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第壱章 前夜、凛の章
第五節 強い結束力の代償
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桶狭間の戦いの日。
織田軍の兵士たちは、周りの山や丘が今川軍の旗だらけであることを見ていた。
「全軍突撃!」
そんな状況で織田信長は……
数ある旗の中の一つに向かって突撃せよと、一見すると愚かで無謀な命令を下す。
「我々に死ねと申されるのですか?」
家臣たちは激しく反対した。
「各個撃破の好機であろう」
信長はこう言って反対意見を退けたが、織田軍の兵士たちは今川軍がどれだけ早く駆け付けて来るかを知らない。
尋常ではない恐怖を感じながらも一つになって突撃できたのは、恐怖を乗り越える程の『強い結束力』があったからである。
◇
明智光秀は、生徒たちにこう訴えていた。
「戦の勝ち負けは常に『紙一重』なのだ!
作戦が成功すれば勝利できるが、失敗すれば敗北して死ぬ。
死なずに済んでも多くの血を流し、腕を失い、足を失うだろう。
それでも、そなたたちは戦場に出たいか?」
「……」
「戦のない平和な世がいかに必要か……
よく分かったであろう?」
「……」
「それでも。
人の歴史のほとんどは戦の歴史でもある。
人の力では、戦を完全に無くすことなどできないのだ。
いずれ、そなたたちも……
戦に巻き込まれる日が来るかもしれん。
だからこそ、わしは戦を教えた。
戦の『本質』を見抜いた阿国を褒めた」
「……」
「ここで何を学べた?」
「一つになることが、何よりも大事だと?」
光秀と目が合った一人の生徒が答える。
「その通りだ!
人は皆それぞれ違うし、その違いを受け入れるのが難しいときもあろう。
それでも!
多くの困難を乗り越えて一つになるのだ!」
阿国の持つ類まれな才能を目の当たりにした光秀は……
しばらく後に養育している親戚から暴力を受け続けている事実を知り、激しい憤怒の感情を制御できなくなった。
得意の『謀略』を巡らせ始めた。
とある者から金儲けの話を持ち掛けられた親戚たち。
まんまと騙されて罠に嵌まり、阿国を質に入れて多額の借金を背負う羽目に陥った。
そして親戚たちが利息を払えなくなった瞬間、光秀は武装させた部下に踏み込ませて強引に阿国を奪い取る暴挙に出る。
一つの『悪行』が、一人の少女を暴力から救った。
◇
「光秀様。
あの日のことを思い出しました。
ただ、一つだけ教えてください」
「何だ?」
「信長様の家臣ならば、光秀様の他にもおられます。
他の家臣の娘ではいけないのでしょうか?」
阿国の質問に対して、光秀は涙を流し続けている愛娘をしばらく見てから答えた。
「わしは……
凛が左馬助を想っていることを伝えた。
信長様は理解された」
「では、なぜ?」
「信長様がこう申されたからだ」
「何と?」
「『わしが最も重く用いているそちの長女が従わなくて、他の娘に命令できるか?』
と」
「そんな……」
悲痛の泣き音が聞こえた。
かすかなだけに、かえって深い絶望感を表している。
自分が強い結束力の『代償』を支払う立場であることに気付いたのだろう。
それを見た光秀の表情はさらに歪む。
愛娘の苦痛は、自分の苦痛でもあるのだ。
◇
光秀の苦痛は阿国にも伝わっていた。
凛は、今は亡き光秀の妻・煕子の血を濃く受け継いでいる。
彼女を手放す辛さがどれ程のものか……
光秀は信長に最も重く用いられていた。
主の命令に率先して従う点で、家臣の『手本』となるべき立場でもある。
しかし。
肝心の凛の方は、深い悲しみに心の全てを支配されている。
まだ若くて精神的な『危うさ』も目立つ時期だ。
感情が暴走して、間違った方向に走ってしまう可能性も十分にある。
阿国が初めて凛と会ったときの第一印象。
今まで会ったことのない不思議な少女という言葉に尽きた。
「光秀様が、まだ少女の凛様にわたしを紹介した日……
あの日のことは忘れられない。
少女は、わたしの目を真っ直ぐに見てこう質問してきた。
『教えてください。
わたくしは、どんな生き方をすべきなのでしょう?
あなたの生きる目的は何ですか?』
と。
わたしは、ただただ面食らっていた。
生きることに精一杯で、人生の目的なんて考えたこともなかった。
少女の持つ独特な視点に、わたしは一瞬で魅入られてしまった」
残念ながら……
あの日の質問の答えは分からない。
それでも、はっきり分かったことがある。
「凛様には類まれな『才能』があるに違いない!
