隣の家のありす

FEEL

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 学校の先生のような口調で汗をかいたキュウリを指さすが、紙を排出するコピー機を逆再生したようにそうめんを吸い込むありすは冷めた表情のままだ。この野郎……お百姓さんに申し訳ないと思わないのか。

「あら、そうめんもう無くなっちゃいましたね」
「え?」

 なんとかありすに野菜を食わせようと躍起になっていると、そうめんの入っていた器は水だけになっていた。待って、俺殆ど食べてないんだけど。ありすの方を見てみれば、満足そうな表情で「ごちそうさま」と手を合わせている所だった。

「――んで、何しに来たのお前」
「遊びに来たっ」

 極めて簡潔な答えを返すありす。聞けば公民館まで足を運んだありすだったが、俺がいないことに気付き大家に尋ねたらしい。吉田は家に帰ったことを告げると、そのまま家にやってきたのだとか。

「お前ねぇ、俺なんかと遊ぶより友達と遊んだりした方がいんじゃないの? こんな身元の知れないおっさん相手にしてても人生損するだけだよ?」

 机に肩肘を乗せて、ぶっきらぼうにありすに伝える。
 自分で言ってて心が抉られるような気持になったが、客観的に見ればその通りだ。子供の成長は早い。大人から見ればほんの一瞬の出来事だ。そのひと時をこんな所でおっさん相手に過ごすのはとても勿体ない。もう俺は子供に戻れないから、だからこそ強くそう思った。

「そんじゃないもん……うーさんと遊ぶのたのしいよ」

 呟くように言ったありすはしょんぼりと下を向いている。少女の言葉はきっと本心なのだろうが、何か含みがある感じだ。

「……さてはお前、友達いねぇな」
「ちょ、ちょっと兎山さん」

 大喜が当惑した様子を尻目にありすを見る。いつもの傍若無人ぶりがなりを潜めて、借りてきた猫のように大人しくなった姿を見るに、どうやら図星のようだった。

「なんだよなんだよ、お前の性格なら友達の一人や二人いそうなもんだけどなぁ」
「駄目ですよ兎山さん。こういうのは本人にすればとてもデリケートな問題なんですから、もっとオブラートに包まないと」

 大喜に耳打ちされて、改めてありすを観察してみると、肩を震わして今にも泣きそうになっていた。まじか。こいつのことだからてっきり適当に笑って済ませるものかと思ってたのに、これじゃあ俺、悪者じゃん。

「――はなしちゃ、だめだから」

 どうしたものかと考えていると、下を向いたままのありすが小さく呟いた。

「……カタオヤの子とは、はなしちゃだめだから。だから、ともだちになっちゃだめだって。ありすははなしかけちゃだめなんだって」
「――誰かに、そう言われたのか?」

 首だけ動かして、ありすは大きく頷いた。
 ありすが片親だというのは先日、本人から聞いていたから知っていた。しかし、その事を語るありすは別段変わった様子はなかったから、本人はそんなに気にしていないものだと思っていた。
勿論、俺もそんな事は気にしない。親が片方いなかろうが善人はどこまでいっても善人だし。両親共にいて、不自由なく育ったとしても悪人はやっぱり悪人だ。そんな事は人物を評価するに当たってなんの指標にもならない。
 だが、そんなどうでもいい事を気にする人間だって世の中には存在する。同類を好み、異質を嫌う臆病な人間が。少女は運悪く、そういう人間に見つかり、心無い言葉をぶつけられてしまった。その出来事が、何も知らない無垢な価値観を酷く歪ませてしまったのだろう。

 掛ける言葉が見つからないでいると、大喜がありすを抱きしめた。慰めの言葉の代わりに、優しく頭を撫でていた。数回、頭を撫でられたありすは大喜の胸に顔を埋めると、音を殺して小さく体を揺らしていた。サウナのように蒸した部屋の中、ありすの腕に滲んだ汗が垂れて落ちる。俺にはそれが、涙のように見えた。

 ありすが落ち着いた頃には陽が落ちてきて、少しだけ涼しくなっていた。思ったよりも長居をする事になった大喜は小説の入った封筒を抱えて、玄関先で頭を下げる。

「小説、ありがとうございます。読み終わったら返しにきますね」
「別にそのまま捨ててくれても大丈夫ですよ。それ、没原ですから」

 割と本心で大喜に伝えた。
 光を浴びなかった話だったとしても、生み出した本人からすれば大事な我が子だ。愛着もあれば未練もあるからおいそれと処分することは出来ずにいた。かといってため込んでいたら部屋が埋め尽くされてしまう。だから自分の知らない所で、ひっそりと処分してもらえると正直有難かった。しかし、大喜は封筒を胸に抱えてかぶりを振る。

「とんでもないです。ちゃんと返しにきますから」
「はぁ……まぁ、手間じゃないなら……」
「はいっ。それじゃ、今日はありがとうございました。ありすちゃん、またね」

 大喜は綺麗なお辞儀をしてから、俺の横にいるありすに手を振った。疲れているのか、力なく手を振ったありすは空いた手で俺のズボンをがっしりと掴んでいる。

「お前は帰らないの?」
「……」
「エアコンないから夜も暑いぞ?」
「……」

 ありすは何も言わずに、ズボンを握る力を強めた。どうやらまだ帰るつもりはないらしい。しかし、毎日爆竹のように跳ね回っている少女がここまでしおらしくなっているのは何とも調子が狂う。まぁ原因は俺なんだけど。

「あー……暑いからアイスでも買いにいくか」

 居心地が悪くて不意に提案してみると、やや沈黙が続いた後、

「ぶどうのアイスがいい」

 と、ありすが言った。

「ぶどうね。とりあえず見に行くか」
「……うん」

 アイスの値段も金欠の身には決して安くはないのだが、それで爆竹娘の機嫌がよくなるのなら必要経費と考えよう。
 買い物に向かう道中。ありすはズボンを握っていた手を解き、俺の手を掴んできた。子供特有の高い体温が気温と相まって暑苦しい。だが――迷子になられても困ると思い、掴んできた手を握り返した。
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