わけあって極道の妻になりました

ととりとわ

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1巻

1-1







 たった今自分の身に起きている災難を予知できたとしたら、絶対にこの道を通らなかっただろう。
 穏やかな小春日和びよりの、昼下がりの路地裏。ここは、都心から少し離れた駅の近くにある料亭の前だ。
 表通りの喧騒けんそうも届かない、おもむきに満ちた古い家々がのきを連ねる閑静かんせいな通り。本来ならば、自分は今頃その先にあるカフェで、まったりとした至福の時を過ごしていたはずだ。それなのに、カフェに向かう途中でなぜか強面こわもての男にいきなり手を掴まれ……
 萬木ゆるぎいちかは、じんじんと痛みを発している手首に、震えながら目をやった。
 ありきたりなベージュのコートの袖口から突き出た手首は、浅黒く肉厚な男の手に握られている。明らかにその筋の者とわかる、小指の欠けた手に。

「いましたぜ、兄貴!」

 その男は通りに面したがきの中に向かって声を張り、いちかの腕を強く引っ張った。
 通りにひしめく男たちが一斉に道をける。我に返ったいちかは、身体を斜めに引きずられつつも助けを求めようとするが、どこを見ても、凶悪な顔つきをした男しかいない。

「は、放してください……!」

 黒のパンプスをいた足を地面に踏ん張って、男の手を振りほどこうとする。男がいらいらした様子でいちかを振り返った。

(ひいぃっ……!)

 その顔の恐ろしさに一瞬で全身が凍りつく。
 顔面凶器――そう言い表すにふさわしい男の顔は眉がほとんどなく、ひたいと眉間に深くしわが寄せられていた。チッ、と舌打ちした口の中、前歯があるべきところにはいくつかぽっかりと穴が。

「おいこら、大声出すなや。サツ呼ばれたら面倒じゃろうが」
「わわわわわかりましたぁっ」

 飛び出したのは頓狂とんきょうな声。恐怖のあまり脚はがくがく震え、心臓が今にも張り裂けそう。男に手を引かれ、敷居に突っかかりそうになりながら料亭の数寄屋門すきやもんくぐる。

「今日は兄貴の祝言しゅうげんなんじゃがのう、新婦がビビって直前に逃げよったんじゃ。客がようけ集まっとるけん、そのまま帰らせるわけにゃぁいかんからの」
「しゅ、祝言しゅうげん⁉」
(どうして私をそんな場に⁉)
「あ、あの、その新婦さんとは連絡がつかないんですか?」
「それができんからアンタに代わりになってもらおうと声掛けたんじゃろ。元の新婦は組の若いモンがその辺から無理やり引っ張ってきた女じゃけえ、ケータイ番号もわからんしな」

 敷き詰められた砂利じゃりの上を進む男の背中を凝視ぎょうししつつ、ごくりと唾をのむ。
 こんな恐ろしい男たちに囲まれたら、誰だって逃げ出すだろう。いちかだって悲鳴のひとつも上げたかったが、喉に綿でも詰まったように声が出ない。抵抗もむなしく、料亭のだだっ広い玄関に足を踏み入れたのだった。


 カポーン。
 庭の鹿威ししおどしが、場違いなまでに優雅な音を響かせている。
 若い畳の匂いに満ちた部屋で、いちかは身じろぎもせずに座っていた。
 二十帖はありそうな和室の両側にずらりと居並ぶのは、紋付はかま姿の男たち。彼らは部屋の真ん中に敷かれた赤い絨毯じゅうたんを挟み、向かい合って胡坐あぐらをかいている。
 角刈り、スキンヘッド、きれいに整えた口ひげ、眉間に刻まれた深いしわ。それぞれ違いはあれど、いずれもひと目で一般の人ではないとわかる風貌だ。
 いちかにとっては、部屋の中がざわついていることと、何より、頭に綿帽子を被っていることが救いだった。これのお陰でいい感じに視界がさえぎられ現実逃避ができる。
 繊細な鶴の刺繍ししゅうほどこされた白無垢しろむくは、思わずうっとりと見入ってしまう美しさだった。
 ただ、それを着ているのが自分自身、というのが信じられないだけで――
 萬木いちかは小学校の教員をしている。二十七歳で独身。男女の出会いは少なく、彼氏はいない。いた経験すらない。現役で小学校の校長をしている父と、元教員である母のもとに生まれ、大学卒業以来、真摯しんしな思いで教育に心血を注いできた。
 身長体重ともに平均ならば、顔も平均だと思う。ややコンプレックスに感じているのは、垂れ目と童顔。唯一自分の顔で好きな部分は、笑うと頬に浮かぶえくぼだろうか。
 肩下まである黒髪を染めたこともなければ、パーマを掛けたこともない。後ろでひとつに縛るという中学生の頃から変わらぬヘアスタイルのせいもあってか、友人には『真面目すぎる』と言われる。
 小中学校と、あだ名は『委員長』だった。確かに生真面目だし、お節介で何にでも首を突っ込むところがある。それに両親に厳しく育てられたお陰で、不正を働いたり、約束をたがえたりする自分が許せないのだ。
 そんないちかが、ヤクザのような世間の道理の外にいる人たちと関わることなど、一生ないはずだった。それが、あろうことか見も知らぬどこかの組長と、身代わりで結婚させられるなんて……
 そもそも、どうしてこんなことになったのか。不安と恐怖に押し潰されそうななか、ここに至る経緯を思い返してみる。