あの質問は、人そのものの本質を見事に突いているのだから」
今の彼女に一番必要なのは、時間だろう。
気持ちを整理して宿命を受け入れるための時間……
その間は、ただ一緒に泣くべきだ。
「光秀様。
今宵一晩、凛様にお時間を頂けませんか?」
光秀は阿国を改めて見た。
その目から、何かを感じ取ったようである。
「分かった」
◇
阿国と比留に支えられて自分の部屋へと戻った凛は、涙声で語り始めた。
「かつての明智家は……
領地を失って没落していました。
貧しい生活でしたが、わたくしは幸せでした。
尊敬する父上と優しい母上がいて、お慕いしていた左馬助殿がいました。
そして阿国と比留、あなたたちも」
「……」
「生活が貧しくたって一向に構わない。
お慕いした方が一緒なら、それで良い……
こんなささやかな願いすら叶わないのですか?」
「凛様……」
阿国が心配したことは現実となっている。
凛の感情は、暴走を始めていた。
「今の明智家は……
人々から羨ましがられるほどに豊かになっています。
それが何なのです?
豊かになることが、人生の目的だとでも?」
「……」
「違う!
そんな『程度』のことが、人生の目的であるはずがない!」
「……」
「己の愛を貫けず、己の意志で生きることもできない!
ただの傀儡[操り人形という意味]ではありませんか!」
「……」
「こんな傀儡の人生に、何の意味があるのです?
死んでしまいたい!」
凛は、生きる目的を完全に見失っているようだ。
これも情熱的な愛の一つの形なのだろうか。
「わたしは……
どこまでもお供する覚悟です」
気持ちに寄り添おうとした侍女・比留を、凛は激しく拒絶する。
「そんな必要がどこにあるのですか!
比留。
わたくしにとって、あなたなど……
ただの『他人』に過ぎません」
比留を巻き込みたくない気持ちが強いのだろうか?
不器用ではあるが、彼女なりの愛情表現かもしれない。
「凛様。
わたしたちを置いていかないでください。
比留も、この阿国も、ずっと凛様のお側にいたいのです。
どこへでも一緒に参ります」
賢い阿国は、凛が自分たちへ抱いている愛情に訴えた。
◇
ついに涙が枯れた。
涙を流すことは心身にメリットがある。
ストレスホルモンが涙と一緒に外へと流れ、代わりに苦痛をやわらげるホルモンが発生して身体全体を満たすからだ。
「あなたは……
まだ生きることを諦めてはいけません」
凛の身体が、凛自身を優しく教え諭すかのように。
「阿国殿。
わたしは納得できません。
凛様には、お慕いする方がいらっしゃるではありませんか。
他の姫様でも良いと思うのですが」
凛が落ち着いたのを見て、比留が自分の抱えている疑問を口にする。
一見すると言っていることはまともだ。
「それでは、だめなのです」
阿国がすぐに応える。
凛は黙ったまま何も言わない。
「良いですか、比留。
信長様が光秀様を最も重く用いているのを見た他の家臣の方々は……
さぞかし光秀様を羨ましがり、妬ましく思っていることでしょう。
どうしてか分かりますか?」
「大きく『出世』されたから?」
「信長様に次ぐ実力と地位を持つまでに出世なさいました。
家臣の域を超えて、大名と同じくらい高い地位です。
その光秀様が……
信長様の命令に率先して従うと、他の家臣の方々はどう感じますか?」
「信長様に従わなければならないと?」
「そうです。
他の家臣の方々に対して、信長様に従わざるを得ない強い圧力を加えることができるのです」
「……」
「こうして皆が信長様に従って一つになり、結束力は強まります。
逆に光秀様が率先して従わないと、結束力は弱くなります」
「いくら光秀様が高い地位にあるとはいえ……
率先して従うかどうかで、そんなに大きく変わるものでしょうか?」
「大きく変わるのです。
なぜだか分かりませんか?」
「なぜ、ですか?
分かりません……」
「実際のところ。
信長様の命令には、何の力もないからです」
「え?
