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空が動く前
しおりを挟む小さな村のはずれ、民家もなく、半ば森へと飲み込まれかけた境界に、一つの粗末な荒屋があった。穴が開き、草が生い茂った屋根、傾いた柱、無遠慮に生えた雑草が貧相な雰囲気を際立てている。
不意に、気味の悪い音を立てて扉が開く。薄暗い室内からヌッと現れたのは、着古されたジーンズのみを身に着けた無精髭の男。裸の上半身はしなやかな筋肉を見て取ることが出来、ぼさぼさの髪と半端に生えた髭さえ手入れすれば、それなりの好青年である。
男は、右足の爪先で左足のくるぶしをぼりぼりと掻き、大きく口を開くと魂が抜け出てしまいそうな欠伸をした。酷く退屈そうな気怠そうな表情であった。
「……腹減ったな」
一言そう呟くと、扉を開け放ったまま室内へと戻っていく。
次に玄関に立ったとき、男はくたびれたTシャツと丈夫そうな縄を伴っていた。
「今日は……泉の傍にでけぇのがいるな」
流れる風に身を委ねるように、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませる。射殺すような金の瞳を開くと、にやりと唇の端を歪めて悪人面をして見せた。
突如、ごう、と強風が吹いて木々がなびく。勢いよく閉じた扉が朽ちかけの家を殴り、ぱらぱらと木屑が落ちる。そこに、男の姿はなかった。
静かな森に小鳥たちの囀りが響いている。そよ風が木々の梢を揺らし、瑞々しい野草からは朝露が零れ落ちる。
すがすがしい空気であった。唯一、森を騒がせる足音を除いて。
「待てっ! クソ、でけぇ図体で逃げ回りやがって……!」
草木を掻き分け、鬼神の如く走り抜ける男の気迫に、小動物や虫たちが慌てて姿を隠す。男が追っているのは、その身の丈より一回りほど大きい、巨大な猪だった。鼻息荒く、立派な牙で木々を薙ぎ倒しながら森の中を突き抜けて行く。
猪は、怯えていた。迫り来る魔物から、何とかして逃げ切ろうと必死だった。──故に、対象以外へ向ける注意力は散漫になる。
「……!」
「かかったぁ!」
勢いをそのままに、猪の巨体が宙へと浮かび上がる。その前足には、丈夫な縄としなやかな枝によって作られた、簡易的な罠が掛けられていた。
「ったく、手間かけさせやがって……ほら、暴れんじゃねぇよ。無駄に苦しませる趣味はねぇ」
じたばたと身を捩じらせる猪。男がその喉元に手を当てると、何か固いモノを引きちぎるような、不快な音が空気を震わせた。次いで、赤黒い鮮血が滴り落ち、辺り一面に鉄の生臭さが漂う。
だらんと力の抜けた巨体を地面に下ろすと、血に濡れた手とは逆の手のひらで、猪のごわついた毛皮を一撫でする。
「その身、その魂、全てを糧とすることを許し給え。汝によって与えられたこの命が地に還すとき、その全てもまた安息の地へと還るだろう。恵みに感謝を──」
先程までの鬼気迫った雰囲気とは一転、穏やかな声色で聖母のような表情を浮かべた男は、祈りの言葉を口にすると、一度固く目を瞑ると再び血塗れの手を掲げた。
金の瞳が再び覗いたとき、それは微かな光を纏っているように見えた。同時に、猪の上に掲げられた手から、骨の軋む音が響く。
血濡れた手は、鋭い爪と、ふさふさとした星色の体毛を蓄えた、異形の手と化していた。
「毛皮は防寒具にでもするか。肉は削ぎ落して、残りは他の奴らに分けて、と……牙をそのままにしとくのは勿体ねぇな、飾りか武器にでもするか」
手際よく、猪の体を解体していく男。刃物の代わりに爪で肉を捌き、身一つでその巨体をバラバラにしていく。
男は、人狼だった。
狼男、狼人間、ワーウルフ etc…
呼び方は様々だろうが、この種族の生き物は、世界にそう多くない。魔獣、怪物は数多くいれど、人語を理解し、理性を持って行動する種族というのは、それ以外と比べれば案外少ないものなのだ。
人狼もまた、その一種である。とは言っても、数十年前まで、人狼もまたありふれた一族だった。しかし、人間族からの迫害や、長年に渡る争い、流行り病などでその数を減らし、滅多にその姿を見ることはなくなった。
