わけあって極道の妻になりました

ととりとわ

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1巻

1-2


「きゃっ」

 仰向けに倒された龍臣に男がし掛かろうとする。いちかは咄嗟とっさに、持っていた鞄を男の顔面めがけて振り回した。嫌な音を立てて鞄が命中する。

「ナイス」

 そう言って龍臣はひるんだ男に飛び掛かり、馬乗りになって顔面を殴りつけた。何度も何度も。はじめから曲がっていた男の鼻がひしゃげるほど、さらに殴る。
 男の抵抗がぱたりとやんだ。それに気づいたらしい龍臣も攻撃をやめ、すぐ隣へ転がるようにして畳の上に座った。髪はぼさぼさに乱れ、汗でひたいに貼りついている。
 大きなため息をついた彼が、ぎろりとにらみつけてきた。

「……なんだ、まだいたのか」

 冷たい視線とその言い草に一瞬怖気おじけづく。しかし――

「あの……怪我してます」
「あ? ……ああ、そうだな。大した怪我じゃねえ」

 龍臣は事もなげに言って、血が付着しているのとは反対の袖で、手首とひじのあいだに走る傷を拭いた。けれども、ぬぐった傍から血はにじみ、ぽたぽたと白い袴の上に落ちては流れていく。
 鞄を下ろしたいちかは、ジャケットを脱ぎ、自分のシャツの左肩の縫い目のあたりを掴んだ。ありったけの力を込めて引っ張ると、嫌な音とともに袖が肩からちぎれる。

「おいおいおい」

 龍臣が目を丸くしているのがなんだかおかしくて、いちかは口の端を上げた。袖を長くふたつに折ると、彼の腕を取ってしゃがみ込む。

「あとで絶対に病院へ行ってくださいね」

 袖を強く引っ張りながら傷口に巻きつけ、先ほど解いた帯締めでその上をきつく縛った。どこかから聞こえていた怒声が、すぐ傍まで近づいている。

「私、もう行かなくちゃ」
「待て」

 いちかが立ち上がろうとすると、その手を掴まれた。龍臣が紋付の襟元えりもとに手を突っ込み、何かを取り出していちかの手のひらに押しつける。

「この廊下を戻って、最初に交わったところを右に曲がると裏口へ出る。表通りに出たらタクシーを拾え」

 広げた手の中には、銀色のマネークリップに挟まれた一万円札の束がある。
 いちかは目を丸くした。こんなものを受け取れるはずがない。龍臣に返そうと足を踏み出した瞬間、鋭く息をのむ。
 彼の手には、先ほどまで別の男の持ち物だった小刀が握られていた。龍臣の血を吸った切っ先は、彼が自分とは別の世界にむ男だと示すごとく、鈍く光っている。
 ふたたび冷酷な目つきに戻った龍臣が、小刀をこちらへ向けてあごで廊下を示す。

「さっさと行け。追っ手が来るだろうが」

 近くで怒号が響いて、いちかはハッとした。急いできびすを返して立ち止まる。
 助けてもらった礼を言うべきなのかもしれない。自分のせいで怪我をしたことを謝ってもいない。でも、巻き込まれなかったらこんな事態にはならなかった――
 しばらく迷ったが、結局何も言わずに廊下へ駆け出した。
 すぐ傍で男たちがやり合う音が聞こえる。
 いちかはもう振り返りもせず、休日の午後の悪夢に別れを告げた。


 翌週の土曜日。
 いちかは、都心近くにあるさびれた裏通りを歩いていた。
 立ち並ぶ雑居ビルは高さがまちまちで、いろいろな看板がかかげられている。不動産屋、消費者金融、スタジオ、事務所、あやしげな風俗店。古い建物の外壁は軒並のきなみタイルががれ落ち、壁面にはエアコンの室外機や配線が露出している。
 時折人が通りかかるが、その姿はスーツだったり、普通の主婦のようだったりと様々だ。
 いちかがこの通りを歩くのは、実は今日だけで三度目になる。この一週間の合計では、もう十回以上になるだろうか。
 あたりを見回して誰もいないのを確認すると、素早く自動販売機の陰に隠れた。ポケットの中であたたまった名刺を取り出して見る。