 今日は土曜日で学校は休みだった。一週間頑張って働いたので、来週のために英気を養おうと、ひとりで暮らしているアパートの部屋でのんびり過ごしていたところ――
 用務員から緊急の電話が入ったのは、昼を少し回った頃だった。いちかが担任をしている一年生のクラスの児童が、朝遊びに出たきり戻らないと、保護者である父親から連絡があったのだ。
 急いでアパートを飛び出して電車に乗り、駅に着くなり学校まで走った。
 休日開放で校門の鍵は開いていた。近くの公園を探してみようと、職員室から自転車の鍵を取って駐輪場へ着いた時、校庭の隅に見慣れた小さな影を見つけたのだ。
 小柄な少年は、ひとり黙々と穴を掘っていた。聞くと、お宝発掘のテレビ番組を見て、校庭にも何かすごいものが埋まっているのでは、と考えたらしい。そういえば、『この小学校は今年で創立一二〇周年だよ』と、いちかは昨日の帰りの会で話した。学校の校庭にも何かお宝が埋まっているのでは、と少年が期待したのも無理はない。
 その後いちかは、校庭に穴を掘ってはいけない理由と、教室で何度も教えてきた外で遊ぶときのルール――行き先と帰る時間を家族に伝える、できるだけひとりでは遊ばない、などをもう一度話して聞かせ、彼を自宅まで送り届けたのだった。
 帰りの電車に揺られつつ、いちかは安らぎと充実感を覚えていた。休日出勤したとはいえ、児童の安全は無事守られ、意味のある指導ができたのだ。平穏な日常が戻ってきたなら、それでいい。
 そう、そこまではよかったのだ。


 いちかは深くうなだれて、自分が今置かれている境遇を呪った。
 この料亭の前さえ通らなければ、こんな目にはわなかったはずだ。まっすぐに家へ帰ればいいものを、なぜ今日に限って、お気に入りのカフェの存在を思い出してしまったのか……

(もう、もう、私のバカーー!)

 心の中で自分の頭をポカスカたたいて、すぐに、いや、と思い直す。
 むしろ、休日出勤をした今日だからこそ、自分をいやしたかったのだ。
 黄金色をした蜜のかかったふかふかのパンケーキ。バリスタが厳選したという深煎ふかいりコーヒー豆をサイフォンで丁寧に抽出ちゅうしゅつした豊かな香り……
 あの芳醇ほうじゅんな香りもビジュアルも魅力的すぎた。早くありつきたいあまりに、物々しい黒服の集団の中を突っ切ろうと考えてしまうほど。その途端、まさか男に手を掴まれるなんて思いもせず――
 その時、ふいに廊下が慌ただしくなり、いちかはハッとした。
 ついに新郎がやってきたのだろうか。ざわついていた室内から音が消え、静寂が広がる。
 とん、とん、と廊下の板張りを踏みしめる音。目の前に居並ぶ男たちよりも、さらに恐ろしいビジュアルの花婿姿が脳裏に浮かび、身を硬くする。
 入り口の引き戸が勢いよく開いて、びくっ! といちかは飛び跳ねた。