男は、人狼の生き残りだった。物心ついた頃には、孤児として教会に預けられていたが、人狼だということが発覚するのはすぐのことだった。教会を追われ、スラムへと逃げ込んだ後、そこで生きるすべを身に着け、今では人里離れた荒屋に隠れ住んでいた。
もちろん、人との関わりが全く無いわけではない。人狼は人間に比べ成長が遅く、寿命が長い。男が人狼だということを知る者は、すでに一人も存在していなかった。
故に、狩りで仕留めた獲物を、旅人や流れ者のふりをして街で売り捌くようなことも稀にあった。男は、その生活を別段嫌ってはいなかった。
「うっし、こんなもんだろ」
顎の先から滴りかけた汗を手の甲で拭い、男は立ち上がる。綺麗に剥がれた毛皮と、美しい桃色の肉塊。見下ろす先には、僅かばかりの肉を付けた立派な骨が転がっている。
「あとは牙か……素手で折れるか? これ……」
流石の骨太さに、怪訝そうな顔で強度を確かめる。牙の付け根に片足を置き、手で先端を持って力を込めてみるものの、微かな手応えさえない。
「ちっ、仕方ねぇな。こいつは諦めるか」
しぶしぶ骨から手を離し、手に入れた獲物を抱えて踵を返す。
不意に、男の横を通り抜けた風が、後ろ髪を引いた。
「ほぉ、こいつはなかなか上物だな」
「……!?」
男の背後から声がする。青年のような、初老の男性のような、不思議な響きの声だった。慌てて振り返った男の視線の先には、猪の骸をまじまじと見下ろす、真白い衣を纏った男性の姿があった。
「アンタ、どこから……」
「ん? なに、ちょいとその辺からな。それより君、この猪を一人で仕留めたのか? それは凄いな……」
警戒する男に目もくれず、白く細い指で猪の骨をなぞる。地面にしゃがみ込んだせいで衣の裾が地についたが、不思議と泥や血がそこに付着することはない。
「……アンタ、何者だ?」
「そう警戒してくれるな、人狼の子。私はしがない魔術師だよ」
後ろ手に爪を尖らせていた男は、その一言に息を呑んだ。
一つに、自身が人狼であるという事がこうも簡単に気付かれたこと。一つに、目の前の男性が「魔術師である」と名乗ったこと。
魔術師という存在は、人狼と等しく絶滅寸前の種族である。出自は人間族とそう変わらないが、彼らから忌み嫌われ今では同じ種族を名乗る事すら許されていない。否、そんな必要がないほどに、彼らの個体数は減らされていた。
「……よくそんな気安く名乗れるな。俺が人間を呼ぶかもしれないと考えなかったのか?」
「君はそんなことしないだろう。第一、君と人間がそんなに友好な関係を築いているとは思えないからね、その点に関しては安心しているよ」
へらりと笑う魔術師に眉を顰め、男は改めてその姿を嘗め回すように見た。
顔は、妙に白く小皺が見て取れるが「老人」と言うには若く、「青年」と言うには大人びていた。髪はセピア色に褪せていて、老成した亀のような深い青緑色の瞳が、殊更に年齢を曖昧にしている。純白の衣には細かい刺繡が施されており、汚れは一つも見受けられない。どころか、布をつなぐ縫い目さえ存在しないように見える。
観察されていることに気付いていながら、魔術師は微笑を湛えて男が満足するのを待った。やがて、男が一つ大きな溜息を落とす。
「アンタの真意が読めねぇな。なぜ俺に素性を明かす? アンタになんの利益があるんだ?」
「おや、そんな気難しいことを考えていたのか、存外頭が良いのだね。感心、感心」
「あぁ? 馬鹿にしてんのか」
うんうんと頷く魔術師に、苛立った怒声が浴びせられる。
「おぉ、怖い怖い。ほんの少し揶揄っただけじゃないか。それで、えぇと、真意が知りたいんだったかな。なに、簡単なことだよ。私がここを通りがかったのはただの偶然だし、君に素性を明かしたのはただの好奇心だ。魔術師連中にはそういった変人も多くてね、許してくれ給え」
「……は?」
滑らかに魔術師の口から紡がれる言葉。男は開いた口が塞がらなかった。
「つまり、アンタは、大した目的もなく俺に話しかけて、自分が魔術師だってことをバラしたわけか? ……馬鹿じゃねぇの?」
「あっはっは、言ってくれるじゃないか。まぁ君が理解出来ないのも無理はない。とどのつまり、私がそうしたかっただけの話」
唖然とした、呆れたような男の顔をひとしきり笑い、魔術師はすくっと立ち上がる。たじろぐ男を透き通った瞳で見遣り、猪の骨を指差した。