『東京三本木さんぼんぎ組 若頭わかがしら 鬼頭佐一きとうさいち

 名刺の右上には『代紋』と呼ばれる、ヤクザにとっての家紋にあたる模様が箔押はくおしされていた。
 東京三本木組とやらも、鬼頭佐一なんて人も当然知らないが、これが唯一の手掛かりだから、名刺の住所を頼りにここへやってきたのだ。


 あの日、いちかは龍臣にタクシー代を握らされて、命からがら料亭から逃げ出した。幸いにも追っ手が来ることはなく、表通りに出てすぐにタクシーも捕まり、なんとか事なきを得た。
 しかし、アパートの自室に戻って数時間後、ようやく落ち着いた頃に龍臣から渡されたお金を数えてみてびっくりした。
 一万円札はなんと十五枚もある。支払ったタクシー代を差し引いても、残りは十四万円以上だ。このダイヤのはまったプラチナ製のマネークリップにしても、相当高価なものだろう。
 返してほしいという意思が龍臣のほうにあるかどうかは別にして、いちかにはこれをふところにしまうことはできなかった。

『たとえどんな理由があっても、不正を働くのはいけない。常に胸を張って生きろ』

 両親にそう教えられて生きてきたのだ。
 このお金を返そうとすぐに決意したものの、彼の居場所などわかるはずがなかった。ためしに九条組をインターネットで調べてみたけれど、それらしい情報は一切出てこない。
 いちかは頭を抱えたが、そこでふと、先ほど見つけたあるものの存在を思い出した。
 龍臣に渡された札束のあいだに、名刺が一枚挟まっていたのだ。和紙で作られた格調高い名刺の文字に、目を走らせる。

「東京三本木組、若頭わかがしら、鬼頭佐一……さん」

 九条組と同じグループの組織か、彼の知り合いだろうか。いずれにしても、名刺を交換した仲ならば龍臣の居場所も知っているはずだ。
 問題は相手がヤクザという点だが、手がかりがこれしかないのだから行ってみるほかない。とりあえず、外からちらりと見るだけなら……たぶん大丈夫。
 いちかがこの裏通りをうろついているのは、そんな理由だった。


 名刺をポケットにしまい、目の前にある古ぼけたクリーム色のビルを見上げる。外壁に取りつけられた袖看板に『東京三本木組』の名前はない。
 この一週間、名刺に書かれたビルの前の通りを、ただの通行人をよそおって何度も通り過ぎた。
 もしかしたら、鬼頭佐一を龍臣が訪ねてくるかも――そう考えもしたけれど、さすがに期待が過ぎたようだ。
 それどころか、それらしい人が出入りする場面に出くわすこともなく、今では本当にこのビルを東京三本木組が借りているのかどうか、あやしく思っている。
 いちかはため息をついて、自動販売機の陰から足を踏み出した。今日のところはアパートへ帰ろうと駅の方向へ歩き始めたのだが……
 突然後ろから腕を掴まれ、鋭く息をのむ。

「アンタ、うちの事務所になんか用でもあんの?」

 恐るおそる振り向くと、目の前に小太りな中年の男が立っている。
 派手な白いジャージの上下に、胸元に輝くゴールドのネックレス。小脇に抱えたセカンドバッグの持ち手は手首に掛けられており、まくった袖口から刺青いれずみが覗いていた。
 明らかにそっち方面の人だ。左の眉に端を発した傷が、短く刈り上げた髪の中へと消えている。

「べ、別に用なんてありません」

 いちかは震える声で言って後ずさりした。この手の男は先週の出来事で見慣れた気がしたが、やはり怖いものは怖い。
 男は紺色のスーツを着たいちかの胸元を眺めつつ、口元を緩めた。

「またまた、本当はうちに用があんだろう? アンタ、ビデオに出ない? 知り合いがやってる撮影現場で女優にドタキャンされちゃってさ。お金、いっぱいもらえるよ?」
(……は? 撮影⁉)

 それはいわゆる、AVか何かの撮影だろうか。きっと、タレントや女優になることを夢見る若い女性たちが、こうやって日々犠牲ぎせいになっているに違いない。
 わき起こる怒りに唇を噛んで、男に掴まれた腕を強く引く。