どういうことです?」
比留は、阿国の語った言葉の意味が理解できない。
凛の方は……
理解できるのかできないのか、ただ黙っている。
【次節予告 第六節 命令に力を宿す者】
『比叡山焼き討ち』は、明智光秀が織田信長に最も重く用いられることが決まった戦いでした。
しかし比叡山という敵は、強敵どころかとても弱い敵だったのです。
そんな弱い敵を討ってなぜ深く感謝されたのでしょうか。
織田軍の兵士たちは、周りの山や丘が今川軍の旗だらけであることを見ていた。
「全軍突撃!」
そんな状況で織田信長は……
数ある旗の中の一つに向かって突撃せよと、一見すると愚かで無謀な命令を下す。
「我々に死ねと申されるのですか?」
家臣たちは激しく反対した。
「各個撃破の好機であろう」
信長はこう言って反対意見を退けたが、織田軍の兵士たちは今川軍がどれだけ早く駆け付けて来るかを知らない。
尋常ではない恐怖を感じながらも一つになって突撃できたのは、恐怖を乗り越える程の『強い結束力』があったからである。
◇
明智光秀は、生徒たちにこう訴えていた。
「戦の勝ち負けは常に『紙一重』なのだ!
作戦が成功すれば勝利できるが、失敗すれば敗北して死ぬ。
死なずに済んでも多くの血を流し、腕を失い、足を失うだろう。
それでも、そなたたちは戦場に出たいか?」
「……」
「戦のない平和な世がいかに必要か……
よく分かったであろう?」
「……」
「それでも。
人の歴史のほとんどは戦の歴史でもある。
人の力では、戦を完全に無くすことなどできないのだ。
いずれ、そなたたちも……
戦に巻き込まれる日が来るかもしれん。
だからこそ、わしは戦を教えた。
戦の『本質』を見抜いた阿国を褒めた」
「……」
「ここで何を学べた?」
「一つになることが、何よりも大事だと?」
光秀と目が合った一人の生徒が答える。
「その通りだ!
人は皆それぞれ違うし、その違いを受け入れるのが難しいときもあろう。
それでも!
多くの困難を乗り越えて一つになるのだ!」
阿国の持つ類まれな才能を目の当たりにした光秀は……
しばらく後に養育している親戚から暴力を受け続けている事実を知り、激しい憤怒の感情を制御できなくなった。
得意の『謀略』を巡らせ始めた。
とある者から金儲けの話を持ち掛けられた親戚たち。
まんまと騙されて罠に嵌まり、阿国を質に入れて多額の借金を背負う羽目に陥った。
そして親戚たちが利息を払えなくなった瞬間、光秀は武装させた部下に踏み込ませて強引に阿国を奪い取る暴挙に出る。
一つの『悪行』が、一人の少女を暴力から救った。
◇
「光秀様。
あの日のことを思い出しました。
ただ、一つだけ教えてください」
「何だ?」
「信長様の家臣ならば、光秀様の他にもおられます。
他の家臣の娘ではいけないのでしょうか?」
阿国の質問に対して、光秀は涙を流し続けている愛娘をしばらく見てから答えた。
「わしは……
凛が左馬助を想っていることを伝えた。
信長様は理解された」
「では、なぜ?」
「信長様がこう申されたからだ」
「何と?」
「『わしが最も重く用いているそちの長女が従わなくて、他の娘に命令できるか?』
と」
「そんな……」
悲痛の泣き音が聞こえた。
かすかなだけに、かえって深い絶望感を表している。
自分が強い結束力の『代償』を支払う立場であることに気付いたのだろう。
それを見た光秀の表情はさらに歪む。
愛娘の苦痛は、自分の苦痛でもあるのだ。
◇
光秀の苦痛は阿国にも伝わっていた。
凛は、今は亡き光秀の妻・煕子の血を濃く受け継いでいる。
彼女を手放す辛さがどれ程のものか……
光秀は信長に最も重く用いられていた。
主の命令に率先して従う点で、家臣の『手本』となるべき立場でもある。
しかし。
肝心の凛の方は、深い悲しみに心の全てを支配されている。
まだ若くて精神的な『危うさ』も目立つ時期だ。
感情が暴走して、間違った方向に走ってしまう可能性も十分にある。
阿国が初めて凛と会ったときの第一印象。
今まで会ったことのない不思議な少女という言葉に尽きた。
「光秀様が、まだ少女の凛様にわたしを紹介した日……
あの日のことは忘れられない。
少女は、わたしの目を真っ直ぐに見てこう質問してきた。
『教えてください。
わたくしは、どんな生き方をすべきなのでしょう?
あなたの生きる目的は何ですか?』
と。
わたしは、ただただ面食らっていた。
生きることに精一杯で、人生の目的なんて考えたこともなかった。
少女の持つ独特な視点に、わたしは一瞬で魅入られてしまった」
残念ながら……
あの日の質問の答えは分からない。
それでも、はっきり分かったことがある。
「凛様には類まれな『才能』があるに違いない!
