが満ち次第、再訪する」

……定期便だ。
94階と92階を、バスみたいに往復している。

ディアは、僕の横で腕を組んで頷いた。

「規則正しいのは良いことよ。あなたの“充電期間”も把握できてる」

「充電って……」

言いかけたところで、ディアがわざとらしく視線を逸らして微笑む。
否定もしない、その顔。

コユキが尻尾をひとつ揺らした。

「言い方の問題じゃないよ。最近、夜のあと――目がちゃんと生き返ってる」

「……そこまで観察するな」

「観察じゃない。生活の安全管理」

ディアが、悪びれずに小さく肩をすくめた。

「ちゃんと“満ちてる”だけよ。……あなたが」

「言い方!」

コユキが当然の顔をする。

「事実は事実」

僕が言うと、コユキは尻尾をひとつ揺らしただけで済ませた。
――反論の余地なし、ってやつだ。

「で、次回の教材リスト。もう作ってある」

「……作ってあるの?」

「うん。基礎は終わったから、次は応用。『人間の対話』『交渉』『嘘のつき方(悪用禁止)』『謝り方(重要)』」

待て。
怖い単語が混ざっている。

「……悪用禁止、って付ければ安全だと思ってるだろ」

「付けないより安全」

「そういう問題じゃない」

レグリスが淡々と補足する。

「教材、受領予定。次回までに予習を実施する」

やめろ。
予習とか言うな。
機械に人間の悪知恵を積ませるな。

コユキは誇らしげに尻尾を一度だけ揺らした。

「大丈夫。ボク、先生だから」

先生が一番危ない気がするんだけど。

レグリスが軽く頭を下げるような動作をして、光の転送陣へ向かう。

「帰投する。3日後、再訪予定」

「……ああ。またな」

光が収束して、騎士の姿が消えた。
広場の空気が少しだけ軽くなる。

頼もしい。
でも、教育内容が怖い。

僕は息を吐いて、時計を見た。

(……よし。信太山の準備だ)

軽く腹に入れて、駅へ向かう――その途中で、ふと我に返った。

(……待て)

黒猫の仮面。
あれは確かに便利だ。
認識阻害も、音声変調も、視覚補助も……

でも――駅で、あの仮面を着けたまま待ち合わせ?

(無理だろ……)

視線的に死ぬ。
社会的にも死ぬ。
通報リスクもある。

黒猫の仮面は、車内でセット。
外では“それっぽい”もので誤魔化す。
そうしよう。そうすべきだ。

途中の乗り換え――三国ヶ丘。
駅前の小さな店。蛍光灯が白くて、棚のサングラスがやけに光って見えた。

大きめのサングラスを選ぶ。
派手すぎない。
けれど目元が隠れる。
「不自然じゃないギリギリ」を探すあたり、僕は本当に社会人だと思う。

会計を済ませると、僕はその場でサングラスをかけた。
鏡越しに確認して、深呼吸をひとつ。
――よし、“それっぽい”。

そのままホームへ行き、電車に揺られて信太山へ。
降りると、人通りは少なくて、駅前も静かだった。
――だからこそ、余計な視線が少ないのは助かった。

待ち合わせ場所へ歩き出したところで、エンジン音が滑り込んでくる。
低くて太い、土の匂いがする音。

振り向くと、ジープが来ていた。

(……ジープだ)

自衛隊の車両が、当たり前みたいに駅前に停まる。
正直、少し上がる。
乗れるんだ、これ。

運転席から降りてきた隊員が、駅前を一度見回してから、僕に向かって軽く手を上げた。
柊さんに共有してもらっていた今日の服装。
それに合致した、という顔だ。

「こんにちは。柊さんから伺ってる方で、お間違いないですか?駐屯地までお送りします」

「……はい。お願いします」

僕はサングラスをかけ、マスクも付けたまま、さらに薄く認識阻害を重ねている。
目立たない程度に――“印象が変わる”くらいのやつ。

隊員が一瞬だけ僕の顔を見て、それでも普通に頷いた。

「念の為、お名前、伺ってもいいですか?」

ここで本名は出さない。
柊さんには事前に伝えてある。
素性を隠す時の名前は「シュナ」。

昔、ゲームでよく使っていたハンドルのひとつ。
口に出すと少し照れるのが、逆にちょうどいい。

「……シュナです」

「シュナさん。承知しました」

ジープに乗り込む。
シートが硬くて、妙に安心する。
道具の乗り物だ。

走り出して数分。
僕は視線を落として、財布の中からカードを出した。

黒猫の起動符――マスク・カード。

(よし。車内でセット)

顔の前にかざし、静かに展開する。

「——セット」

黒い魔力が呼吸に同期して、カードが一瞬で仮面の形を得る。
音が変わる。息の抜け方が変わる。気配がひとつ“ずれる”。

隊員は前を見たまま、何も言わない。
認識阻害は、こういう時にありがたい。

(……恥ずかしさを隠すのにも便利だな)

信太山駐屯地。
門を抜け、敷地の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。

「着きました。こちらで――」

隊員がドアを開けて降りた、その瞬間。
僕の横顔に視線が滑って、ほんの一拍だけ動きが止まった。

「……あ、……今、仮面を……」

声は低い。驚いてるのに、騒がない。
“見た”というより、“今、認識した”みたいな言い方だった。

「ええ。車内の方で」

「なるほど……」

隊員はそれ以上追及せず、咳払いひとつで視線を前に戻した。
プロだ、助かる。

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