「放してください」
「いいからとにかく事務所に来てよ。何もしないからさ」

 男がなおも腕を引っ張ってくる。

「ちょっと、本当にやめてください!」
「いいからいいから」
「放して……!」

 何もしないという言葉が、これほど信用できない人はいない。
 男に引きずられまいと、いちかは悲鳴を上げつつ足を踏ん張った。だが男の力にはかなわず、少しずつ引きずられていく。このままではまずい。建物の中に入ってしまったら一巻の終わりだ。

「お願い、助けて! 誰か……!」

 いよいよビルのエントランスに吸い込まれようかという時、突然男が声を上げていちかの手を放した。反動で後ろへ倒れそうになったところを、誰かの腕に抱きとめられる。

「あっちぃ! 熱い、熱い! ちくしょう!!」

 男は泣きそうな顔をして、左手の甲にふうふうと息を吹き掛けた。
 驚いたいちかは、自分の背中を支えている背の高い人物を振り向く。その横顔が目に入った途端、思わず目を丸くした。

「九条さん⁉」

 龍臣はいちかの身体を起こして、スーツのトラウザーズのポケットに片手を突っ込んだ。そして煙草たばこを深く吸うと、大きく煙を吐き出す。

「てめえ、俺の女に手ぇ出してんじゃねえよ」
「……は?」

 悠然ゆうぜんとした態度で男を見下ろす龍臣を見上げたまま、いちかは眉をひそめた。

(俺の……女?)

 ヤクザの女だなんて冗談じゃない。そもそもこのあいだの結婚式はフェイクだったはずだ。
 しかし、助けてくれたことは素直にありがたかった。とりあえずこの場は合わせようと、龍臣の後ろに身を隠す。
 ジャージの男は警戒の表情を浮かべて一歩後ずさりした。

「アンタ、九条か! 先週もうちの組のもんがえらい世話になったそうで」
「まあな。俺の一生に一度の晴れ舞台、よくもけがしてくれたじゃないの。まったく、親のしつけがなってねえな」

 男の眉がぴくりと動く。同時にいちかも顔をひきつらせた。どうやら東京三本木組はあのとき襲撃してきた敵対組織だったらしい。直接、龍臣の居場所を聞いたりしなくてよかった。

「なんだと? てめえ、うちの親父にアヤつける気か」
「……ああ? 元はといえば、お宅さんのほうがうちの取引に首ツッコんできたんだろうが」

 とんでもなく凶悪な顔つきで、ぽきり、ぽきりと龍臣が指の関節を鳴らす。いちかは嫌な汗が噴き出すのを感じた。ため息交じりに彼が続ける。

「あそこは俺が地主のもとへ何年も足繁あししげく通って、やっと買い上げに成功した土地なんだ。その土地を、昔から大切に付き合ってきたお得意さんに何度もプレゼンを重ねて、ようやく契約にぎつけたんだぞ? それなのに、急に横から入ってきて一枚噛もうなんて、そんな虫のいい話があるか」

 龍臣はそこまで言うと、素早く手を伸ばして男の胸倉を掴んだ。

「おい、お前んとこの親父に言っとけ。今度うちにちょっかい出したら、てめえんとこにダンプで突っ込んで、このビルごと破壊してやるってな」
「な……なにぃ?」

 背の高い龍臣になかば吊るされている男の顔が、怒りで赤黒く染まる。男は龍臣の手を振りほどき、持っていたセカンドバッグをエントランスの床に叩きつけた。そして、ジャージの胸元からナイフを取り出す。

「野郎……ナメやがって!」
「やめとけ。てめえじゃ勝ち目はねえよ」

 龍臣が言い終わる前に、男がナイフを持って飛び出してくる。
 龍臣はいちかの身体を後ろへ押しのけつつ、素早く横にスライドして男の攻撃を避けた。勢い余って倒れ込んできた男の首筋に、煙草たばこの火を押しつける。

「ぎゃっ」

 男はうめいて、腰をかがめた状態で首筋を押さえた。龍臣がその首根っこを押さえて、男の顔に膝蹴りを入れる。何度も何度も、容赦なく。何かが砕けるような嫌な音とともに、男はビルのエントランスにどさりと倒れ込んだ。

「まだ寝るには早い時間だぜ」

 龍臣は男のえりくびを掴んで無理やり立たせると、今度はその頭をエントランスの壁に叩きつける。
 いちかは短く悲鳴を上げて口を押さえた。壁のタイルには、はっきりと血の筋ができている。

