隣の家のありす

FEEL

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 七月も中頃に入り、外は茹だるような暑さになっていた。
飲み物を求めて冷蔵庫を開けるが、中はすっからかんだった。いつぞやに買ったパック詰めの寿司についていた醤油のパックしかない。

「まじかよ……」

 絶望的な光景に俺は言葉を漏らす。この暑さの中、買い物に行けと? 溶けて死んだらどうするの?
 誰にでもなく文句を垂れてみても返事はない。冷蔵庫の控えめな電子音だけがブゥゥゥゥン……と鳴っていた。

「しゃあない。買い物にいくかぁ」

 覚悟を決めた俺は冷蔵庫を閉じて玄関に向かった。扉を開けると嫌になるほどの熱風が部屋に入り込んでくる。折角決めた覚悟がもう揺らぎそうだ。何とか踏みとどまって、外に出て鍵をかけてから横を見ると、少女が行き倒れていた。
 羊毛みたいなふわふわの長髪を体の下に引いて、眠り姫のように目を閉じた少女が。

「えっ」

 俺は思わず声を漏らしてしまった。結構な音量だったと思うのだが、少女はピクリとも反応しない。え、もしかして?
 壁を枕にして仰向けになっている少女を覗き込む。俺が近づいても微動だにしなかったが、服の上から呼吸しているのは確認できた。よかった、生きてる。
 横になっている少女を大股で跨いでからアパートの階段を降りた。降りる最中、ちらりと少女の方を見たが少女は倒れたままだった。
 ――まぁ、この暑さだもんなぁ。
 手で影を作って辺りを見渡す。道路には人通りがなく、陽炎が微かに見える。子供は元気が一番。というが、こんな天候で跳ね回っていたらそれこそ健康を損ねてしまう。

 近くにあるスーパーに入ると冷房が効いてて生き返るような気分だった。この場から離れたくなくて、冷気を堪能してからゆっくりと商品を物色した。
 いつもより多めに買い物をして、体に溜まった冷気を奪われないうちにアパートに戻ると、少女は相変わらずの姿で倒れていた。うそだろ。あれから結構時間経ってるぞ。

「お、おい。大丈夫か?」

 少女に駆け寄って声を掛ける。万一こんなところで干からびでもされたら堪ったものじゃない。廊下を見る度に少女の姿がちらついて外に出れなくなるじゃないか。あんまり外出ないけど。

「ん……むぅ」

 体を揺すってやると、少女は眉をひそめて苦悶の声を出した。

「おい、どうした? しんどいのか?」
「んぁ……」
「ん? なんだって?」
「ぁ……あっぃ……」

 口元に耳を近づけると、少女は消え去りそうな声で言った。

「そりゃそうだろ……こんなところで寝てたら溶けてなくなっちゃうわ。早く家に帰れよ」
「……あつくてうごけない。の、のみものぉ……」

 お前は砂漠で行き倒れた旅人か。

「わかったわかった。ほら」

 レジ袋から缶ジュースを取り出して渡してやると、ジュースを掴んだ少女は余命いくばくの入院患者のような動きで体を起こした。

「――おいしい。いきかえった」
「そりゃよかったな。で、お前の家は?」
「まだある?」

 こっちの質問を完璧に無視した少女は、空になったジュースを俺に渡した。

「次はりんごジュースがいい、できれば」
「ねぇよ。というかもう回復してるじゃないか。元気な人に施しはあげられません」
「そんなことはない。わたしはいっぱいいっぱい」

 片目を閉じて棒読みで言った少女はハリウッド級の名演技(苦笑)で腹を抑えていた。お腹痛いならトイレに行きな?

