42 / 64
第参章 武田軍侵攻、策略の章
第四十節 戦国乱世を望む、大勢の人々
しおりを挟む
野田城[現在の愛知県新城市]という小さな城を『ゆっくり』と攻めていた武田信玄の元に、近江国[現在の滋賀県]へと放っていた密偵[スパイのこと]が続々と帰還して来る。
四郎勝頼を同席させた上で聞いた、その報告内容は驚くべきものであった。
「何っ!?
朝倉軍2万人は、既に『撤退』を開始しただと?」
「誠に残念ですが……
近江国の商人から買った兵糧が全く届かず、兵が飢えて軍の体を成さなくなったようです」
「そんな馬鹿な!
琵琶湖を使った水運も、陸路を使って運ぶ陸運も、両方とも封じられたのか?」
「御意」
「織田信長は、どんな方法を用いたのじゃ?」
「織田信長ではありません」
「信長ではない!?」
「2人の家臣、明智光秀と木下秀吉によってです」
「明智と木下?
先祖代々から織田家に仕えた一族ではないが、その実力を認められて重用された男だな」
「比叡山焼き討ちの功績を織田信長から高く評価され、琵琶湖の西側を与えられた明智光秀は……
まず坂本の地に巨大な船着き場を築き、商人たちに自由に使わせました」
「自由に?
銭[お金]も取らずにか?」
「その通りです」
「恐らく近江国の商人たちは……
モノを運ぶのに必要な銭[運賃のこと]が安くなると考え、嬉々として船を大きくし、琵琶湖を通る全てのモノを自らせっせと坂本の地へ集めたのであろう?」
「ご推察お見事です」
「間抜けにも程があるぞ!
まんまと明智に『欺かれ』、琵琶湖を使った水運を全て掌握されおって……
目先の利益しか見えない役立たずの能無しどもが!」
ここで勝頼が密偵に対して質問した。
「明智光秀なる男、相当な切れ者のようだな。
ところで。
木下秀吉という『武士』など聞いたこともないが、どの国から流れて来た武士なのか?」
「それが武士ではないのです。
噂によると、行商人の親玉だとか」
「行商人の親玉だと!?
行商人は運ぶ者と関係あるどころか、むしろ運ぶ者そのものではないか。
まさか織田信長は……
運ぶ者たちを掌握する『ため』に、木下秀吉なる者を家臣にしたと?」
「恐らくそうでしょう」
「し、しかし!
そんな非常識なことが通用するのか?
武士でもない者を家臣にするなど、先祖代々から織田家に仕えた者たちが黙っているはずがない」
「仰る通り、木下秀吉には敵が多いようです。
筆頭級の家臣である佐久間信盛、林秀貞、柴田勝家などから大いに嫌われているとか」
「家臣の中に不和の種を残してでも、敵の補給を断つことを優先するのか!
織田信長はどこまで『徹底的』なのだ……」
「信玄様。
勝頼様。
実はもう一つ、ご報告したきことが」
「申してみよ」
信玄である。
「朝倉軍2万人が越前国[現在の福井県]へと撤退を開始したことで……
織田軍が続々と尾張国と三河国との国境、刈谷城[現在の愛知県刈谷市]に集結しつつあります」
「数は?」
「4万とも、5万とも」
「全軍をこちらへ向けてきたと!」
「父上。
朝倉義景殿は、本拠地の越前国から近江国[現在の滋賀県]への『非常に険しい山道』での補給の体制を整えない限り……
次の出兵はできませんぞ」
「下手すれば、次の出兵は数年後か!」
「御意。
非常に険しい山道を整備し、運ぶための人と道具を確保するには……
非常に『長い』時間を必要としますから」
「息子よ。
相済まぬことをした。
やはり、そなたの申す通りにすべきであった。
ここ野田城[現在の愛知県新城市]から程近い刈谷城[現在の愛知県刈谷市]に織田軍が4万とも、5万とも集結しつつある状況では……
家康の生命線である高天神城も、家康の居城である浜松城も、総攻撃する『時間』がない」
「……」
「わしは戦力温存を気にするあまり、徳川家康を討つ好機をまんまと逃してしまったのか!」
武田信玄は、自分が立てた西上作戦が完全に破綻したことを知った。
◇
父と息子は2人になった。
「父上。
西上作戦の破綻は致し方ないことと存じます。
織田信長、明智光秀、そして木下秀吉の3人が強すぎたのです。
今こそ……
新たな作戦を立てるべき時ではありませんか?