「もうやめてください、死んじゃいます!」

 震えながら龍臣のスーツを引っ張る。そこへ、ビルの上階から人が大勢下りてくる音が聞こえてきた。いちかが鋭く息を吸い込んだ瞬間、薄暗い階段の上に、スーツやスカジャン、スポーツブランドのスウェット姿といった、様々な服装の男たちが現れる。
 五人はいるだろうか。いくら龍臣でも、たったひとりでこれだけの人数を相手にしては、勝ち目がないだろう。
 いちかはそこでふと思い出した。肩からげた大きな鞄の中に、万が一に備えて催涙さいるいスプレーを忍ばせてあることを。もしもおかしな奴らに捕まったら、これを使おうと思っていたのだ。

「てめえ九条か!」
「死ねやコラァ!」

 男たちが怒号を上げてせまってくる。龍臣は、顔中から血を流して脇に倒れているジャージの男のえりくびを掴むと、向かってくる男たちのほうへ投げた。

(今だ!)

 男たちの足が一瞬止まった隙に、急いで鞄から催涙さいるいスプレーを取り出し噴霧ふんむする。

「ぐあっ」

 オレンジ色の液体が顔に掛かった途端、彼らはその場にうずくまって苦しみ出した。目が開けられないのか、やみくもに両手を振り回している。

「お前、なんてものを――逃げるぞ!」
「ひゃっ」

 口元を袖でおおった龍臣に、いちかは勢いよく腕を掴まれた。その拍子に取り落としたスプレー缶を拾う間もなく、裏通りへと走り出す。ビルの入り口で咳込んでいる男たちの、弱々しい罵声ばせいを後ろに残して。


 数分後、いちかを乗せた龍臣の車は、新宿方面へ向かう大通りを走っていた。車はぴかぴかに磨かれた黒色の国産高級セダンで、内装は洒落しゃれた黒一色。包み込まれるような本革シートが身体のラインにフィットし、乗り心地も大変いい。
 いちかは両手のひらを天井に向けて膝の上に置いていた。催涙さいるいスプレーを使ったあとで顔に触れると、同じ効果が使用者の身にも起こるらしく、どこにも触るなと龍臣に言われたのだ。
 助手席に座るいちかのシートベルトは、龍臣が装着してくれた。
 その時に彼の手がたびたび身体に触れたが、嫌な気持ちにはならなかったのが不思議だ。命の危機、あるいは貞操の危機を二度も救われているからだろうか。
 その龍臣はというと、車を走らせ始めてからというもの、むっつりと黙りこくったままでいる。
 もしかして機嫌が悪いのかもしれない。それとも、運転中に話し掛けられたくないタイプなのか。彼が気だるげにくゆらす煙草たばこの煙すら重々しい。

「あのー……」

 いちかは恐るおそる声を掛けた。が――

「ああ?」

 ドスのいた声が返ってきて、びくりと肩を震わせる。

(や、やっぱり怒っていらっしゃる!)

 龍臣はまた前を向いてしまったが、助けてもらった礼をまだ言っていない。意を決して、いちかは背筋をぴんと伸ばした。

「先ほどは助けていただいてありがとうございました。それから、先週の土曜も。……腕の怪我、大丈夫でしたか?」

 しばらく待ったが返事がない。小さく咳払いをして、ちらりと龍臣の顔色をうかがう。
 しかし、彼は険しい顔で前を見たまま何も言わない。窓の外へ向かって最後の煙を吐き出すと、無言でパワーウィンドウを閉めた。

(うう……)

 いちかはうつむいて、膝の上に置いた両手を握りしめる。外からの音が遮断しゃだんされてしまうと、さらに居心地が悪い。彼は会話をする気がないのでは、と諦めかけた時、運転席から声が聞こえた。

「あんなのはかすり傷だ。それより、お前はなんともなかったのか?」
「……えっ? は、はい。私はお陰様でぴんぴんしてます」

 今まで不機嫌だったのに気遣われたことが意外すぎて、一瞬何を言われたのかわからなかった。なんだかんだ言ってこの人は優しい。彼のことは何ひとつ知らないが、今の時点ではそう思う。

