隣の家のありす

FEEL

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「そうですか。夢のあるお仕事ですね。私とは全然違う」
「一ノ瀬さんのお仕事は?」
「OLですよ、何の変哲もないしがない会社員です」

 少し疲れたような、哀愁を感じさせる調子で一ノ瀬さんが言う。それもそうだ、時間は既に深夜だ。この時間まで働いていたら疲れるのも当たり前か。

「ところで、兎山さんにお願いがあるのですが」
「お願い?」
「引き続き、ありすの面倒を見ていただけませんか?」

 姿勢を正し、改まった口調で一ノ瀬さんは言った。

「正直なところ、仕事に追われる毎日で帰ってこれるのは大体がこんな時間です。最近はありすとまともに会話すら出来ていません。もしも仕事に行っている間に今日みたいな事があれば……そう考えると恐ろしいんです」

 自分の考えを話す一ノ瀬さんは真剣な表情だった。それだけありすを家に残すことに不安を覚えているのが伝わってくるのと同時に、仕事にたいして真面目すぎる印象を受けた。
 ありすを大事に思っているのなら、仕事の量を減らせばいい。スーツ姿から察するにオフィス仕事だと思うのだが、なんにしてもこの帰宅時間は異常だ。もう少し仕事を減らしたら明るい時間に帰る事は十分可能なんじゃないか?

「仕事を減らす事はできないんですかね?」
「それは無理ですね」

 疑問に思った事を伝えると、一ノ瀬さんが言下に言う。異論を挟ませない物言いに押し黙った。

「私は派遣社員です。確かに自分の仕事だけやっていれば早く帰る事は可能だと思います。しかし渡された仕事を断るような人間と思われたら信用を失います。その結果、職を無くしてしまったらありすを養う事が出来ません。ですからどうか」

 そこまで言って一ノ瀬さんは頭を頭を下げた。自分の仕事をこなしているのに職が無くなるなんて大げさな。そう思いつつも一昔前に大規模な派遣切りが話題になったのを思い出して否定する事が出来なかった。だがそれでも、俺の中では納得がいっていない。
 頭を下げたままの一ノ瀬さんをじっと見つめる。そこまで自身を犠牲にしなくてももっと上手い生き方があるんじゃないだろうか。具体的な案がある訳じゃなかったが、まるで何かに追われているような彼女の姿を見てそう思った。

「……わかりました」
「ありがとうございます。勿論お礼は致しますので」

 少し間を置いてから俺がそう答えると、頭を下げたまま一ノ瀬さんが言った。

「お礼なんていいですよ別に、そんなに負担にもなってませんから」

 畏まった態度に耐えかねて軽い調子で言うと、一ノ瀬さんは変わらぬ調子で「助かります」と呟いて頭を上げた。表情には疲れが見える。顔色も少し良くないように感じた。

「それじゃ、俺はこれで」

 話が一段落したタイミングで立ち上がった。あまり長居をしていると一ノ瀬さんが休む事が出来ない。そう思って足早に部屋を出ると、一ノ瀬さんは玄関まで見送ってくれて、もう一度頭を下げてから扉を閉めた。

 次の日。目が覚めるとまだ早朝だった。ゴミ出しをしてから部屋に戻る途中、一ノ瀬宅から人の声が聞こえてきた。耳を澄ますとどうやらテレビの音みたいで、会話のようなものは聞こえなかった。もしかして、一ノ瀬さんはもう出勤してしまったのだろうか。

「すいませーん」

 少し悩んでから扉を叩く。ありすの面倒を見ると了承した手前、確認しない訳にはいかないと思った。一ノ瀬さんがいるならそれでいい。早くに尋ねた事を謝り、部屋に戻ればいいだけだ。少し待っていると扉が開いた。迎えてくれたのはありすだった。

「うーさん。どうしたの?」
「特別な用事はない。様子を見に来ただけだ。母ちゃんは?」
「お仕事いったよ」

 やはり一ノ瀬さんは仕事に行っていたらしい。相当早い時間のはずだが、もう出社しているとは。昨日見た一ノ瀬さんの表情が頭に浮かび、感心を通り越して心配になってしまう。