武田軍『だけ』で、織田信長と徳川家康の両方に勝利する作戦を」
「息子よ。
もう少し待って欲しい」
「何を?」
「わしは必ず、朝倉軍に代わって織田の大軍を釘付けにできる勢力を用意して見せる」
「朝倉軍に代わる勢力とは……
誰です?」
「西上作戦の第一段階は、まだ瓦解していない」
「第一段階?
室町幕府を味方に付けて、大義名分を得ることですか?」
「うむ。
既に、将軍の足利義昭公より日ノ本中の大名へ『信長討伐命令』を出させることには成功している」
「ですが父上。
信長討伐命令に従って兵を出した、まともな大名は……
既に信長の敵であった朝倉家と浅井家『だけ』だったではありませんか」
「いや、まだいる」
「他に誰がいるのです?」
「安芸国[現在の広島県]の毛利家、出雲国[現在の島根県]の尼子家、備前国[現在の岡山県]の宇喜多家、播磨国[現在の兵庫県]の赤松家、伯耆国[現在の鳥取県]と但馬国[現在の兵庫県豊岡市、養父市など]の山名家、阿波国[現在の徳島県]の細川家、土佐国[現在の高知県]の長宗我部家。
織田信長を西から討つことができる大名は、これだけいる」
「はっきりと申し上げますが……
どの大名も兵を出すことはありますまい」
「息子よ。
なぜそうなる?
武士の頂点に君臨する、室町幕府の討伐命令ぞ?」
「父上。
信長が出した『異見十七ヶ条』をご存知でしょう?」
「異見十七々条?
室町幕府への非難を17も並べたものか」
「大まかな内容は……
帝[天皇のこと]を疎かにして秩序を軽んじ、大名に援助という名の賄賂を要求し、貪欲にも公家[当時の貴族のこと]や寺社の財産を横領し、働く者に支払う給料が公平ではなく、飢饉などで米が値上がりすると米を転売して金儲けをしている、などです」
「それがどうした?
幕府を貶める目的で書かれたものであろう?
『大名』たちがそんな内容を真に受けるとは思えん」
「これは……
大名だけに出したものではありません」
「大名だけではない!?」
「織田信長は、莫大な銭[お金]を投じて大量に書き写しました。
大名に加えて『民』にもばらまいたのです」
「民にも!?
それで、どうなった?」
「読んだ者たちはこう考えませんでした。
『どういう目的で書かれ、大量に書き写され、大量にばらまかれたのか?』
と」
「何っ!?」
「これを読んだ民は……
正義感に駆られて拡散し、より多くの民に広めました。
幕府を非難する声が世に満ち溢れ、幕府の名は地に堕ちました」
「……」
「一方。
大勢の民が、織田信長を称賛する声を上げました」
「……」
「国を治める大名といえども、ここまで大きくなった民の声を無視できません。
幕府の要請に応えて兵を出すことなどできないのです」
「息子よ。
織田信長は、ただの紙切れで大名たちの動きを見事に封じて見せたと申すのか?」
「御意」
◇
信玄は、勝頼の言っていることが理解できないようだ。
「そんな馬鹿な!?
民がただの紙切れを信じ込んだ程度で、大名が兵を出せないだと?」
「はい」
「戦によって利益を得ているのは、何も武器商人だけではない。
大勢の『人々』が槍や刀などの武器、身を守る盾、弓矢や弾丸などの消耗品、甲冑や衣服などを作る仕事をしている」
「……」
「加えて。
武器の原料となる鉄、盾の原料となる木材や竹、衣服の原料となる木綿などを作る仕事もある。
さらに旗、幕、兵が寝る道具、兵糧を入れる箱や紙、水筒作りまである」
「戦は……
ありとあらゆる人々の『生活』を支えていると仰りたいのですか?」
「息子よ。
戦が無くなれば、大勢の人々が仕事を失って路頭に迷うことになるぞ?」
「……」
「戦国乱世を嘆き、平和な世の実現を望む人々はいる。
ただし!
全ての人が望んでいるわけではない。
戦で銭[お金]を儲けている人々は、むしろ戦国乱世が『続く』ことを望んでいる」
「……」
「幕府は今まで数多くの討伐命令を出してきた。
勿論、幕府に逆らう賊を討伐する目的もあったが……」
「討伐命令とは、戦を望む者たちに撒かれた『餌』でもあるのでしょう?
正義の名の下に堂々と戦ができますからな」
「うむ。
その通りよ」
「戦国乱世が続くことを望む、大勢の人々がいること。
それがしもよく分かっております。
ですが……
父上。
戦で儲けた銭[お金]が、すべての人々へ『公平』に行き渡っているとお思いですか?」
【次節予告 第四十一節 戦国乱世で広がる格差社会】
四郎勝頼はこう答えます。
「この戦国乱世は、100年以上に亘って続いています。
公平でない状態のまま、非常に長い『時間』が経っているのです」
と。
四郎勝頼を同席させた上で聞いた、その報告内容は驚くべきものであった。
「何っ!?