「あ、あの……この車、一体どこへ向かってるんですか?」

 とっかかりができたところで、気になっていた行先を尋ねた。前方に出てきた青い案内標識の行き先には、『王子』『池袋』方面とある。
 龍臣はオールバックにした髪を手で軽くいて言った。

「うちの事務所だ」
「はあ、なるほど」

 と、適当な相槌あいづちを打ったのち、座席のバックレストからがばりと背中を起こす。

「ええっ、まさか、ヤクザ……さんの事務所ですか?」
「手を振り回すなよ、薬の成分が舞うだろうが」

 龍臣は軽く咳込みながら、迷惑そうにいちかを見た。

「ああ、今向かってるのはうちの組の事務所だ。お前さんがヘタ打ったせいで、かくまわなきゃならなくなったんでね」
かくまう? 私を?」

 盛大なため息をつき、彼がこちらへ苦い顔を向ける。

「お前、馬鹿なのか? せっかく先週逃がしたのに、なんでまたあの時襲ってきた東京三本木組の事務所の周りをうろついてんだよ」

 あまりの言い草に、いちかは思わずムッとした。龍臣が不機嫌な理由がわかったが、何も知らない素人しろうとを馬鹿呼ばわりするとは、口が悪いにもほどがある。

「だって、料亭に襲撃を掛けてきたのが東京三本木組だったとは知らなかったんです。そもそも私があの場所にいたのは――あっ」

 いちかは途中で言葉をのみ込むと、しまった、とばかりに口をぽっかりと開けた。すっかり忘れていたが、龍臣にお金を返さなければならないのだった。
 慌てて鞄を探ろうとして、両手が使えないことを思い出す。手を宙に浮かせたまま、龍臣のほうに向き直った。

「私、先週九条さんから預かったお金を返したくてあそこにいたんです。九条さんの居場所がわからなくて困ってたところ、お札のあいだに東京三本木組の名刺が挟まってるのを見つけて――」
「はあ⁉」

 龍臣は眉間に深くしわを寄せ、さらに片方の眉を上げるという器用な表情をした。すぐにハザードランプを点灯させ、車を左に寄せてサイドブレーキを掛ける。
 来るぞ、来るぞ、といちかは身構えた。きっと怒鳴られるに違いない。この手が使えたら、せめて両手で頭をおおうのに。
 龍臣が身体をよじっていちかのほうを向き、大きく息を吸い込む。

「このくそ馬鹿野郎! てめえは一体何考えてんだ! 死にてえのか!」
(ひいぃっ!!)

 予想どおりに罵倒ばとうされて、心臓が止まりそうなほど驚いた。何もそこまで言わなくたっていいではないか。こちらはヤクザの組員ではなく、市井しせいに生きる普通の女なのに。
 ショックで涙が溢れてきたが、両手が使えないのでぬぐえない。懸命に目をしばたたいていると、龍臣が手を伸ばしてきた。
 叩かれるのかと、思わず目をつぶる。ところが、頬に触れる指が涙をそっとぬぐったのに気づき、まぶたを開けた。

「く、じょう……さん?」

 どこか困ったような表情を浮かべた龍臣の三白眼が、すぐ目の前で優しく揺れている。
 いちかの胸はどきどきと高鳴った。あの時と同じだ。料亭で起きた抗争の際にも、彼はこんなふうに頬を伝う涙をぬぐってくれた。

「うちの若いのが気づいて俺に知らせたからなんとか間に合ったものの、少し遅かったら危ないところだったんだぞ?」
「あの名刺しか、九条さんの手がかりがなかったんです」

