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第壱章 前夜、凛の章
第九節 印象操作という手法
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「光秀様。
今宵一晩、凛様にお時間を頂けませんか?」
これは前日に阿国が言った言葉である。
明智光秀の長女に生まれたことで、凛は決して逃れられない『宿命』を背負うこととなった。
それは余りにも辛くて重い。
気持ちを整理し、受け入れるための時間が必要であった。
そして、ついに……
長い夜が明けた。
◇
光秀はまず阿国を呼ぶ。
「阿国よ。
そなたには真に助けられた」
「侍女として当然のことをしたまでにございます。
光秀様」
「そなたがいなければ……
凛は、どうなっていたことか」
「ご心配には及びません。
凛様は賢い御方。
必ずや、己のすべきことが何であるかを理解なさるでしょう」
「そなたが付いていれば安心だ。
それでも。
まだ、わしには迷いがある」
「どんな迷いがあるのです?
光秀様」
「阿国よ。
『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい』
この使命を全うするには……
強大な武力を持つ必要があった」
「存じております。
そのために、摂津国を手に入れる『策略』を巡らされたのでしょう?」
「その第一弾として。
わしは、荒木村重を摂津国の大名に据えることに成功してはいた。
ただし!
肝心の村重が、とてつもなく大きな問題に直面している」
「とてつもなく大きな問題?」
「国を統一できないことだ」
「国を統一できない?
国の統一を『邪魔する』、何か強大な勢力が存在していると?」
「うむ。
摂津国の石山[現在の大阪市中央区]という場所に、恐ろしく強大な勢力が……」
「摂津国の石山?
それは、本願寺教団のことでしょうか?」
この時代。
本願寺教団は、現在の大阪城付近に総本山を置いていた。
石山の地にある本山という意味で『石山本願寺』と呼ぶ。
宣教師のガスパル・ヴィレラは、この教団が当時の人々から絶大な人気を得ていたこと、加えて凄まじい財力も誇っていたことを以下のように語っている。
「本願寺の坊主は、日本の富の大部分を持っていた。
寺内町は2万人を超える人口を抱え、法座では大勢の民衆が集まって門に殺到するため、将棋倒しでいつも死者を出しているほどだ」
と。
◇
「本願寺教団は、大勢の信徒を抱えている。
摂津国中の信徒たちから集めた布施[寄付金のこと]は……
教団に莫大な財力をもたらし、数万人もの兵を雇うことまで可能にしたと聞く」
「覚えておいででしょうか?
光秀様。
わたしは、教団の信徒が非常に多い加賀国[現在の石川県]で生まれ育っております」
「阿国よ。
勿論、そなたのことは全て覚えているぞ。
教団への深い『恨み』を抱き続けていることも」
「……」
「加賀国を我が物にせんと信徒どもを扇動した教団は、国の支配者に対して反旗を翻した。
気の毒なことに……
その戦で発生した虐殺や略奪によって、そなたは戦災孤児となった」
「光秀様。
勢いに乗った教団は、加賀国のすべてを飲み込んでしまいました。
今や隣の越前国[現在の福井県]や越中国[現在の富山県]へも飛び火しているとか」
「うむ。
このままでは、隣国が飲み込まれるのも時間の問題だろう」
「教えてください。
荒木村重様を大名になされたのは……
摂津国が、加賀国と同じ結末になることを避けるためだったのですか?」
「そうだ。
良いか、阿国。
坊主とは……
俗世を離れて仏門に帰依した者のことであろう?
それがなぜ、数万人もの兵を雇って武力を用いることまでする?
俗世から全く離れておらんではないか!」
「わたしもそう思います。
神を知り、神を崇めるとの本分を忘れて教団の頂点にいる『人』に注目させ、俗世の象徴でもある『銭[お金]』集めと『政』への関わりに執着し、ときに『暴力』を使って己の主張を通すなど以ての外!
国の統一を邪魔する存在でしかない、あんな教団の存続を決して許すべきではありません」
「その通りだ。
わしは、こう考えた。
『このままでは……
摂津国が、教団の思うがままになってしまう。
手段を選んでいる場合ではない!』
とな」
「荒木村重様には、本願寺教団と関わりを持つ池田勝正、伊丹親興、茨木重朝ら、南蛮[スペインとポルトガルのこと]から伝来したカトリック教団と関わりを持つ和田惟政などの競争相手がいたと聞きます。
光秀様は、この4人の『抹殺』を決意なさったのですね?」
「そのために、わしは……
『印象操作』という手法を用いることにした」
「印象操作!?
