アオハルのタクト

碧野葉菜

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追奏曲(カノン)

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 新学期が始まって間もなく、生徒指導室に足を運んだ。今後のことを話すために、俺からわざわざ声をかけた。小さな机を挟んで、向かい合った席に担任が座っている。背景に見える小窓から射し込む光が、ほのかに室内を照らしていた。

「どうしたんですか、先生、水島くんだったら大丈夫って、言ってくれないんですか」

 今までろくに進路相談にものらず、二つ返事でそう言っていた先生は、神妙な面持ちで口をつぐんでいた。その視線は俺の右手に向けられたかと思うと、逃げるように逸らされる。包帯でぐるぐる巻きになって、テーピングでギッチリ固められた手のひら。俺から直接言わんでも、生徒たちの噂で知ったんやろう。こんな大事な時期に手を大怪我して、再起不能、もうまともに機能せんのちゃうかって。本人の言葉よりも、暇人の話を信じるなら、指導者って看板は今すぐ下ろした方がええと思う。最初から期待してへんから、幻滅することもないけど。  
 
「大変ですね、先生も。親や生徒に気遣って、大して給料も高くないのに、神経すり減らして」

 眉間に皺を寄せ、瞬きを繰り返す先生を前に席を立つ。あんなに怖かった、侮蔑や嫌悪の眼差しが、今はむしろ心地ええ。
 ドアをスライドさせ廊下に出ると、斜め向かいに気配を感じる。生徒指導室に呼ばれたんやろうか。窓がついた壁を背もたれに、腕を組んで立つ柳瀬の姿があった。
 蝉が消えた夏の終わり、静まり返った廊下で、俺たちは視線を交差させた。秋を思わせる夕陽を浴びたアクアマリンは、海のようで空にも見える。春歌の苗字をなぞったその色は、春歌が持っていた俺の色に似ている。柳瀬は、知っていると思う。その上で、最大限の想いを表現している。だから春歌は許したんやろう。柳瀬以上に、一緒に堕ちてくれる人間はおらんかったから。

「ピアノ、やめるんか」

 黙って通り過ぎようとする俺を、引き留めたんは柳瀬の方やった。春歌をあきらめるんかって、聞かれた気がした。立ち止まったけど、振り返ることはなかった。

「柳瀬は大丈夫や、根性あるからな」

 言葉を受け取った柳瀬の顔を見ることなく、まっすぐ続く廊下を進んだ。角を曲がり靴箱に着くと、開けた正面玄関は茜色に染まっていた。出入り口で立ち止まって、俺を待つ小さな後ろ姿。足音に気づくと、振り返ってとびきりの笑顔を見せる。
 力を失くした魔法のタクト。もうなにに掻き乱されることもない。ありきたりで、平凡な毎日。

「たっちゃん、行こ」
「うん」

 軽くなった体で微笑み、温かい優希の手を取った。
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