晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略── やり直しじゃない。ここからが、僕の本番だ

七乃白 志優

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第七章:守られる檻、ほどける決断

094話『同じ方向』

火曜日。

在宅に切り替えた朝。
窓の外は静かで、ここは普段と変わらない。
それでも、チャットの返信が遅い。
会議が減っている。――連休の気配だけが、仕事の端に滲んでいた。

スケジュールを確認する。
連休明け、4月の研修を終えた新卒が3名――配属。

研修を終えた3人が、いきなり戦力になるわけじゃない。
むしろ最初は、“戦力が増える”じゃなくて、“仕事量が増える”。

だから朝のうちに、摩擦を先に潰す。
アカウントと権限、リポジトリ、チケット、連絡導線。
初日に詰まりそうな箇所を全部、手順に落としておく。
それと、最初の一週間だけは「何をどこまでやるか」を一枚にして渡す。
迷わせないためじゃない。迷ったときに戻る場所を作るためだ。

厄介なのは、AIが当たり前になったことだった。
使い方は教える。速くなるし、品質も上がる。――ただし、ルールごと教えないと危ない。

「この情報は入れていい。ダメ」
「引用はどこまでOK」
「社外に出せる文章と、社内だけの文章」

そして何より、自力をつけさせるのが難しくなった。
聞かれて「AIがそう言ってました」で終わるのが一番まずい。
“答え”じゃなく、“根拠”を持って返す。
自分の言葉で説明できる。
そこまでを仕事として教えなきゃいけない。

午前の仕事を一区切りつけたあたりで、共有の感覚がちらついた。

張っていた糸が、ふっと切れる。
また張る。切れる。張る。

(……あ、また往復してる)

コユキだ。94階と行ったり来たりしている。
そのたびに、僕の中の“共有”が微妙に切り替わるのが分かる。

『今日、外に出る予定ある?』

念話が飛んできた。
声の調子が、もう答え待ちというより“予定の確認”。

『ないよ。午後はいつも通り半休で、94階で訓練するくらい』

『よし。じゃあレグリスの教育、進めとくね』

即決だった。

『……そんなに張り切るんだ』

『時間がある時にやらないと、育たない』

言い切るのがコユキらしい。
僕はカレンダーを見ながら、午前の残りタスクを確認した。

午後。

94階の空気は、相変わらず“現実”と違う。
温度も匂いも、広さの感覚も。
ここに来ると、脳が勝手に切り替わる。

僕はスーラと一緒に訓練を、淡々と回した。

コユキはレグリスの隣にいて、言葉を投げていた。
あれは教育というより――“癖を作っている”に近い。

「こう。違う。もう一回」

そんな短い指示が、容赦なく続く。

レグリスは、機械みたいに従う。

返事は、前より音が、ほんの少しだけ人に寄ってきていた。

「了解しました。指示を反映します」

「同様のミスは回避します」

「次の反復に移行します」

(ほんとに……)

僕の方は、僕の方で。
スキルの運用を詰め、余計な動きを削り、効率だけを残していく。

そして――身体の内側で、何かが“ひとつ上がった”感覚が走った。
念のため、ステータスウィンドウを開く。

――レベル60。

僕は息を整えて、汗の引き方を確認してから、コユキの方を見た。
声は届かない距離じゃないのに、訓練の音に紛れて――言葉が、ところどころ欠けて耳に入ってくる。

「……作れる?」

「……を……したら……用意可能」

(……何を作らせてるんだ)

昨日の時点で、92階の魔力炉のチャージは終わっている。
戻るだけなら戻れた。でも、延長している。

コユキのことだ。
レグリスに関しては、合理のつもりで、余計な寄り道もする。
――頼むから、変なものじゃありませんように。

夕方。

レグリスが92階へ戻る、と告げた。

「本日、92階へ帰還します。次回のチャージ完了予定は、5日後です」

「……次、5日?いつも3日じゃなかった?」

コユキに投げると、一拍だけ黙った。
知らない沈黙じゃない。分かっていて、飲み込む沈黙だ。

「うん。今回は……理由がある」

含みじゃない。
コユキがこういう言い方をする時は、最近は決まってる。

(……また、驚かせたいんだな)

理由を言わないのは、隠したいからじゃない。
こちらの顔が変わる瞬間を、ちゃんと見たいからだ。

僕はそれを分かってるから、そこで止めた。
詮索じゃなくて、信頼で。

「了解。じゃあ、帰ろう。今日はここまで」

コユキは、得意げに小さく頷いた。

夜。

いつもの家。
いつもの明かり。
いつもの風呂。
ディアが作る夕食。
コユキはそこにいる。

そして――テーブルの端、器の陰に、スーラがちょこんと“いる”。

週末の事件が、嘘だったみたいに。
ただの日常が、何事もなかったように戻ってくる。

充実している。

食後、ふと考えた。

(今が楽しい理由って、何だろう)

ゲートが現れてから、確かに“攻略”がある。
初めて触る良作ゲームみたいに、知らないものを覚えて、伸びて、積み上げていく感覚がある。

でも、たぶんそれだけじゃない。

コユキと、ディア。
この二人の存在が、想像以上に大きい。

僕は離婚を経験している。
“誰かがいる=充実する”なんて単純じゃないことは知っている。
彼女がいても、妻がいても、心が乾く日はある。
隣に人がいるのに、孤独が増えることだってある。

じゃあ、今は何が違う。

――同じ方向を向いている。
――同じ目的がある。
――信用と信頼が、積み上がっている。
――一緒にいて疲れない。

それだけだった。

MMOのゲームをやっていた頃も、仲間と過ごす時間は確かに楽しかった。
夜にログインして、ダンジョンを回って、笑って、勝って。
でもゲームを辞めると、目的が消える。
同じ方向が消える。
すると、関係の“芯”も薄くなる。

僕の場合は、そうだった。

それでも――同じ道を、並走できる相手が現れた。
それが、日々の充実に繋がっている。

ゴールが同じで、同じ速度で、同じ景色を見ながら歩ける――そんな相手なんて、そう簡単に見つからない。

一昔前は、途中で道が分かれても、簡単に離婚はできなかった。
世間体とか、お金とか、生活とか。理由はいくらでも並んで、どちらかが自分の道を折って、相手の道に乗る。
「我慢できる方が我慢する」なんて、綺麗な言い換えをしながら。

でも今は、共働きが当たり前で、世間体も昔ほど絶対じゃない。
お金の心配だけで縛られる時代でもない。
三組に一組、なんて言われる時代だし、たぶん――そういう“無理の積み重ね”が、もう続かない証拠なんだろう。

だからこそ――同じ目的地に向かって並走できる相手は、貴重だ。
人じゃない。モンスターだ。

それでも――僕の横に、今、同じ方向を向いて歩ける仲間がいて楽しめている。

「……らしくないこと、考えてる?」

コユキが、覗き込むみたいに言った。
図星の刺し方が雑で、ちょうどいい。

「少しだけ」

「へぇ」

ディアが、静かに笑う気配を落とした。

「あなたが“少しだけ”と言うときは、だいたい深いわ」

「……放っておいて」

「放っておくわ。――でも、戻ってきなさい。……ほら、目の前に私たちがいるでしょう」

その言葉で、現実が戻る。
ありがたい。
こういう“戻し方”ができる相手がいるのも、今の強さだ。

寝支度をし布団に沈むと、スーラが枕元にひんやりと寄ってくる。
小さく震えるみたいに、ぷるん、と一度だけ形が揺れた。

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