あの質問は、人そのものの本質を見事に突いているのだから」
今の彼女に一番必要なのは、時間だろう。
気持ちを整理して宿命を受け入れるための時間……
その間は、ただ一緒に泣くべきだ。
「光秀様。
今宵一晩、凛様にお時間を頂けませんか?」
光秀は阿国を改めて見た。
その目から、何かを感じ取ったようである。
「分かった」
◇
阿国と比留に支えられて自分の部屋へと戻った凛は、涙声で語り始めた。
「かつての明智家は……
領地を失って没落していました。
貧しい生活でしたが、わたくしは幸せでした。
尊敬する父上と優しい母上がいて、お慕いしていた左馬助殿がいました。
そして阿国と比留、あなたたちも」
「……」
「生活が貧しくたって一向に構わない。
お慕いした方が一緒なら、それで良い……
こんなささやかな願いすら叶わないのですか?」
「凛様……」
阿国が心配したことは現実となっている。
凛の感情は、暴走を始めていた。
「今の明智家は……
人々から羨ましがられるほどに豊かになっています。
それが何なのです?
豊かになることが、人生の目的だとでも?」
「……」
「違う!
そんな『程度』のことが、人生の目的であるはずがない!」
「……」
「己の愛を貫けず、己の意志で生きることもできない!
ただの傀儡[操り人形という意味]ではありませんか!」
「……」
「こんな傀儡の人生に、何の意味があるのです?
死んでしまいたい!」
凛は、生きる目的を完全に見失っているようだ。
これも情熱的な愛の一つの形なのだろうか。
「わたしは……
どこまでもお供する覚悟です」
気持ちに寄り添おうとした侍女・比留を、凛は激しく拒絶する。
「そんな必要がどこにあるのですか!
比留。
わたくしにとって、あなたなど……
ただの『他人』に過ぎません」
比留を巻き込みたくない気持ちが強いのだろうか?
不器用ではあるが、彼女なりの愛情表現かもしれない。
「凛様。
わたしたちを置いていかないでください。
比留も、この阿国も、ずっと凛様のお側にいたいのです。
どこへでも一緒に参ります」
賢い阿国は、凛が自分たちへ抱いている愛情に訴えた。
◇
ついに涙が枯れた。
涙を流すことは心身にメリットがある。
ストレスホルモンが涙と一緒に外へと流れ、代わりに苦痛をやわらげるホルモンが発生して身体全体を満たすからだ。
「あなたは……
まだ生きることを諦めてはいけません」
凛の身体が、凛自身を優しく教え諭すかのように。
「阿国殿。
わたしは納得できません。
凛様には、お慕いする方がいらっしゃるではありませんか。
他の姫様でも良いと思うのですが」
凛が落ち着いたのを見て、比留が自分の抱えている疑問を口にする。
一見すると言っていることはまともだ。
「それでは、だめなのです」
阿国がすぐに応える。
凛は黙ったまま何も言わない。
「良いですか、比留。
信長様が光秀様を最も重く用いているのを見た他の家臣の方々は……
さぞかし光秀様を羨ましがり、妬ましく思っていることでしょう。
どうしてか分かりますか?」
「大きく『出世』されたから?」
「信長様に次ぐ実力と地位を持つまでに出世なさいました。
家臣の域を超えて、大名と同じくらい高い地位です。
その光秀様が……
信長様の命令に率先して従うと、他の家臣の方々はどう感じますか?」
「信長様に従わなければならないと?」
「そうです。
他の家臣の方々に対して、信長様に従わざるを得ない強い圧力を加えることができるのです」
「……」
「こうして皆が信長様に従って一つになり、結束力は強まります。
逆に光秀様が率先して従わないと、結束力は弱くなります」
「いくら光秀様が高い地位にあるとはいえ……
率先して従うかどうかで、そんなに大きく変わるものでしょうか?」
「大きく変わるのです。
なぜだか分かりませんか?」
「なぜ、ですか?
分かりません……」
「実際のところ。
信長様の命令には、何の力もないからです」
「え?
どういうことです?」
比留は、阿国の語った言葉の意味が理解できない。
凛の方は……
理解できるのかできないのか、ただ黙っている。
【次節予告 第六節 命令に力を宿す者】
『比叡山焼き討ち』は、明智光秀が織田信長に最も重く用いられることが決まった戦いでした。
しかし比叡山という敵は、強敵どころかとても弱い敵だったのです。
そんな弱い敵を討ってなぜ深く感謝されたのでしょうか。
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