アオハルのタクト

碧野葉菜

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受難曲(パッション)

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「忙しいならいいんだけど」

 返事がない俺に、春歌が催促するように言った。なんでそんな話になったんか、動機すらわからん。それでも微かな希望を見てもうた俺は、答えを急ぐしかなかった。
 
「いやっ、予定ない、全然ないわ、めっちゃ暇してる!」
「そ、じゃあ一緒に遊ばない?」

 あまりにも期待通りの台詞に、嬉しさより先に拍子抜けしてまう。
 電話をくれただけでも驚きやのに、不可思議な現象に見舞われた気分や。
 まさか、たまたま思いついたんが八月十一日で、深い意味はないとでも言うんやろうか。
 
「は、春歌、その日、なんの日かわかって――」
「拓人の誕生日でしょ」

 最後まで言い終わる前に、俺の杞憂はあっさり否定された。
 冷静になるよう意識して、今までの話を整理する。つまり、春歌は俺の誕生日やとわかった上で、その日を指定し、約束を取りつけるために電話をくれた。
 こんなことってあるか。 
 今までも誕生日に春歌に会ったことはある。特別な日に相応しい思い出が欲しくて、俺から誘って少し話をするだけでもよかった。断られる時もあったけど、会えた日は「おめでと」って淡白な一言に、キャンディーやチョコレートなんかを添えてくれた。「子供扱いすんな」って口では言いながらも、十分嬉しかった。駄菓子屋で百円で買えるものでも、春歌がくれることに意味があった。
 それやのに今年の誕生日は、春歌から誘ってくれるなんて、生まれて初めてのサプライズ。気まぐれな春歌のことや。なんとなく思いついたからとか、そんなところやろう。だけどそれでええ。単なる暇つぶしであっても、春歌が俺のことを考えてくれただけでよかった。だから、急にどうしたとか、理由を探求はせん。春歌の気分を逸らしたくなかったから。

「なんか、春歌が楽しめそうなプラン、考えとくな」
「私を楽しませてどうすんのよ、拓人の誕生日でしょ」

 あきれた様子の春歌が目に浮かぶ。だけど、なんの問題もない。むしろ俺がそうしたいだけや。

「いや、だから、それでええねん。春歌も、どっか行きたいとことか、したいことあったら言うてな」
「りょーかい」

 春歌が軽い調子で答えると、間もなくして通話が切れた。別れの挨拶すらないことも、自然な流れとして受け入れる。他の奴にされたら嫌な気持ちになると思うけど、春歌が相手なら悪くない。
 無音になったスマホを耳から離し、通話時間が表示された画面を眺める。たった数分のやり取りだけで、こんなに俺を喜ばせるなんて、春歌にしかできん芸当や。
 次の約束があるという事実は、俺の心に余裕を与える。話しそびれたことは、その時ゆっくり消化すればええ。八月十一日まで、まだ一週間ある。その間に美容院に行くか、洋服も少し洒落たものを新調した方がええかもしれん。春歌は朝が弱いから、会うのは昼前がええか。それとも、人が少ない早めの時間に出かけるべきか。こんなふうに、考えるだけでも楽しい。すでにプレゼントをもらったような気分で、スマホをズボンのポケットにしまい、一階に向かうため部屋を出た。
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