「まぁいいや。元気になったらなら早く帰れよ。また倒れちゃうぞ」

 言いながら、立ち上がった俺は自分の部屋の扉を開けた。これ以上付き合っていたらこっちが熱射病で倒れてしまう。

「あっ! うさぎさんだ!」

 扉を開けて中に入ろうとした時、少女が大きな声で叫んだ。びっくりして振り返ると、俊敏な動きで起き上がった少女はこちらに向かって走ってきた。

「な、なんだ?」

 玄関に入り込んだ少女は、靴箱に置かれている兎の置物を見て興奮していた。確か……何年か前、気まぐれで神社に行った時に買った干支の置物だ。そういえば処分するのを忘れて置きっぱなしだった。

「う・さぎ・さんっ。う・さぎ・さんっ」

 少女は置物を一心に見つめて、謎のリズムで上下に体を弾ませている。

「おい、そんなところで踊ってたら中に入れないじゃないか」
「あ、お部屋涼しい~!」
「おいっ、部屋に入るなっ!」

 言っている間に、少女は靴を脱ぎ捨てて家に入り込んでいた。何なのこの子、自由すぎない?
 周囲を確認してから開きっぱなしの扉を急いで閉める。危ない危ない……こんな瞬間を誰かに見られたら、少女を家に連れ込んでいる変態男だと勘違いされてしまう。

「すずしぃ~っ」

 少女の後を追って部屋に入ると、部屋の中央に座り込んで涼を堪能していた。それにしても……家の中は本当に涼しい――。

「って、何勝手にエアコン点けてんだ! 止めろ、電気代カツカツなんだよっ」
「文明の利器」

 何なのその語彙力。
 急いでリモコンを探すが見当たらず、少女を見ると手に握りこんでいた。奪い取ろうと近寄ると、危険を察知した少女は握りこんだ腕ごと、リモコンを脚の間に挟んだ。な、なんてことを……そんなところに隠されたら手が出せないじゃないか。
 流石に数百円程度の電気代で社会的生命を懸ける胆力は持っていない。俺は、敗北を認めて椅子に座り込んだ。

「涼んだらちゃんと帰れよ……ていうか、家はどこなんだよ」
「ん? となり」
「は? となりって、隣?」

 俺が壁に向かって指をさすと、少女は「うん」と言って大きく頷いた。思い起こせば……たまに子供の声が聞こえてきた気がする。

「て、だったら俺の部屋じゃなくて自分の家に帰れよっ。目の前だっただろっ」
「ねー、これなに?」

 この子には俺の声が聞こえてないのかな?
 辺りを確認していた少女は、隅に重ねられた封筒の山に手を伸ばした。ってそれは……。

「?? 文字がいっぱい。本?」
「……小説、俺が書いた」

 俺の職業は小説家だ。小説家……といっても本を出版した経験なんて一度もない。有志から依頼を貰って、足りない生活費はバイトで賄っている趣味の延長のようなものだ。
 数年前から空いた時間を使って持ち込みを続けているが、成果は未だ無し。積み重ねられた没原稿が部屋を狭くしているのが現状だ。
 ちらりと少女を見ると、クリップで閉じられた小説をぱらぱらとめくっていた。

「……どうだ? 俺の小説は面白いか?」
「ん~~。かんじが多くてよくわかんない」

 言いながら、少女は小説を山に戻す。そりゃそうか。大衆に認められない小説が、文字も満足に読めない少女の関心を引くはずがない。わかりきっていたことだが、少しだけ落ち込んだ。

「ありすね。絵本がすき。」
「ありす? ありすってお前の名前か?」
「うん!」

 小気味よく返事をしたありすは唇を尖らせながら、指を折って数え始めた。

「シンデレラでしょ~、桃太郎に~かぐや姫~ながぐつねこ~いっすんぼーし~……ねこがたロボット!」

 あ~何でも叶えてくれる猫型ロボットね。いいよね、名作だよね。絵本ではないけどね。
 思いのほか作品歓談に盛り上がってしまい、冷風で体が冷え始めた頃、ありすは立ち上がった。

「そろそろ帰るね。おじさんジュースありがとうっ」
「おじさんじゃない。兎山だ。#兎山直久__とやまなおひさ__#」

 そこらへんにあった紙に名前と振り仮名を書いてやる。
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