4人の印象を下げ、人々が村重様を選ぶよう誘導なさったと?」
「うむ。
4人の重箱の隅をつついた[些細な部分にわざわざ注目して難癖をつけること]噂をバラ撒くことによってな」
「噂[デマ]を何でも真に受けてしまう人は大勢います。
4人を支持する人が減った一方で、村重様を支持する人は増えたことでしょう」
「ああ。
『悪辣』な手法だが、効果は絶大であった」
「村重様が一方的に4人を打ち破った……
白井河原の戦いは、光秀様が後ろで糸を引いておられたのですか」
「そうだ」
◇
類まれな智謀を持つ阿国は、光秀の策略がもたらした『副作用』の部分を正確に捉えていた。
「これでは……
村重様が、ご自身の『実力』で大名の地位を得ていないことになってしまいますが」
こう続く。
「いや。
むしろ……
村重様に、摂津国を統一する実力など全く『ない』のでしょう?」
「……」
「国を統一するどころか、足元を治めることすら難渋しているのでは?」
「阿国よ。
そなたの類まれな智謀には、ときどき恐ろしさすら感じる……
先の先まで読む『眼力』が尋常ではない」
「……」
「話を戻そう。
村重は元々、数ある国衆[独立した領主のこと]の一つである池田一族の家臣に過ぎなかった。
それが主を牛耳り、やがて主そのものも乗っ取った」
「『下剋上』で成り上がったと?」
「そうだ」
「光秀様。
そんな成り上がり者を、国の支配者と認める国衆がいるのでしょうか?」
「……」
「誰一人としていないのでは?」
「阿国よ。
すべて、そなたの申す通り……
村重を国の支配者と認める国衆など誰一人としていない。
国を一つにするどころか、足元を治めることすら難渋している」
「だからこそ迷われておいでなのでしょう?
そんな『危険』な場所へ、凛様を行かせて良いのかどうかを」
「……」
◇
迷う光秀の背中を、阿国が強く押し始めた。
「凛様は、わたしが命に代えてもお守りします。
それよりも……
このようにお考えになってはいかがですか?
これは、凛様の持つ才能を開花させる絶好の機会であると」
阿国は何と、危険な場所へ行かせることを絶好の機会[チャンス]だと言い切ったのだ!
これには光秀も驚きを隠せない。
「阿国よ。
これが、才能を開花させる絶好の機会[チャンス]だと申すのか?」
「凛様は物事の『本質』を見抜く才能をお持ちです。
ただし、今はまだ才能を開花させていません。
この才能は……
困難な状況の中で闘うことで、ようやく開花するものだからです」
『戦い』と『闘い』は違う。
戦いとは、勝ち負けを決めるために争うことを意味する。
だからこそ絶対に勝たねばならない。
勝つためなら、どんなに汚い手段を用いたって構わない。
正々堂々と正面から挑むなど、頭の中に一面のお花畑が咲いているおめでたい人間か、平和ボケしたズブの素人がやることだ。
むしろ。
誰かを利用し、煽り、唆し、騙し、欺き、操って相手を罠に嵌めることこそ肝心である。
一方。
闘いとは、どんな方法を使うかが肝心であって勝ち負けは二の次となる。
暗闘、苦闘、闘病など、困難な状況を乗り越える際に使う言葉であり、汚い手段を用いるかどうかで悩む必要はない。
到底、敵わないような『難敵』に対して挑むのだから。
◇
「阿国よ。
なぜ闘うことで開花すると思うのだ?」
「凛様の『使命』は……
荒木家に限らず、摂津国の全ての人々を信長様に従わせることです」
「うむ」
「ただし。
その使命を果たすには極めて困難な状況でしょう?
大名である村重様が……
摂津国を一つにするどころか、足元を治めることすら難渋しているからです」
「……」
「しかも。
荒木家にとって、凛様は『よそ者』に過ぎません」
「……」
「『この国をろくに知らない女子が何を申すか』
などと厳しい言葉を浴びせられる可能性もあるでしょう」
「……」
「凛様は感情の起伏が激しい御方。
心無い言葉に深く傷付き、強い諦めの気持ちに苛まれてもおかしくはありません」
「よそ者であるために『外』との闘いを強いられ……
己の弱さとの『内』なる闘いも強いられるのか」
【次節予告 第十節 敵を知り、己を知れば百戦危うからず】
父は娘にこう言います。
「利用され、騙され、欺かれ、操られて悲惨な目に合うのは……
誰かに付いていけばいいと『楽』をした結果であろう」
と。
今宵一晩、凛様にお時間を頂けませんか?」
これは前日に阿国が言った言葉である。
明智光秀の長女に生まれたことで、凛は決して逃れられない『宿命』を背負うこととなった。
それは余りにも辛くて重い。
気持ちを整理し、受け入れるための時間が必要であった。
そして、ついに……
長い夜が明けた。
◇
光秀はまず阿国を呼ぶ。
「阿国よ。
そなたには真に助けられた」
「侍女として当然のことをしたまでにございます。
光秀様」
「そなたがいなければ……
凛は、どうなっていたことか」
「ご心配には及びません。
凛様は賢い御方。
必ずや、己のすべきことが何であるかを理解なさるでしょう」
「そなたが付いていれば安心だ。
それでも。
まだ、わしには迷いがある」
「どんな迷いがあるのです?
光秀様」
「阿国よ。
『戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい』
この使命を全うするには……
強大な武力を持つ必要があった」
「存じております。
そのために、摂津国を手に入れる『策略』を巡らされたのでしょう?」
「その第一弾として。
わしは、荒木村重を摂津国の大名に据えることに成功してはいた。
ただし!
肝心の村重が、とてつもなく大きな問題に直面している」
「とてつもなく大きな問題?」
「国を統一できないことだ」
「国を統一できない?
国の統一を『邪魔する』、何か強大な勢力が存在していると?」
「うむ。
摂津国の石山[現在の大阪市中央区]という場所に、恐ろしく強大な勢力が……」
「摂津国の石山?
それは、本願寺教団のことでしょうか?」
この時代。
本願寺教団は、現在の大阪城付近に総本山を置いていた。
石山の地にある本山という意味で『石山本願寺』と呼ぶ。
宣教師のガスパル・ヴィレラは、この教団が当時の人々から絶大な人気を得ていたこと、加えて凄まじい財力も誇っていたことを以下のように語っている。
「本願寺の坊主は、日本の富の大部分を持っていた。
寺内町は2万人を超える人口を抱え、法座では大勢の民衆が集まって門に殺到するため、将棋倒しでいつも死者を出しているほどだ」
と。
◇
「本願寺教団は、大勢の信徒を抱えている。
摂津国中の信徒たちから集めた布施[寄付金のこと]は……
教団に莫大な財力をもたらし、数万人もの兵を雇うことまで可能にしたと聞く」
「覚えておいででしょうか?
光秀様。
わたしは、教団の信徒が非常に多い加賀国[現在の石川県]で生まれ育っております」
「阿国よ。
勿論、そなたのことは全て覚えているぞ。
教団への深い『恨み』を抱き続けていることも」
「……」
「加賀国を我が物にせんと信徒どもを扇動した教団は、国の支配者に対して反旗を翻した。
気の毒なことに……
その戦で発生した虐殺や略奪によって、そなたは戦災孤児となった」
「光秀様。
勢いに乗った教団は、加賀国のすべてを飲み込んでしまいました。
今や隣の越前国[現在の福井県]や越中国[現在の富山県]へも飛び火しているとか」
「うむ。
このままでは、隣国が飲み込まれるのも時間の問題だろう」
「教えてください。
荒木村重様を大名になされたのは……
摂津国が、加賀国と同じ結末になることを避けるためだったのですか?」
「そうだ。
良いか、阿国。
坊主とは……
俗世を離れて仏門に帰依した者のことであろう?
それがなぜ、数万人もの兵を雇って武力を用いることまでする?
俗世から全く離れておらんではないか!」
「わたしもそう思います。
神を知り、神を崇めるとの本分を忘れて教団の頂点にいる『人』に注目させ、俗世の象徴でもある『銭[お金]』集めと『政』への関わりに執着し、ときに『暴力』を使って己の主張を通すなど以ての外!
国の統一を邪魔する存在でしかない、あんな教団の存続を決して許すべきではありません」
「その通りだ。
わしは、こう考えた。
『このままでは……
摂津国が、教団の思うがままになってしまう。
手段を選んでいる場合ではない!』
とな」
「荒木村重様には、本願寺教団と関わりを持つ池田勝正、伊丹親興、茨木重朝ら、南蛮[スペインとポルトガルのこと]から伝来したカトリック教団と関わりを持つ和田惟政などの競争相手がいたと聞きます。
光秀様は、この4人の『抹殺』を決意なさったのですね?」
「そのために、わしは……
『印象操作』という手法を用いることにした」
「印象操作!?
4人の印象を下げ、人々が村重様を選ぶよう誘導なさったと?」
「うむ。
4人の重箱の隅をつついた[些細な部分にわざわざ注目して難癖をつけること]噂をバラ撒くことによってな」
「噂[デマ]を何でも真に受けてしまう人は大勢います。
4人を支持する人が減った一方で、村重様を支持する人は増えたことでしょう」
「ああ。
『悪辣』な手法だが、効果は絶大であった」
「村重様が一方的に4人を打ち破った……
白井河原の戦いは、光秀様が後ろで糸を引いておられたのですか」
「そうだ」
◇
類まれな智謀を持つ阿国は、光秀の策略がもたらした『副作用』の部分を正確に捉えていた。
「これでは……
村重様が、ご自身の『実力』で大名の地位を得ていないことになってしまいますが」
こう続く。
「いや。
むしろ……
村重様に、摂津国を統一する実力など全く『ない』のでしょう?」
「……」
「国を統一するどころか、足元を治めることすら難渋しているのでは?」
「阿国よ。
そなたの類まれな智謀には、ときどき恐ろしさすら感じる……
先の先まで読む『眼力』が尋常ではない」
「……」
「話を戻そう。
村重は元々、数ある国衆[独立した領主のこと]の一つである池田一族の家臣に過ぎなかった。
それが主を牛耳り、やがて主そのものも乗っ取った」
「『下剋上』で成り上がったと?」
「そうだ」
「光秀様。
そんな成り上がり者を、国の支配者と認める国衆がいるのでしょうか?」
「……」
「誰一人としていないのでは?」
「阿国よ。
すべて、そなたの申す通り……
村重を国の支配者と認める国衆など誰一人としていない。
国を一つにするどころか、足元を治めることすら難渋している」
「だからこそ迷われておいでなのでしょう?
そんな『危険』な場所へ、凛様を行かせて良いのかどうかを」
「……」
◇
迷う光秀の背中を、阿国が強く押し始めた。
「凛様は、わたしが命に代えてもお守りします。
それよりも……
このようにお考えになってはいかがですか?
これは、凛様の持つ才能を開花させる絶好の機会であると」
阿国は何と、危険な場所へ行かせることを絶好の機会[チャンス]だと言い切ったのだ!
これには光秀も驚きを隠せない。
「阿国よ。
これが、才能を開花させる絶好の機会[チャンス]だと申すのか?」
「凛様は物事の『本質』を見抜く才能をお持ちです。
ただし、今はまだ才能を開花させていません。
この才能は……
困難な状況の中で闘うことで、ようやく開花するものだからです」
『戦い』と『闘い』は違う。
戦いとは、勝ち負けを決めるために争うことを意味する。
だからこそ絶対に勝たねばならない。
勝つためなら、どんなに汚い手段を用いたって構わない。
正々堂々と正面から挑むなど、頭の中に一面のお花畑が咲いているおめでたい人間か、平和ボケしたズブの素人がやることだ。
むしろ。
誰かを利用し、煽り、唆し、騙し、欺き、操って相手を罠に嵌めることこそ肝心である。
一方。
闘いとは、どんな方法を使うかが肝心であって勝ち負けは二の次となる。
暗闘、苦闘、闘病など、困難な状況を乗り越える際に使う言葉であり、汚い手段を用いるかどうかで悩む必要はない。
到底、敵わないような『難敵』に対して挑むのだから。
◇
「阿国よ。
なぜ闘うことで開花すると思うのだ?」
「凛様の『使命』は……
荒木家に限らず、摂津国の全ての人々を信長様に従わせることです」
「うむ」
「ただし。
その使命を果たすには極めて困難な状況でしょう?
大名である村重様が……
摂津国を一つにするどころか、足元を治めることすら難渋しているからです」
「……」
「しかも。
荒木家にとって、凛様は『よそ者』に過ぎません」
「……」
「『この国をろくに知らない女子が何を申すか』
などと厳しい言葉を浴びせられる可能性もあるでしょう」
「……」
「凛様は感情の起伏が激しい御方。
心無い言葉に深く傷付き、強い諦めの気持ちに苛まれてもおかしくはありません」
「よそ者であるために『外』との闘いを強いられ……
己の弱さとの『内』なる闘いも強いられるのか」
【次節予告 第十節 敵を知り、己を知れば百戦危うからず】
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