「ところで君、これはどうするのかな?」
「どうって……森の獣どもに分けてやるだけだ。牙は持ち帰ろうと思ってたが、折れないんじゃ仕方ねぇ。置いていくことにした」
男の言葉に、魔術師は「そうか……」と思案するような表情。唇に指を当てると、口の中でなにやらもごもごと呟き、上目に男を見遣ると一度小さく頷いた。
「君、名前は?」
「あ? なんだよ藪から棒に……」
「名前だよ、名前。普段呼ばれる名前とか、名乗る名前とかあるだろう?」
その言葉に、今度は男が押し黙った。視線を下げ、言い辛そうに口ごもるが、視線を送り続ける魔術師に耐え切れなくなって、後ろ頭を掻きながらも口を開く。
「名前なんてねぇよ。街に行ったときは適当にその辺の看板とか指差して呼ばれる名前にしてるし、愛称を考えてくるような相手もいねぇ」
「ふむ、なるほど。ならば君に私の名前をあげよう。その代わり、この猪の亡骸を私におくれ」
魔術師の申し出を、男は怪訝そうな表情で返した。
「……どうしてそうなるのかは分らんが、欲しいならいくらでも持って行けば良い」
「嗚呼、それがそう簡単な話じゃないのだよ。魔術師たちの規則でね、何かを得るためには相応の対価がいるのさ。名前だけでは足りないと言うのならば、この外套を君にあげよう。雨風に強く、多少の寒暖差には対応してくれる、優秀な子だよ」
やれやれ、と言うように苦笑を浮かべると、一つ指を鳴らして、何もなかった空間から古ぼけた外套を取り出す魔術師。目の前で息をするように繰り広げられた魔法に目を丸くし、男は差し出された外套を見る。それと魔術師の顔を交互に見、そうして大きく溜息を吐いた。
「アンタのペースに巻き込まれてると酷く疲れるな……いいぜ、それで。好きなだけ持って行け」
「ふふ、話が早くて助かるよ。それじゃあ、契約成立だね」
外套を男に手渡し、魔術師は再び猪の前にしゃがみ込む。好奇の視線のもと、骨の上に手を翳し、小さな声で何やら異邦の言葉を呟いているようだった。
やがて、魔術師の手から数センチ離れた空間に光の輪が現れる。言葉を紡ぐ度に光の線が増え、円の中に記号や図形を書き込んでいく。書き込む隙間が無くなると、翳されていた手が輪の両脇に移動し、猪を覆うような大きさに魔方陣を広げ、亡骸に押し付けるようにしてそっと下降させていく。光に触れた箇所から猪の骨は消え、魔方陣が地面に触れるころには跡形もなくなっていた。
「うん、実に上等な素材だね。丁度良い素材を探してはいたが、まさかこんな森の奥で、しかも人狼から譲り受けるだなんて……いやぁ、珍しいこともあったものだ。長生きはしてみるものだねぇ」
「……」
言いたいことも聞きたいこともあったが、男は直感で理解していた。
この男は、このまま立ち去るのだろうと。
「……嗚呼、本当に賢い子だ。こんなところで燻ぶらせておくのはあまりに勿体無い。……しかし、ここで君の運命を変えるのは許されないだろう。いずれ、再び君と会えることを楽しみにしているよ」
一方的にそう告げると、魔術師の周りに旋風が巻き起こる。男は僅かに鼻をひくつかせ、悪人面をして見せた。
「ははっ、アンタみてぇな奴、一度会えただけでも奇跡だろうよ」
「ふふ、どうだろうね。君が思うより、奇跡は容易に起こるものだよ。また会おう、ゲオルグ」
楽し気な声を残して、目を開けていられないほどの風が吹く。
男が目を開けると、そこに魔術師の姿はなかった。
「……ゲオルグ……それが、俺の──」
ぽつり、呟いて手に持っていた外套に視線を落とす。先の強風で乱れたそれは、濡れた木の肌のような深い茶色をしていた。
その裏地、簡単には見えないような場所に、妙に真新しい刺繡が施されていた。
『 Georg Schicksal 』
男の脳裏に、魔術師の声がこだまする。
「……また会おうね、か……変な奴もいたもんだな。魔術師ってやつがどんなもんかは知らねぇが……楽しみが増えるのは、まぁ……良いもんだよな」
そう呟いて、恥ずかしげに後ろ頭を掻いて歩きだす。
これは、独りぼっちの人狼が生きた、少し不思議な運命の物語。
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