「大変お待たせいたしました」

 朗々ろうろうと響いた男の声に、胸が割れんばかりに鼓動が激しくなる。想像していたよりも若い声だ。恐るおそる顔を上げて、綿帽子の向こうにその姿をとらえる。
 光沢のある紋付に身を包んだ男が、身をかがめて鴨居かもいくぐってくるところだった。部屋の入り口でスッと顔を上げた男の姿に、思わず目を見張る。
 ほかの人よりも頭ひとつ分は高いすらりとした背丈。細身だが肩幅が広く、首はがっしりと太い。
 歳は三十代前半くらいだろうか。三白眼ぎみの鋭い目つきに精悍せいかんな顔立ちで、豊かな黒髪をぴっちりと後ろへでつけている。
 姿勢よく背筋をピンと伸ばした立ち姿は、とてもヤクザのイメージとは結びつかない立派な好青年のそれだった。

(これが……ヤクザの組長?)

 悔しいけれど、和装の似合うきりりとした表情には、『イケメン』以外の言葉が見つからない。じっと見ていると目が合い、慌てて視線を外した。
 男がいちかの隣にやってきて、用意された座布団の上に正座する。一旦は静かになった会場が、またざわつき始めていた。

「おい」

 広げた扇子を口元に当てて、男が声を掛けてくる。

「は、はいっ……。なななんでしょう」

 慌てて返事をするが、声が馬鹿みたいに震えてしまう。男が鼻で笑いつつ、肩を寄せてきた。

「突然のことで悪かったな。手荒な真似はされなかったか?」
「はい……特には」

 いちかは白打掛の袖口を強く握りしめた。男がじっとこちらを見つめているのが綿帽子越しにもわかって、恐怖やら、変にどぎまぎするやらで生きた心地がしない。すると、男が一層距離を縮めてきたので鋭く息をのむ。

「震えてるようだが……大丈夫か?」

 低い声が布越しに響く。もし綿帽子を被っていなかったら、男の唇が耳に触れそうだ。

「だっ、大丈夫ですっ!」

 自分でも思いもよらない大きな声が出てしまった。どやされるのでは、と勢いよく男を振り向いて、威圧感に満ちた目に思わず釘付けになる。
 いちかが男としっかりと目を合わせたのは、これがはじめてだ。
 力強い三白眼の眼差しが、揺らぎもせずにこちらを覗き込んでいた。澄んだ白目に、黒々とした瞳。真一文字に引き結ばれた唇は薄く、わずかに口角が上がっている。
 最初に思った通り、骨格のがっしりとした凛々りりしい顔立ちだ。きらきらした瞳に吸い込まれそうになり、目をしばたたく。
 男はいちかの目をまっすぐに見て、真面目な表情になった。

「言っておくが、お前に危害を加えるつもりはない。所帯を持つことを条件に親父から新しいシマをもらえる話になってるんだ。式が終わったら解放してやるから安心しろ」

 落ち着いた口ぶりのためか、不思議とその言葉にいつわりはない気がする。
 おずおずと頷くと、男はすっと目を細め、一瞬優しそうな笑みを浮かべた。しかし扇子を下ろすと同時に冷たい眼差しで前を見据える。

「それでは皆様、ご静粛せいしゅくに願います。これより、九条くじょう組組長九条龍臣たつおみ、婚礼の儀をり行います。本日の司会進行を務めさせていただきます、新藤しんどう若頭わかがしら嶋浩一郎しまこういちろうでございます」

 礼服を着た男の一礼に合わせて拍手が起こった。
 新郎の男――九条龍臣というらしい――は座布団から下りると、正座した状態で少しかかとを上げ、三つ指をつく。

「本日は蒼龍会そうりゅうかい本部、並びに系列各組の諸兄方におかれましては、お忙しいなかご参列いただきまして誠にありがとうございます。所用のため、到着が遅くなりましたこと、ひらにおび申し上げ――」

 その時、料亭の外の通りから轟音ごうおんが響いて、いちかは小さく悲鳴を上げた。次いで、ガタン、バタンと何かがぶつかる音。最初に聞こえたのは車が事故を起こしたとおぼしき音だったが、そのあとのは、料亭の外側にぐるりと巡らされた板塀いたべいに、重いものがぶち当たるような音だ。

(な、何……!?)

 無意識のうちに、隣に座る龍臣のほうへにじり寄る。
 不穏な状況に固唾かたずをのんでいるのはいちかだけではない。会場は一気に色めき立ち、ついさっきまで静かに座っていた紋付袴の男たちが、片膝を立ておのおの顔を見合わせている。
 龍臣の大きな身体がいちかの前に立ちはだかり、影を作った。

「下がってろよ。おそらく出入でいりだ」
「……でいり?」
出入でいりってのは、敵対する組のところに襲撃をかけるってことだ。ここんとこ、仕事がらみでトラブった相手にアヤつけられてるんでな。しかし――」

 白目がちな龍臣の目がぎらりと輝き、口角がにんまりと上がる。

「この俺の盃事さかずきごとけがすとはふてぇ野郎だ……」
(ちょ――)

 その笑顔があまりにも残忍そうだったので、息を吸い込み両手で口を押さえる。
 さっき一瞬でもこの男を優しいかもしれないと思ったことを、いちかは後悔した。所詮しょせんヤクザはヤクザ。市井しせいに生きる一般人とは違うのだ。
 いちかにとって、今はこの状況を生き伸びるのが何よりも大事なことだった。ここで泣き叫びでもしたら、一体何をされるかわからない。
 料亭の玄関がにわかに騒がしくなった。それを号令にしたかのように、礼装の客たちが一斉に部屋を飛び出していく。大勢の人間が靴のまま廊下を走る音、ドスのいた怒号が入り乱れ、風雅な料亭は一転して戦場になった。

「オラァ、九条はいるかー!」

 派手なシャツを着た太った男が、障子を踏み倒して部屋の中に入ってくる。いちかは震え上がった。男が肩にかついでいるのは鉄パイプだろうか。

「いるよ。あいにく取り込み中だがな」

 相変わらずいちかを隠すようにして立ちはだかっている龍臣が、しれっとして言う。
 太った男は何かをわめき散らしながら、龍臣に襲いかかってきた。

「きゃあ!」

 いちかは跳びしさろうとして派手に転んだ。長い時間正座を続けていたせいで足が強烈にしびれている。よりによって、こんな時に。
 龍臣は三々九度さんさんくどのために置かれていた塗り盆を取り上げて応戦した。男の攻撃を受けた瞬間に真っ二つに割れた塗り盆を投げ捨て、同時に男の手首を掴み背中側にひねり上げる。太った男は鉄パイプを取り落とし、丸々とした顔を真っ赤に染めてうめいた。

「おい、何してんだ、早く逃げろ!」

 龍臣がいちかに向かって叫ぶ。

「そ、それが、足がしびれて」

 と、言いながら立ち上がろうとして、またその場にくずおれる。まるで膝から下が棒切れか何かにすり替えられたみたいだ。

「はあ? どうにかして逃げろよ。怪我けがするぞ」
「そんなこと言われても――」

 そこへどかどかと靴音が響き、障子のなくなった入り口に別の男たちが現れた。

「いたぞ! 九条を狙え!」

 それぞれ武器を手にした男たちが踏み込んでくる。龍臣は太った男の腹を蹴り飛ばし、さっき男が落とした鉄パイプを拾った。
 なかばパニックになったいちかは、男たちが入ってきたのとは反対側の廊下へうように向かった。今や脚だけでなく、腰からも力が抜けそうだ。
 やっとのことで廊下に出ると、そのまま奥へと向かう。なんとか端の部屋にたどりつき、障子を開けて中に飛び込む。ぴしゃりと障子を閉め、震える息を吐き出した。
 部屋の中には誰もいない。ここはいちかが最初に連れてこられた、控えの間として使われているらしき狭い部屋だ。料亭に引きずり込まれたあと、ここで『あねさん』と呼ばれていた中年の女性に着付けをされたのだった。
 部屋の隅に置かれたスチール製のハンガーラックに目をやって、ホッと息をつく。よかった。ここに来るときに着ていたスーツと鞄がちゃんとある。
 ようやく脚の感覚が戻ってきたので、ふらつきながらも立ち上がってみた。大丈夫そうだ。急いでハンガーラックへ向かい、花嫁衣裳一式を脱ぎにかかる。
 しかしこれがどうにも厄介やっかいだった。白無垢しろむくなんてはじめて着たし、そもそも浴衣ゆかた以外の和服は成人式以来だ。綿帽子とかつら、白打掛、帯締め、帯、帯揚げ、長襦袢ながじゅばん肌襦袢はだじゅばん……辛うじて名前だけ知っているパーツをひとつひとついていく。手が震えて思うように動かない。だいぶ時間を掛けてすべてを脱ぎ、シャツをハンガーから外した時――
 スパーン! と音がして、部屋の障子が勢いよく開いた。鋭く息をのみ、キャミソールの胸元にシャツを押しつける。

「おう、アンタが九条の女か」

 ガタイのいい角刈りの男が部屋に踏み込んできた。ギョロッとした大きな目に、過去に骨折でもしたのか、不自然に曲がった鼻。その顔がなんとも恐ろしくて、思わず後ずさりする。

「ひ、人違いです。私は、こっ、この料亭の従業員で――ひっ!」

 ずかずかと近づいてきた男の手に小刀が握られているのを見て、いちかは凍りついた。
 男が古傷の残る唇を奇妙な形にゆがめる。値踏みするかのごとくいちかの全身を眺め、そして、誰かの血で汚れた小刀をこれ見よがしにちらつかせた。

「おねえさん、下手な嘘でごまかしてもいいことねえよ?」
「や……やめてください」

 男の喉からぜいぜいという笑い声が響く。

「俺も手荒な真似はしたくねえんだけどさ、アンタを組に連れて帰れば、九条にかすめ取られた金、戻ってきそうだと思ってよ」
(……は?)

 ヤクザの事務所に連れていかれるなんて、洒落しゃれにもならない。いちかは勇気を振り絞って男の目をまっすぐに見る。

「わ、私はあの人と関係ありません」
「……ああ?」

 男の表情が急に変わった。
 後ずさりを続けるいちかの肩に、ざらりとした砂壁が触れる。左は壁、右側にはハンガーラックがあり、壁際にできたくぼみに身体がすっぽりとはまった状態だ。逃げ場はない。男はなおも距離を縮めてきて、あごがいちかのひたいに触れそうなところまで近づいた。

「とぼけんじゃねえぞ、コラァ!」
「きゃあっ!」

 ドスのいた恫喝どうかつに心臓が潰れそうになる。さらにき出しの二の腕を掴まれて、いちかはいよいよ恐慌状態におちいった。
 もうなりふり構ってなどいられない。
 胸元を隠していたシャツを放り投げ、出口へ向かって足を踏み出した。しかし相手は男だ。大柄で力も強く、がっしりと掴んだ腕を簡単には放してくれない。男の手を振りほどこうと、ひじをぶんぶん振り回す。

「放して!!」
「うるせえ、このアマ!」

 知性を持たない獣のような目を輝かせ、男が小刀を握ったこぶしを振り上げた。いちかは鋭い悲鳴とともにその場にうずくまり、目をつぶる。
 ――終わった。
 まさか自分の死が、こんなにも唐突に訪れるとは思いもよらなかった。しかもヤクザに襲われて命を落とすなんて。
 いち教師として、自分はそれなりにやってきたと思う。かわいい子供たちに、日々起こる小さなトラブル。それを乗り越えた先にある大きな喜び。
 心残りなのは、育ててくれた両親に別れの挨拶あいさつとお礼が言えなかったことだ。まぶたの裏に浮かぶふたりの姿に手を合わせる。

(お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください。神様、ついでと言ってはなんですが、もしも生まれ変われるとしたら、今度はアラブの石油王か、絶世の美女でお願いしま――)
「ギャアッ!」

 潰れたかえるのような声が響いて、いちかは心臓が止まるかと思うほどびっくりした。何が起きたのだろうと目を開けてみたところ、小刀を持った男の手が、その後ろにいる何者かによって高くひねり上げられている。
 気づけば握られていた腕が軽い。鼻の曲がった男は、うっけつした手を震わせて苦しそうにうめいていた。龍臣だ。男の後ろに、紋付袴姿の龍臣がいる。

「バカ野郎。女に手ぇ出してんじゃねえよ」

 彼は低い声で言うと、男の身体をくるりと回し、背中を後ろから蹴り飛ばした。あわれ男の身体は吹き飛んで、ふすまをぶち破り、隣の部屋にどさりと倒れ込む。

「九条さん……!」

 とっさに男の名前が口をついたことに、いちかはびっくりした。

「遅くなって悪かった。大丈夫か?」

 目の前におおいかぶさるようにして片膝をついた龍臣が、いちかの頬に手を当ててくる。あたたかくて大きな手だ。彼の親指が頬をそっとでた時、自分が涙を流していたとはじめて知った。