 なかばしゃくり上げながら弁明すると、龍臣は何度も頷いて理解を示した。

祝言しゅうげんの前に三本木組と仕事でトラブって、話し合いをしたんだ。その時の名刺を挟んで忘れたままお前に金を渡したのは、確かに俺がうかつだった。しかしな――」

 龍臣が急に真面目な目つきになり、いちかを見据える。

「いいか? ヤクザの事務所の周りにはな、監視カメラがクソほどついてんだよ。お前があの辺をうろついてる姿が、バッチリ映ってたはずだぜ」
「監視カメラが……?」

 いちかがまばたきをすると、涙がまたひと粒頬を滑った。それを龍臣は親指でぬぐい、いちかの目を穏やかな顔で覗き込んでくる。

「お前、あのビルの前を何度も行き来したか?」

 こくり、といちかが頷く。

「もしかして今日だけじゃなく、この一週間、俺を探してあそこをうろうろしてたってか」

 こくこく、とふたたび頷く。
 龍臣は大きくため息をついてうなだれた。しばらくすると上目遣いににらみつけてきて、泣いて熱を持ったいちかの鼻を、指先でピンと弾く。

「いたっ」
「ったく……その度胸が命取りになるんだぞ」

 そう吐き捨てた龍臣は呆れた様子だ。
 手が使えないいちかは肩口で鼻をこすった。ひどいことをする。優しくされて少しどきどきした自分が馬鹿みたいだ。
 いちかは唇をとがらせて、改めて背もたれに寄りかかった。
 彼の言うとおり、東京三本木組のビルの外に監視カメラが〝クソほど〟ついているのだとしたら、いちかが一週間も前から何度もあのビルの周りをうろうろしていた映像が残っているはずだ。それどころか、龍臣の女だと思われた上に、催涙さいるいスプレーまでいてしまった。
 きっと恨みを買ったに違いない――そう確信した途端に背筋がゾッとして、勢いよく龍臣を見る。

「私……今後彼らに狙われるんでしょうか」
「そうかもな」

 また煙草たばこを吸い始めた龍臣が、煙をプカーと吐き出して適当に答える。いちかは頬を膨らませた。

「そうかもな、って……冷たい。九条さん冷たい」

 チッ、と龍臣が舌打ちする。

「だからかくまうって言ってんだろう? 余裕がなかったとはいえ、三本木組の名刺まで渡しちまったのは俺のミスだし、そもそもお前を巻き込んだ俺たちが悪い。それに、なんてったって、お前は極道の妻だ」
「妻? まさか、本当に――」

 彼はひらひらと顔の前で手を振った。

「さすがに俺たちはそんなふうに思っちゃいねえよ。だが、先週の祝言しゅうげんで、少なくとも三本木組の連中は俺の女だと認識しただろう。その女が抗争相手の事務所にカチコんだんだ。今後お前をつけ回さないとも限らねえ」

 いちかは細く息を吸い込んで、眉尻を情けなく下げる。

「じゃあ、私を守ってくれるんですか? 四六時中? 絶対に? ひとりになったら危ないですよね?」

 息継ぎも忘れて矢継やつばやにまくし立てた。一般人が突然ヤクザの抗争に巻き込まれたのだから、それはもう必死にもなる。
 ああ、と龍臣が頷いた。

「それについては組の者も全員了承してるから安心しろ。二十四時間、お前の気が済むまで守ってやる。言っとくが俺は、約束は必ず守る男だぜ」

 いちかはいぶかしげな目つきで彼を見る。
 約束を守るだなんて、ヤクザのイメージから最もかけ離れたセリフだ。これまでのところ龍臣はいちかの危機を何度も救ってくれたが、まだ一〇〇%信用する気にはなれない。

「で? 俺が渡した金がいくらあったって?」
「十五万です。タクシー代で一部使わせていただきましたが、残り十四万以上あります」
「そんなはした金で……これだからシロウトさんは困る」

 吐き捨てるような彼の言葉に、いちかの眉がぴくりと動いた。
 彼は今、はした金と言ったのか。若い女性が月にもらう手取り給与の半分、いや、もしかしてそれ以上にもなる、十四万円もの大金を。

「……許せない」
「あ?」

 スマホを取り出して眺めていた龍臣が、こちらに鋭い目を向ける。
 誰もが怖気おじけづきそうな眼差しだが、いちかはもうひるまなかった。背筋を伸ばして深く息を吸い、『教師の顔』になる。

「九条さん。十四万円は決してはした金なんかじゃありません。世間には苦労して子供を育てているご家庭もたくさんありますし、事情があって朝ごはんすら食べられない児童だっているんです。十四万あったら、何人の子供の食費がまかなえると思いますか?」

 教育者としての使命に燃えるいちかは、ぴしゃりと言ってやったことに満足を覚えた。けれども、彼は無表情のまま何も答えない。にらみあった挙句、龍臣のほうから口を開いた。


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