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戻るべき場所 11
しおりを挟む第十一話
九月になった。由美子の退院祝いが行われた日の翌日から、僕はずっと部屋に引きこもったままだった。
想像さえしなかった由美子の別れの宣言と、これまでに見せたことない彼女の冷徹な表情や態度がいつまでも僕のこころから消えず、あの夜の恐ろしい記憶が一日に何十回も唸りを上げる波のように襲ってきた。
部屋から出ることもできず、会社には連絡もせず無断欠勤を続けていた。
ひと言、しばらく休みたい旨を伝えることさえ気が重く、数日が経つと、もう仕事や会社なんてどうでもいい気持ちに変わった。
携帯電話に職場の同僚や上司から何十回も電話がかかってきたが、ただの一度さえも出なかった。
留守番電話には心配している内容のメッセージが何度も残っていたがすぐに消去した。
数回、昼夜を異にして誰かが訪ねて来たが、ベッドで布団に包まったまま一センチさえも動く気はなかった。
ドンドンとドアを叩く音と、何かを呼びかける声は数分すると終わり、人が立ち去る足音が聞こえ、それはしばらくの間、断続的に繰り返された。
ここまで会社が僕のことを心配してくれることが意外だったが、彼らは心配しているのではなく、無断欠勤者の対処に頭を痛めているだけなのだろうと僕は悪意に解釈した。
僕は誰とも話をしたくなかった。
近所の猫や犬などとさえも接触を持ちたくなかった。
由美子からも何度か着信があったが、一度も出なかった。
留守番メッセージにも由美子のものがいくつか残っていたが、声を聴くのが怖かったし、再生することもなく放置していた。
アパートから出るのは、近所のコンビニで食料を買い込む十数分間だけだった。
半年近くは働かなくても食っていける金は貯めていた。
そして、その金が尽きたときは終わってもいいと思っていた。
一日中、ベッドで本を読んだ。
書棚に並んだこれまで読んだ本をもう一度読み返して日々が終了していったが、翌日には前日読んだ本の内容はすっかり忘れてしまっていた。
記憶能力さえも、あの恐ろしい夜以降は停止してしまったかのようだった。
テレビは画面に映る人たちとのつながりが存在するような気持ちになるから、スイッチを点けることは一度もなく、リモコンはベッドの下に放り込んだ。
僕は自分以外との一切の関係を絶った。
話しかけるのも自分自身に対してだったし、それに自分が答えていた。
いつの間にか無意識に独り言を呟くようになっていた。
僕は大学生のころから何かがうまくいかなくなると、何もする気がなくなるこころの脆弱さがあった。
社会人になってからもその弱さは変わっておらず、一途に愛した女性から突然の別れを宣告されたことで、僕のこころは崩れ落ちる寸前になっていた。
いや、すでに崩壊し、瓦礫の山の中で息も絶え絶えの状態に陥っていたのかも知れない。
秋の彼岸を過ぎたころに会社から封書が届いた。
開封してみると休職願いの申請用紙と直属上司からの手紙が入っていた。
八月分の給与はこれまでと変わりなく銀行に振り込まれていた。
「体調が優れないのなら休職願いに記入して、診断書を添付して送り返して欲しい。しばらくは問題ないから、気兼ねせずに身体をゆっくり治すように。皆が心配しているから一度連絡して欲しい」
上司の手紙には優しい文字がたくさん浮かんで見えた。
突然僕を叩き切った由美子の冷酷さに相反する会社の親切さについて様々考えてみたが、いくら考えても僕には理解できなかった。
でも僕はそれらの親切をも無視した。もう何もかもがどうでもよくなっていた。
バスルームで自分の顔を鏡で見たとき、伸び続けた無精ひげで自分の顔つきがすっかり変わってしまっているのを見て愕然とした。
どうやら、インスタント食品ばかり食べ続けたことで肌がカサカサに荒れてしまったようだ。
「このままでは廃人になってしまうだろうな」
自分を嘲笑してみたところで、だからといって何か行動を起こす気にはならず、昼間でも窓のカーテンを閉めて、蛍光灯の下で本を読みラーメンをすすり、ときには自分の不甲斐なさを責めて涙を流す日々が繰り返されていった。
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