アオハルのタクト

碧野葉菜

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追奏曲(カノン)

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 茜色にはまだ遠い空の下、あっという間に自宅に着く。震える手で急いで鍵を開け、階段を蹴り上がり自室に飛び込んだ。
 すぐ右横に立つガラス棚。ゆっくりと傾けた視界に映るトロフィーたちは、みるみるうちに輝きが失われ、ドス黒い色に変化した。
 ピアノの椅子を両手で掴み、振り上げた勢いのままガラスにぶつける。ガシャーンと耳を刺す衝撃音とともに、割れた破片が飛び散る。偽物の成果を称えた偶像を、薙ぎ倒して掴み上げては、壁や床に投げつけた。あんなに欲しかったはずやのに、いくら集めても足りん。埋まらん隙間が、どんどん広がって全身を蝕む。
 
「たっちゃん、もう、やめて……」

 息を詰めるような苦しげな声に、鼓膜が反応する。白飛びしていた意識が徐々に戻ってくると、柔らかな温もりを感じた。座り込んだ俺を抱きしめた、甘い匂いを知っている。春歌やない。あいつはもっと薄い匂いがした。澄んだ水を思わせる、空を泳ぐような匂いやった。
 無音の室内に、振動音が響く。出先はわかる、鳴っている理由も。優希に抱きしめられたまま、デニムパンツのポケットをまさぐり、手にしたスマホの画面を開く。途端に流れる生きた旋律に、誘われるように優希が動き出す。
 俺から体を離し、気づいた音源に顔を近づける、限界まで開かれた目に映るんは、ピアノを弾く春歌の姿。
 あの日、どちらの方が再生数を稼げるかって、動画の勝負をした。春歌は笑ってるやろうか、天まで届きそうな、この脅威的な結果に。
 春歌が海に身を投げた時、再生数増加の知らせが来た。それから数えきれんコメントが来た。未だに来る。あいつが死んでからもう二年経つっていうのに。「上手すぎる、プロ?」とか「顔出してないし、有名人かな?」とか「荒い部分もあるけど、なんか惹かれる」とか。一番多かったんは「また聴きたい」やった。
 ピアニストに最も必要な言葉まで掻っ攫った、この動画を消したいのに、消せずにおる。

「すごいやろ、ピアノに触ったん、たぶんこれが二回目や。俺には敵わん、一生かかっても」

 俺の台詞に、画面に食い入っていた優希が顔を上げた。音楽が終わるとともに、俺の仮面が外れる。
 
「俺、優希のこと好きやない。嫌いでもないけど、女として見たことがない。それやのに、俺の家に入り込んで、彼女ヅラして、ウザくてしょうがなかった。優希に優しくしてたんは、親同士が繋がってるから、冷たくしたらめんどくさいから、ただそれだけ」

 幼少期から溜まり続けた心の声は、緩やかな川のようにつらつらと流れ出る。
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