「お前はこんな朝っぱらから何してたんだ?」
「テレビ見てたっ」

 部屋の中から聞こえてくる音に耳を澄ますと、どうやら何かのアニメが流れているようだ。

「ほーん、アニメか」
「うーさんも一緒みよっ」

 言いながらありすは部屋に戻っていったので、俺も後を追うように部屋に入った。リビングにくるとありすは早速座ってテレビにかぶりついている。

「うーさんアニメ好き」
「あー、好きだぞ」

 テレビに視点を向けたまま話すありすに答える。
 アニメに限らず漫画、映画、演劇、音楽――そして勿論小説も、創作の類はすべて好きだ。作られた作品には何かしらの意図があり、のめりこむと作者の心に触れているような感覚を覚える。そうなると見えてくるのだ、自分の知らない世界が。知らない価値観に知らない人柄、未知のものに触れて自分の世界がぐんと広くなる感覚。それが大好きだった。
 ありすの横に座ってテレビを見る。流れているのは男の子向けの作品のようだ。

『俺は諦めない、絶対に……!』

「俺は諦めない、絶対に……!」

 キャラクターの台詞に合わせてありすが言った。身振りまで真似して台詞を真似する少女は世界に浸りきっているようだった。こいつの語彙力が異様に高いのはこれが原因か。

「お前、普段からそうやって遊んでるの?」
「ああ、その通りだぜっ」

 顔の前でガッツポーズを作ってありすは不敵な笑みを浮かべる。暑苦しい。
 それなりにちゃんとしている物真似をするありすを見て思った、ちゃんと内容を理解しているのだろうか。ありすは愛ちゃんと同じで小学一年生だったはずだ。今流れている作品の対象年齢はもう少し上のように思える、しかし、ありすはキャラクターの動きをしっかりと真似ていた。

「なぁありす。このアニメってどういうお話なんだ?」
「んーと、男の子が戦って、仲良くなる話」

 なんというざっくりした説明。今の説明だと理由もなくいきなり戦いをふっかける男の子が唐突に仲直りするお話になっちゃうぞ。

「んでねー、この子はいい子でー、この子が悪い子」

 ありすはテレビ画面を指さすと、画面に映ったキャラクターの説明をした。ようするに、主人公と悪役といったところか。

「んでね、んでね。このいい子がね、友達を助けるの、それで仲良くなって一緒に戦うんだよっ」
「へー。なるほど」

 目をキラキラとさせてありすは説明に熱を入れる。どうやらありすは大まかな流れは理解できているようで、楽しそうに画面を見ている。俺の作品とは大違いだ。
 少し前、ありすは俺の作品を手に取った事がある。その時は表情を変えることもなく、「わかんない」と一蹴されてしまった。相手は子供だからと自分を納得させていたが、目の前の作品を楽しんでいるありすを見ると、自分の作品の難解さが浮き彫りになってしまうようだった。なんだか、少しモヤモヤする。
 そうしてる間にアニメは終わり、ありすは満足げに息を漏らすと、立ち上がって本棚に入った本を漁りだす。

「ほら、うーさん見てっ」
「あー、さっきのアニメかこれ」
「そうっ」

 ありすが差し出した本はスクエアサイズの本。表紙にはさっきまでテレビに映っていたキャラクターがいた。

「じゃー次はこれっ」

 楽しそうに本を物色したありすは違う本を取り出してこっちに見せた。ねずみのような小動物が二匹、一緒に編み籠を持っている表紙。有名な絵本だ。

「知ってる。ノアの箱舟のごとく地球中から生態系を無視して集まった動物たちが謎の卵を囲んで笑う話だ」
「のあのはこぶね?」

 拙い口調で言ってから、ありすは首を傾げて不思議そうな顔を見せた。

「全然違うよ。うーさん嘘つき」
「えぇ」

 そんな馬鹿な。内容に間違いはないはずだ。頭の中で話を思い返してみるが間違っているとは思えない。
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