朝倉軍2万人は、既に『撤退』を開始しただと?」
「誠に残念ですが……
近江国の商人から買った兵糧が全く届かず、兵が飢えて軍の体を成さなくなったようです」
「そんな馬鹿な!
琵琶湖を使った水運も、陸路を使って運ぶ陸運も、両方とも封じられたのか?」
「御意」
「織田信長は、どんな方法を用いたのじゃ?」
「織田信長ではありません」
「信長ではない!?」
「2人の家臣、明智光秀と木下秀吉によってです」
「明智と木下?
先祖代々から織田家に仕えた一族ではないが、その実力を認められて重用された男だな」
「比叡山焼き討ちの功績を織田信長から高く評価され、琵琶湖の西側を与えられた明智光秀は……
まず坂本の地に巨大な船着き場を築き、商人たちに自由に使わせました」
「自由に?
銭[お金]も取らずにか?」
「その通りです」
「恐らく近江国の商人たちは……
モノを運ぶのに必要な銭[運賃のこと]が安くなると考え、嬉々として船を大きくし、琵琶湖を通る全てのモノを自らせっせと坂本の地へ集めたのであろう?」
「ご推察お見事です」
「間抜けにも程があるぞ!
まんまと明智に『欺かれ』、琵琶湖を使った水運を全て掌握されおって……
目先の利益しか見えない役立たずの能無しどもが!」
ここで勝頼が密偵に対して質問した。
「明智光秀なる男、相当な切れ者のようだな。
ところで。
木下秀吉という『武士』など聞いたこともないが、どの国から流れて来た武士なのか?」
「それが武士ではないのです。
噂によると、行商人の親玉だとか」
「行商人の親玉だと!?
行商人は運ぶ者と関係あるどころか、むしろ運ぶ者そのものではないか。
まさか織田信長は……
運ぶ者たちを掌握する『ため』に、木下秀吉なる者を家臣にしたと?」
「恐らくそうでしょう」
「し、しかし!
そんな非常識なことが通用するのか?
武士でもない者を家臣にするなど、先祖代々から織田家に仕えた者たちが黙っているはずがない」
「仰る通り、木下秀吉には敵が多いようです。
筆頭級の家臣である佐久間信盛、林秀貞、柴田勝家などから大いに嫌われているとか」
「家臣の中に不和の種を残してでも、敵の補給を断つことを優先するのか!
織田信長はどこまで『徹底的』なのだ……」
「信玄様。
勝頼様。
実はもう一つ、ご報告したきことが」
「申してみよ」
信玄である。
「朝倉軍2万人が越前国[現在の福井県]へと撤退を開始したことで……
織田軍が続々と尾張国と三河国との国境、刈谷城[現在の愛知県刈谷市]に集結しつつあります」
「数は?」
「4万とも、5万とも」
「全軍をこちらへ向けてきたと!」
「父上。
朝倉義景殿は、本拠地の越前国から近江国[現在の滋賀県]への『非常に険しい山道』での補給の体制を整えない限り……
次の出兵はできませんぞ」
「下手すれば、次の出兵は数年後か!」
「御意。
非常に険しい山道を整備し、運ぶための人と道具を確保するには……
非常に『長い』時間を必要としますから」
「息子よ。
相済まぬことをした。
やはり、そなたの申す通りにすべきであった。
ここ野田城[現在の愛知県新城市]から程近い刈谷城[現在の愛知県刈谷市]に織田軍が4万とも、5万とも集結しつつある状況では……
家康の生命線である高天神城も、家康の居城である浜松城も、総攻撃する『時間』がない」
「……」
「わしは戦力温存を気にするあまり、徳川家康を討つ好機をまんまと逃してしまったのか!」
武田信玄は、自分が立てた西上作戦が完全に破綻したことを知った。
◇
父と息子は2人になった。
「父上。
西上作戦の破綻は致し方ないことと存じます。
織田信長、明智光秀、そして木下秀吉の3人が強すぎたのです。
今こそ……
新たな作戦を立てるべき時ではありませんか?
武田軍『だけ』で、織田信長と徳川家康の両方に勝利する作戦を」
「息子よ。
もう少し待って欲しい」
「何を?」
「わしは必ず、朝倉軍に代わって織田の大軍を釘付けにできる勢力を用意して見せる」
「朝倉軍に代わる勢力とは……
誰です?」
「西上作戦の第一段階は、まだ瓦解していない」
「第一段階?
