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髪結
しおりを挟む僕が最近引っ越してきた部屋は、日当たりが悪いのでとても暗い。
夜勤生活の僕は朝、陽が昇ってからこの部屋に帰ってくる。
日差しが入ると熟睡出来ないから北向きの部屋の方が良いという不動産会社の口車に乗せられて、この部屋を選んだ。
そしてすでに後悔している。
家に帰ってくるのは朝だというのに、この部屋はひどく暗い。
確かに眠るには暗くて良いのだけれど、この部屋は不気味なほどに暗いのだ。
日が入らないというレベルじゃない。空間に色がない。
ポッカリとこの部屋だけが世界から取り残されているみたいだ。
暗いのは北向きだからという理由だけではないことに、僕はすぐに気がついた。
古い木造の二階建て。
昭和のにおいを色濃く残すこのアパートは、夏は熱くて冬は寒い。
そんなことは容易に想像がつく。
夜勤生活の良いところは、家にはほとんど寝に帰るだけ、と割り切って生きられることだ。
生きているのは夜仕事をしている時だけで、家に帰ったら死んだようにスイッチをオフにする。
仕事帰りに飲みに行く店なんてないし、平日休みが多いから友人とはスケジュールが合わない。
そんな風に言い訳をして、生きられる。
実際は夜勤明けでも空いている店はあるし、僕には一人も友人と呼べる人間がいない。
僕は僕に言い訳をするために、夜勤を選んだのかもしれなかった。
一人でいるのは孤独だからじゃない、他人とは時間が合わない生活をしているから。
そう思い込みたいだけなのだ。
休日は、一日がとても長く感じる。
色がないこのアパートで、一人過ごさなければならない時間が長い。
仕事をしている方がよっぽどマシだった。
夜23時を回った頃のことだ。
風呂から上がり脱衣所で髪を拭いていると、
カタン、と部屋の隅で音がした。
ーーー鏡台だ。
ほとんど直感のように僕はそう理解していた。
この部屋の隅には、古びた鏡台が置いてある。
不動産屋でそう聞いたときには、全然なんとも思わなかった。
部屋に鏡があったら便利ですよ、と言われ確かにそうだと思ったくらいだ。
男の一人暮らし。鏡なんて一度も購入したことがない。
買うのも億劫だったので、部屋にあるならいいかもな、そんな風に軽く流したことを後悔した。
その鏡台は、深い茶色をしていて所々筆で絵の具を飛ばしたような黒いシミがこびりついている。
三面鏡で、閉じておけるのが唯一の救いだった。パタンと閉じておけば鏡面は見えない。閉じた扉部分は大きな傷がたくさんあり木肌がむき出しになったような薄い色をしていた。
いつからこの部屋にあるのだろうと恐ろしくなるほどに、歴史を感じさせる代物だ。
部屋を離れている時、ふとこの鏡台のことを思う。
僕が居ない部屋で、この鏡台はどうしているだろうかと。
そんな風に想像してしまうのだ。
客が誰もいなくなった閉園後の遊園地や、生徒たちが帰宅して静まりかえった夜の学校を思い浮かべるように。
脱衣所から覗き込んで鏡台を見ても、何も変わりはない。
あるはずがない。
夜は、起きて仕事をしている時間帯だ。
休みの日にリズムを崩してしまうと、仕事の最中に眠気がひどくなって大変な思いをする。
仕事中に仮眠をとる時間が近づき、部屋にずっと敷かれたままになっている煎餅布団に僕は身を横たえた。
どれくらい時間が過ぎただろうか。
一瞬のようでも、長く眠りすぎたような感覚でもあった。
視界の左上に人の気配を感じて息を飲む。
横向きで眠る僕の頭上、斜め1mほどの距離に鏡台がある。
何かが一定のリズムで動いているのが視界の隅に映り込んだ。
全身が冷たい空気に包まれる。
ゾワゾワと肌の上を、大量の毛虫が這うように気味の悪い感覚。
身体が動かない。
視線だけを動かすと、着物姿の女性が髪を櫛で整えているのが見えた。
髪を結うその後ろ姿は、妙に色っぽい。
鏡面は閉じているので、顔が見えない。
綺麗な後ろ姿が、こちらにゆっくりと振り返った。
色気のある後ろ姿からは想像も出来ない、憎悪の表情。
彼女の髪は、頭から削げ落ち、
皮膚はただれ、顔の半分が首元まで崩れ落ちていた。
憎悪。
僕はそのまま気を失った。
夢だったのか、現実だったのかはわからない。
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