「あ、ありがとうございます」

 鼻をすすりつつ礼を述べ、龍臣の目を見る。
 白目がちではあるがよく見るとまつ毛が濃く、きれいな二重だ。その眼差しは優しく、わずかに弧を描き……そして、いちかの胸元にとっくりと見入っていた。

「……ちょっ!」

 慌てて両手で胸元を押さえる。すっかり忘れていたが、ブラの上にキャミソールしか着ていないのだ。

「残念。いい眺めだったんだがな」

 しれっと言って立ち上がる龍臣をいちかはにらみつけた。しかし、彼の後ろにのっそりとせまる影が見え、すぐに息をのむ。
 鼻の曲がった男はまだ伸びていなかったらしい。男は手に小刀を取り戻していて、だらだらと鼻血を垂らしながら龍臣を見据えている。

「九条さん、後ろ!」

 いちかが声を出すより早く、男が龍臣の背中めがけて突進した。
 龍臣が悠然ゆうぜんと振り返り、やや上体を倒して男の腹部に向け後ろ足を蹴り出す。しかし今度は敵も警戒していた。すんでのところで龍臣の蹴りをかわし、もう一度勢いをつけて腕を前に突き出す。

「おっと」

 すぐに体勢を立て直した龍臣が横にスライドして攻撃をよけ、男の腕を掴んだ。そのまま男を振り回し、思い切り背中から壁に叩きつける。
 派手な音を立てて建物が揺れた。男は後頭部を強打したのか斜めによろめきつつ、いちかのほうへやってくる。

「きゃあ!」

 男が刃物を握ったほうの手を振り上げた。
 刺される――そう思い身を硬くした瞬間。

「うぉらぁあああああ!」

 龍臣が雄叫おたけびを上げながらふたりのあいだにダイブしてくる。どすん、と目の前に彼の大きな身体が倒れ込み、衝撃で畳が揺れた。

「おい、大丈夫か?」

 龍臣が背中を向けたまま少しだけ首をこちらへ向ける。どういう状況かわからないが、とりあえず助かったようだ。

「え、ええ」

 取り急ぎ返事はしたものの、脚が彼の上半身の下敷きになっているため身動きがとれない。こちらを向いた彼の背中はぶるぶる震えている。

(お、重い……一体何がどうなったの?)

 いちかは戸惑ったが、すぐに龍臣の身体が向こう側へ回転して、脚がフッと軽くなった。急いで脚を引き抜いて、ふたりの様子に目をやる。
 仰向けになった男の上に、龍臣がおおいかぶさるような格好になっていた。刃物を握った男の手首を龍臣が掴み、渾身こんしんの力で押し戻そうとしているところだ。ふたりともすごい形相をしている。
 男の顔面にぽたぽたと赤いしずくしたたるのを見て、いちかは血の気が引くのを感じた。出血しているのは龍臣のほう。いちかと男とのあいだに割って入った時に腕を負傷したらしく、袖口に覗く太い前腕に、ひとすじの赤い川が流れている。
 まさか、身をていして守ってくれたのだろうか。
 死をまぬがれた安堵よりも、赤の他人に対してなぜそこまでするのか、という驚きのほうが大きい。
 自分がいなかったら龍臣は怪我なんてしなかっただろう。そう考えると申し訳ない気持ちになってしまう。
 ふたりの男たちはみくちゃになって、互いに上になったり下になったりしながら転げ回っている。ふたりとも血だらけだ。壁に叩きつけられた龍臣の手が、男の腕から離れた。すぐさま男が、刃物を持った手を龍臣の顔の近くで振り回す。
 いちかは両手で口をおおい、息をのんだ。が、次の瞬間、素早く身をかわした龍臣が男の手首を畳に押さえつけるのを見て、思わず安堵する。

(いやいや、なんで私がホッとするのよ……!)

 なんだか胸がもやもやする。龍臣は自分を守ってくれたけれど、ここを逃げおおせれば今後関わることは一切ない。肩入れする筋合だってないのだ。

「早く、逃げろ」

 龍臣がこちらを見ずにかすれた声で言う。

「でも」
「いいから行け」

 そう言われたいちかは、み合っているふたりを尻目に素早くスーツを着て、転がっている鞄を拾い上げた。
 もういつでも逃げられる状態だ。とはいえ、自分をかばって怪我をした龍臣をこのまま置いていっていいとは思えない。
 どうするべきかと部屋の入り口でおろおろしていると、下から蹴り上げられた龍臣が目の前に転がってきた。


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