室町幕府を味方に付けて、大義名分を得ることですか?」
「うむ。
既に、将軍の足利義昭公より日ノ本中の大名へ『信長討伐命令』を出させることには成功している」
「ですが父上。
信長討伐命令に従って兵を出した、まともな大名は……
既に信長の敵であった朝倉家と浅井家『だけ』だったではありませんか」
「いや、まだいる」
「他に誰がいるのです?」
「安芸国[現在の広島県]の毛利家、出雲国[現在の島根県]の尼子家、備前国[現在の岡山県]の宇喜多家、播磨国[現在の兵庫県]の赤松家、伯耆国[現在の鳥取県]と但馬国[現在の兵庫県豊岡市、養父市など]の山名家、阿波国[現在の徳島県]の細川家、土佐国[現在の高知県]の長宗我部家。
織田信長を西から討つことができる大名は、これだけいる」
「はっきりと申し上げますが……
どの大名も兵を出すことはありますまい」
「息子よ。
なぜそうなる?
武士の頂点に君臨する、室町幕府の討伐命令ぞ?」
「父上。
信長が出した『異見十七ヶ条』をご存知でしょう?」
「異見十七々条?
室町幕府への非難を17も並べたものか」
「大まかな内容は……
帝[天皇のこと]を疎かにして秩序を軽んじ、大名に援助という名の賄賂を要求し、貪欲にも公家[当時の貴族のこと]や寺社の財産を横領し、働く者に支払う給料が公平ではなく、飢饉などで米が値上がりすると米を転売して金儲けをしている、などです」
「それがどうした?
幕府を貶める目的で書かれたものであろう?
『大名』たちがそんな内容を真に受けるとは思えん」
「これは……
大名だけに出したものではありません」
「大名だけではない!?」
「織田信長は、莫大な銭[お金]を投じて大量に書き写しました。
大名に加えて『民』にもばらまいたのです」
「民にも!?
それで、どうなった?」
「読んだ者たちはこう考えませんでした。
『どういう目的で書かれ、大量に書き写され、大量にばらまかれたのか?』
と」
「何っ!?」
「これを読んだ民は……
正義感に駆られて拡散し、より多くの民に広めました。
幕府を非難する声が世に満ち溢れ、幕府の名は地に堕ちました」
「……」
「一方。
大勢の民が、織田信長を称賛する声を上げました」
「……」
「国を治める大名といえども、ここまで大きくなった民の声を無視できません。
幕府の要請に応えて兵を出すことなどできないのです」
「息子よ。
織田信長は、ただの紙切れで大名たちの動きを見事に封じて見せたと申すのか?」
「御意」
◇
信玄は、勝頼の言っていることが理解できないようだ。
「そんな馬鹿な!?
民がただの紙切れを信じ込んだ程度で、大名が兵を出せないだと?」
「はい」
「戦によって利益を得ているのは、何も武器商人だけではない。
大勢の『人々』が槍や刀などの武器、身を守る盾、弓矢や弾丸などの消耗品、甲冑や衣服などを作る仕事をしている」
「……」
「加えて。
武器の原料となる鉄、盾の原料となる木材や竹、衣服の原料となる木綿などを作る仕事もある。
さらに旗、幕、兵が寝る道具、兵糧を入れる箱や紙、水筒作りまである」
「戦は……
ありとあらゆる人々の『生活』を支えていると仰りたいのですか?」
「息子よ。
戦が無くなれば、大勢の人々が仕事を失って路頭に迷うことになるぞ?」
「……」
「戦国乱世を嘆き、平和な世の実現を望む人々はいる。
ただし!
全ての人が望んでいるわけではない。
戦で銭[お金]を儲けている人々は、むしろ戦国乱世が『続く』ことを望んでいる」
「……」
「幕府は今まで数多くの討伐命令を出してきた。
勿論、幕府に逆らう賊を討伐する目的もあったが……」
「討伐命令とは、戦を望む者たちに撒かれた『餌』でもあるのでしょう?
正義の名の下に堂々と戦ができますからな」
「うむ。
その通りよ」
「戦国乱世が続くことを望む、大勢の人々がいること。
それがしもよく分かっております。
ですが……
父上。
戦で儲けた銭[お金]が、すべての人々へ『公平』に行き渡っているとお思いですか?」
【次節予告 第四十一節 戦国乱世で広がる格差社会】
四郎勝頼はこう答えます。
「この戦国乱世は、100年以上に亘って続いています。
公平でない状態のまま、非常に長い『時間』が経っているのです」
と。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
10
1 / 2
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる