10 / 64
第壱章 前夜、凛の章
第十節 敵を知り、己を知れば百戦危うからず
しおりを挟む
全て、阿国の言う通りであった。
明智光秀によって摂津国の主である大名の地位に据えられた荒木村重が……
国を一つにするどころか、足元を治めることすら難渋しているからだ。
しかも。
嫁ぎ先の荒木家にとって、凛は『よそ者』に過ぎない。
「荒木家に限らず、摂津国の全ての人々を信長様に従わせること」
この使命を果たすには極めて困難な状況だと言わざるを得ない。
むしろ、絶望的な状況だと言った方が正解かもしれない。
◇
「光秀様。
『この国をろくに知らない女子が何を申すか』
などと、荒木家の一族や家臣から厳しい言葉を浴びせられる可能性もあるでしょう」
「……」
「凛様は感情の起伏が激しい御方。
心無い言葉に深く傷付き、強い諦めの気持ちに苛まれてもおかしくはありません」
「よそ者であるために『外』との闘いを強いられ……
己の弱さとの『内』なる闘いも強いられるのか」
「はい。
この状況を打破するには、己の感情や目先のことに囚われず、己の『目的』が何かを見失わないことが肝心です。
国を一つにすることが目的であって、争いの種を撒くことが目的ではないからです」
「その通りだ。
誰かが吐く心無い言葉にいちいち腹を立て、そういう者を全て敵と見なしてしまうようでは……
使命を果たすどころか、争いの種を撒き散らすだけの存在に成り果ててしまうからな。
『辛抱』が試されるときぞ」
「辛抱強くあるためには……
こう考えることが大事だと思っています。
『なぜ、そんな言葉を吐いてしまったのか?
相手が辛い状況に置かれているからか?
あるいは己のどこかに過ちがあり、知らずに相手を傷付けてしまっていたからなのか?』
と」
「そうやって常に『相手の立場』になって考えていれば、結果として人々を一つにし、大きな成功を収めることができるだろう。
阿国よ。
素晴らしい考え方ではないか」
「有難き幸せです。
光秀様」
「仮に『正しい』ことだとしても。
己の正しさだけを押し付ける、中身が子供のまま歳だけ取ったような愚か者は……
人々を一つにするどころか、争いを引き起こすだけの有害な存在でしかない」
「『正しさに拘ってはならん』
口癖のように、光秀様は何度も仰っていました」
「ははは!
よく覚えているのう」
「正しさに拘るよりも、相手の立場になって考え、他人から謙虚に学ぶことで……
人は『成長』するものでしょう?」
「その通りだ!
この困難な状況は、凛を成長させる絶好の機会[チャンス]となるに違いない!」
「はい、必ずや……!」
「阿国。
そなたを我が家に迎えられて真に良かった」
「あ……
わたしも、光秀様のお側でお仕えできて……」
阿国は光秀を正視できなくなった。
何か秘めたる想いを抱えているのだろうか?
「阿国。
凛のこと、改めて頼む」
阿国は……
光秀の亡き妻・煕子とは正反対の、陰のある女性であった。
吹けば消えてしまうような透明感と、守るべき存在と男に認識させるような儚げな雰囲気があり、黒髪がやけに似合っている。
加えて、一緒にいると妙に落ち着くのだ。
一種の強烈な魅力の持ち主だとも言えるだろう。
阿国を見た男の多くが、彼女を『女』として見ていたに違いない。
既に亡くなっているとはいえ……
妻を殊の外愛していた光秀も、彼女を女として見たことは一度や二度ではなかった。
彼女の想いも知っている。
それでも、自分の気持ちに蓋をして過ごしてきた。
笑顔を見せつつ下がらせた。
◇
本質を見抜く能力。
これは、真実を見抜く能力とは全く違う。
真実を見抜く能力は……
単に本当のことを見抜けるだけでしかない。
問題の原因を探る『糸口』になるだけで、問題そのものを解決することはできない。
「それが真実ですか。
それで、どうするんですか?」
まさしくこれである。
ただし。
SNSとAIの発達によりデマ情報が世に溢れ、対策よりも利益を優先する強欲なプラットフォーマーのせいで情報を真に受けた大勢の人間が騙されている現代においては、真実であることも一定の価値はあるのだろうが。
一方の、本質を見抜く能力は……
背景や特徴、目的、理由などの全体観を掴み、俯瞰的に見て、何を優先すべきかを正確に見極める能力を意味する。
問題そのものを解決することができる。
表面的に、あるいは一部を知っただけでは全体観を掴むことなどできない。
『全て』を知らなければならない。
本質を見抜くことには、相当な労力が伴うのだ。
阿国は、それも含めて『闘い』と表現した。
◇
本質を見抜く能力。
これを、『洞察力』とも言う。
「闘ってまで身に付ける必要などない。
地位のある人、有名な人、影響力のある人に付いていけばいいのだから」
こういう意見も多いだろうが……
大きな疑問を感じる。
「高い地位に就いている人。
あるいは、メディアに出ている有名な人。
あるいは、影響力のあるインフルエンサー。
これらの人の話なら全てを真に受け、全てを鵜呑みしても良いと考えているのだろうか?
残念ながら。
彼らは、彼女らは……
勿論、全ての人がそうではないが……
『世襲[親から子へ相続すること]』によって地位を受け継いだだけかもしれない。
あるいは、単に『目立つ』才能を有していただけかもしれない。
他にも。
何の目的もなく、何の信念もなく……
普通の人が名乗り出て言えないような、他人の重箱の隅をつつくような非難を『代弁』したことで大勢の人々をすっきりさせ、ついには影響力を持つに至った中身のない人かもしれない。
そもそも洞察力のない人が、誰が洞察力の持ち主なのかをどうやって見分けるのだろう?」
と。
一方で、凛の方は……
洞察力を身に着けたいと願う傾向が非常に強い女性だと言える。
「なぜ?」
「どうして?」
常にこう問いているからである。
まるで隠された宝物を夢中で探しているかのようだ。
宝物を見付けるためには、どんな労力も厭わない。
光秀も阿国も……
凛は、洞察力において稀有の才能があると感じていた。
◇
一晩ずっと泣き続けたせいなのだろうか?
愛娘は、泣き腫らした目をしていた。
父は歩み寄りを見せる。
「凛……
わしも、叶うことならそなたをずっと側に置きたい。
もう一度、信長様に訴えることもできるが?」
娘はもう甘えるつもりがないようだ。
「わたくしの使命は……
荒木家に限らず、摂津国の全ての人々を信長様に従わせることでしょう?」
「うむ。
行ってくれるのか?」
「わたくしは……
ずっと探していました。
『人は、特別な存在なのでは?
何らかの意図を以って生み出され、果たすべき使命を与えられていると考える方が自然でしょう?
銭[お金]を増やすこと、楽しむこと、有名になること、このことばかりを追求する生き方が、人らしい生き方であるはずがない!
そうならば……
わたしは、どんな生き方をすればいいの?』
と。
この答えはまだ見付かりません。
でも。
その前に……
わたくしは、父上の娘でしょう?」
「凛……」
「宿命には逆らえないのでしょう?」
「……」
「行きます」
父は娘を改めて見た。
同じ年齢だったときの自分は、こんなにもしっかりしていただろうか?
娘とは……
父が思う以上に成長するものなのだろうか。
早くに母を亡くしたことが、よりしっかりとさせたのかもしれない。
感心すると同時に強い頼もしさを覚えた。
覚悟を見せた愛娘に対して、光秀は一つの質問をする。
「では問おう。
そなたが闘うべき『真の敵』とは、誰なのか?」
「誰……?
信長様に従わない者たちのことです?」
「信長様のなさることが常に正しいとは限らんぞ?
人は誰もが間違いを犯すのだからな。
己よりも立場が上だから、己の尊敬する相手だからと、全てを真に受けるのは愚か者がすることよ。
真摯に学ぶことを怠り、己の頭で筋道を立てて考えることを怠り、誰かに付いていけばいいと『楽』をしているから……
煽られ、唆され、利用され、操られ、騙され、欺かれて悲惨な目に合うのだ。
自業自得ではないか」
「わたくしは、もっと敵を知り……
真の敵が誰なのかを正確に見分ける能力を身に着ける必要があるのですね」
「孫子の兵法にもある」
「『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』……」
「そなたに、2つのことを教えよう。
まず1つ目は……
『戦いの黒幕』という敵のこと」
「戦いの黒幕?」
「そして2つ目は……
黒幕を生み出した『歴史』についてだ」
戦国時代屈指の策略家・明智光秀。
この娘として生を受けた凛は、学ぶ機会に非常に恵まれていた女性であるとも言えるだろう。
凛はまだ何も知らない。
やがて自分自身の才能を見事に開花させ、戦国乱世に終止符を打つ『女帝』の誕生に深く関わっていくことを……
第壱章 前夜、凛の章 終わり
明智光秀によって摂津国の主である大名の地位に据えられた荒木村重が……
国を一つにするどころか、足元を治めることすら難渋しているからだ。
しかも。
嫁ぎ先の荒木家にとって、凛は『よそ者』に過ぎない。
「荒木家に限らず、摂津国の全ての人々を信長様に従わせること」
この使命を果たすには極めて困難な状況だと言わざるを得ない。
むしろ、絶望的な状況だと言った方が正解かもしれない。
◇
「光秀様。
『この国をろくに知らない女子が何を申すか』
などと、荒木家の一族や家臣から厳しい言葉を浴びせられる可能性もあるでしょう」
「……」
「凛様は感情の起伏が激しい御方。
心無い言葉に深く傷付き、強い諦めの気持ちに苛まれてもおかしくはありません」
「よそ者であるために『外』との闘いを強いられ……
己の弱さとの『内』なる闘いも強いられるのか」
「はい。
この状況を打破するには、己の感情や目先のことに囚われず、己の『目的』が何かを見失わないことが肝心です。
国を一つにすることが目的であって、争いの種を撒くことが目的ではないからです」
「その通りだ。
誰かが吐く心無い言葉にいちいち腹を立て、そういう者を全て敵と見なしてしまうようでは……
使命を果たすどころか、争いの種を撒き散らすだけの存在に成り果ててしまうからな。
『辛抱』が試されるときぞ」
「辛抱強くあるためには……
こう考えることが大事だと思っています。
『なぜ、そんな言葉を吐いてしまったのか?
相手が辛い状況に置かれているからか?
あるいは己のどこかに過ちがあり、知らずに相手を傷付けてしまっていたからなのか?』
と」
「そうやって常に『相手の立場』になって考えていれば、結果として人々を一つにし、大きな成功を収めることができるだろう。
阿国よ。
素晴らしい考え方ではないか」
「有難き幸せです。
光秀様」
「仮に『正しい』ことだとしても。
己の正しさだけを押し付ける、中身が子供のまま歳だけ取ったような愚か者は……
人々を一つにするどころか、争いを引き起こすだけの有害な存在でしかない」
「『正しさに拘ってはならん』
口癖のように、光秀様は何度も仰っていました」
「ははは!
よく覚えているのう」
「正しさに拘るよりも、相手の立場になって考え、他人から謙虚に学ぶことで……
人は『成長』するものでしょう?」
「その通りだ!
この困難な状況は、凛を成長させる絶好の機会[チャンス]となるに違いない!」
「はい、必ずや……!」
「阿国。
そなたを我が家に迎えられて真に良かった」
「あ……
わたしも、光秀様のお側でお仕えできて……」
阿国は光秀を正視できなくなった。
何か秘めたる想いを抱えているのだろうか?
「阿国。
凛のこと、改めて頼む」
阿国は……
光秀の亡き妻・煕子とは正反対の、陰のある女性であった。
吹けば消えてしまうような透明感と、守るべき存在と男に認識させるような儚げな雰囲気があり、黒髪がやけに似合っている。
加えて、一緒にいると妙に落ち着くのだ。
一種の強烈な魅力の持ち主だとも言えるだろう。
阿国を見た男の多くが、彼女を『女』として見ていたに違いない。
既に亡くなっているとはいえ……
妻を殊の外愛していた光秀も、彼女を女として見たことは一度や二度ではなかった。
彼女の想いも知っている。
それでも、自分の気持ちに蓋をして過ごしてきた。
笑顔を見せつつ下がらせた。
◇
本質を見抜く能力。
これは、真実を見抜く能力とは全く違う。
真実を見抜く能力は……
単に本当のことを見抜けるだけでしかない。
問題の原因を探る『糸口』になるだけで、問題そのものを解決することはできない。
「それが真実ですか。
それで、どうするんですか?」
まさしくこれである。
ただし。
SNSとAIの発達によりデマ情報が世に溢れ、対策よりも利益を優先する強欲なプラットフォーマーのせいで情報を真に受けた大勢の人間が騙されている現代においては、真実であることも一定の価値はあるのだろうが。
一方の、本質を見抜く能力は……
背景や特徴、目的、理由などの全体観を掴み、俯瞰的に見て、何を優先すべきかを正確に見極める能力を意味する。
問題そのものを解決することができる。
表面的に、あるいは一部を知っただけでは全体観を掴むことなどできない。
『全て』を知らなければならない。
本質を見抜くことには、相当な労力が伴うのだ。
阿国は、それも含めて『闘い』と表現した。
◇
本質を見抜く能力。
これを、『洞察力』とも言う。
「闘ってまで身に付ける必要などない。
地位のある人、有名な人、影響力のある人に付いていけばいいのだから」
こういう意見も多いだろうが……
大きな疑問を感じる。
「高い地位に就いている人。
あるいは、メディアに出ている有名な人。
あるいは、影響力のあるインフルエンサー。
これらの人の話なら全てを真に受け、全てを鵜呑みしても良いと考えているのだろうか?
残念ながら。
彼らは、彼女らは……
勿論、全ての人がそうではないが……
『世襲[親から子へ相続すること]』によって地位を受け継いだだけかもしれない。
あるいは、単に『目立つ』才能を有していただけかもしれない。
他にも。
何の目的もなく、何の信念もなく……
普通の人が名乗り出て言えないような、他人の重箱の隅をつつくような非難を『代弁』したことで大勢の人々をすっきりさせ、ついには影響力を持つに至った中身のない人かもしれない。
そもそも洞察力のない人が、誰が洞察力の持ち主なのかをどうやって見分けるのだろう?」
と。
一方で、凛の方は……
洞察力を身に着けたいと願う傾向が非常に強い女性だと言える。
「なぜ?」
「どうして?」
常にこう問いているからである。
まるで隠された宝物を夢中で探しているかのようだ。
宝物を見付けるためには、どんな労力も厭わない。
光秀も阿国も……
凛は、洞察力において稀有の才能があると感じていた。
◇
一晩ずっと泣き続けたせいなのだろうか?
愛娘は、泣き腫らした目をしていた。
父は歩み寄りを見せる。
「凛……
わしも、叶うことならそなたをずっと側に置きたい。
もう一度、信長様に訴えることもできるが?」
娘はもう甘えるつもりがないようだ。
「わたくしの使命は……
荒木家に限らず、摂津国の全ての人々を信長様に従わせることでしょう?」
「うむ。
行ってくれるのか?」
「わたくしは……
ずっと探していました。
『人は、特別な存在なのでは?
何らかの意図を以って生み出され、果たすべき使命を与えられていると考える方が自然でしょう?
銭[お金]を増やすこと、楽しむこと、有名になること、このことばかりを追求する生き方が、人らしい生き方であるはずがない!
そうならば……
わたしは、どんな生き方をすればいいの?』
と。
この答えはまだ見付かりません。
でも。
その前に……
わたくしは、父上の娘でしょう?」
「凛……」
「宿命には逆らえないのでしょう?」
「……」
「行きます」
父は娘を改めて見た。
同じ年齢だったときの自分は、こんなにもしっかりしていただろうか?
娘とは……
父が思う以上に成長するものなのだろうか。
早くに母を亡くしたことが、よりしっかりとさせたのかもしれない。
感心すると同時に強い頼もしさを覚えた。
覚悟を見せた愛娘に対して、光秀は一つの質問をする。
「では問おう。
そなたが闘うべき『真の敵』とは、誰なのか?」
「誰……?
信長様に従わない者たちのことです?」
「信長様のなさることが常に正しいとは限らんぞ?
人は誰もが間違いを犯すのだからな。
己よりも立場が上だから、己の尊敬する相手だからと、全てを真に受けるのは愚か者がすることよ。
真摯に学ぶことを怠り、己の頭で筋道を立てて考えることを怠り、誰かに付いていけばいいと『楽』をしているから……
煽られ、唆され、利用され、操られ、騙され、欺かれて悲惨な目に合うのだ。
自業自得ではないか」
「わたくしは、もっと敵を知り……
真の敵が誰なのかを正確に見分ける能力を身に着ける必要があるのですね」
「孫子の兵法にもある」
「『敵を知り、己を知れば百戦危うからず』……」
「そなたに、2つのことを教えよう。
まず1つ目は……
『戦いの黒幕』という敵のこと」
「戦いの黒幕?」
「そして2つ目は……
黒幕を生み出した『歴史』についてだ」
戦国時代屈指の策略家・明智光秀。
この娘として生を受けた凛は、学ぶ機会に非常に恵まれていた女性であるとも言えるだろう。
凛はまだ何も知らない。
やがて自分自身の才能を見事に開花させ、戦国乱世に終止符を打つ『女帝』の誕生に深く関わっていくことを……
第壱章 前夜、凛の章 終わり
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
10
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる