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七日間から抜け出せない
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足を踏み入れてまず思ったのは、においだった。
人の家のにおいは独特過ぎて、一歩足を踏み入れると真っ先に違和感を覚えるというのに、この家のにおいと来たら、まず生活臭じゃないにおいがしてくるのだ。
油絵の具に使う溶き油のにおいが、壁紙にも染みついている気がする。
なによりも、廊下には小さな額縁が点在しているが、そこに収まっている絵の一枚一枚が、とてもじゃないが部屋に飾ろうって発想が出てこないほど迫力のある絵ばかりが並んでいるのだ。
空と海と水鳥の絵なんて、一般的な風景画のはずなのに、空の雲の動いている様、海の波のたゆたう様、水鳥が水面ギリギリまでついーっと飛ぶ様までありありと描いていて、今にも動き出しそうな勢いがある。
どの絵もどの絵も、今にもしゃべり出しそうな躍動感、今にも動き出しそうな勢い、それでいてそう思わせるほどに繊細なほど、色が塗りたくられて、実際に油絵の具は上から上から色を重ねて分厚くなっているのが見て取れる。
でも……私は自分の持っているキャンパスを見た。
この絵には、そこまでの躍動感がないような気がした。たしかに綺麗で素敵なのに、廊下に並んでいるほどの力はないような気がする。
どういうことなんだろう。私はそう思いながら、如月さんについていった。
本来ならば、ここはリビングのはずなのに、びっくりするほどなにもなかった。
台所のある場所は、筆洗いらしきものが乱立しているし、必要最低限の食器の入った食器棚と電子レンジしかないのが寒々しい。ICコンロは全く使われていない様子で綺麗だけれど、鍋もやかんもフライパンさえも置いてないようだった。
そしてリビングに代わりにあるのは、天井ギリギリの大きさのキャンパスに、そのキャンパスを立てかけているイーゼル。その前には丸椅子が鎮座してあり、丸テーブルには絵の具と溶き油と筆、画材がいっぱい詰まった車付きの棚があった。
ここはどう見てもアトリエというものであり、台所にすら生活臭が存在しない。
「……あの、これって」
「僕の家だけれど」
「家具は!? 寝るところは!? 人間ってなにも食べないで生きることって無理ですよね!?」
思わず叫んだら、如月さんは無遠慮に指を差した。
そこにはゼリー栄養剤にビタミン剤。あと寝袋があった。いやいや。栄養は足りるかもしれないけれど、カロリーがどう考えたって足りないし、なんというか心が削れてしまう。あと寝袋は使ったことがないけれど、四六時中ここで過ごすのはあまり健全じゃない。
私が愕然としている中、如月さんは無遠慮になにかを取り出した。箱には【お中元】と書いてある。たまにお母さんがバイト先に届いた奴を配って持って帰ってくるとき以外では見たことがない。
「これ、僕はいらないから持って帰って」
「持って帰ってって……これ私がもらっていいんですかね?」
「なんだ、危ないから弁償しろって脅迫じゃなかったのか。集中力が切れた」
舌打ちせんばかりの言い方に、私もイラッと来た。
なんだコイツ。人が素敵な絵だからって、いくらなんでも失敗作だからって、捨てるのはよくないと思っただけなのに。
「なんでそんな言い方されないといけないんですかね? あなた、その口の悪さいつか絶対どこかで致命傷になりますよ!?」
「はあ? ならなんで僕の家に押しかけてきた。弁償じゃなくって暴力だっていうんだったら、警察にでも電話したらよかっただろう!?」
「しませんよ! というより、私のほうが被害者なのに、なんであなたに被害者面されないといけないんですかね、訳わかりませんよ」
「人の時間を奪っておいて、君には謙虚さってものがないのかね!? もういい、早く帰れ」
私はお中元を押しつけられるだけ押しつけられて、そのままポイッと家から追い出されてしまった。外に出た途端に、油絵の具のにおいが途切れ、ほっとしたと同時に、あの綺麗な絵はどこに行ってしまうんだろうと思い至った。
あれだけ綺麗な絵でも、失敗作だと捨てられてしまった。キャンパスをこんな15階から捨てるのはどうかとは思うけれど。でも彼の描いたらしき絵の数々を見ていたら、どうして捨ててしまったのかも納得がいった。
私は少しだけ重たいお歳暮の箱を抱えて、ふと気付いた。
「……さっきのキャンパス、なにも描いてなかったような」
如月さんは、見ず知らずの人間に苛立って喧嘩を売るほどストレスが溜まっているみたいだったけれど、なにも描いてなかった。
私が拾ったキャンパスの絵を考え直す。あれはついさっきまで描いていた絵にしては、完全に乾燥してなかっただけで、乾いていた。中学時代、ただキャンパスをイーゼルに立てて絵を描くのが格好よさそうだという理由だけで美術の授業で真面目に絵を描いていた私からしてみれば、あの絵は未完成のまま捨てられていたとしても、最低一日は放置していた計算になる。
初めて出会った人に怒鳴られたのは気に食わない。
私はもう一度「きーさーらーぎーさーんー」と扉をドンドン叩いたけれど、結局私が諦めるまで出てきてはくれなかった。
でも私はお中元を抱えながら、溜息をついた。
また懲りずに来てみよう。そう思いながら。
七日間でリセットされると考えたら、人間関係だって簡単に思えてしまう。もしリセットされず繰り返されない時間帯だったら、さっさと見切りを付けて関わるのを辞めてしまっていただろうけれど、私からしてみれば、久々に全く先の読めないリアクション、全く先のわからない人間関係に、少なからずワクワクしてしまう自分がいた。
きっと閉じ込められなかったら、「無神経」と呆れていただろうけれど。
人の家のにおいは独特過ぎて、一歩足を踏み入れると真っ先に違和感を覚えるというのに、この家のにおいと来たら、まず生活臭じゃないにおいがしてくるのだ。
油絵の具に使う溶き油のにおいが、壁紙にも染みついている気がする。
なによりも、廊下には小さな額縁が点在しているが、そこに収まっている絵の一枚一枚が、とてもじゃないが部屋に飾ろうって発想が出てこないほど迫力のある絵ばかりが並んでいるのだ。
空と海と水鳥の絵なんて、一般的な風景画のはずなのに、空の雲の動いている様、海の波のたゆたう様、水鳥が水面ギリギリまでついーっと飛ぶ様までありありと描いていて、今にも動き出しそうな勢いがある。
どの絵もどの絵も、今にもしゃべり出しそうな躍動感、今にも動き出しそうな勢い、それでいてそう思わせるほどに繊細なほど、色が塗りたくられて、実際に油絵の具は上から上から色を重ねて分厚くなっているのが見て取れる。
でも……私は自分の持っているキャンパスを見た。
この絵には、そこまでの躍動感がないような気がした。たしかに綺麗で素敵なのに、廊下に並んでいるほどの力はないような気がする。
どういうことなんだろう。私はそう思いながら、如月さんについていった。
本来ならば、ここはリビングのはずなのに、びっくりするほどなにもなかった。
台所のある場所は、筆洗いらしきものが乱立しているし、必要最低限の食器の入った食器棚と電子レンジしかないのが寒々しい。ICコンロは全く使われていない様子で綺麗だけれど、鍋もやかんもフライパンさえも置いてないようだった。
そしてリビングに代わりにあるのは、天井ギリギリの大きさのキャンパスに、そのキャンパスを立てかけているイーゼル。その前には丸椅子が鎮座してあり、丸テーブルには絵の具と溶き油と筆、画材がいっぱい詰まった車付きの棚があった。
ここはどう見てもアトリエというものであり、台所にすら生活臭が存在しない。
「……あの、これって」
「僕の家だけれど」
「家具は!? 寝るところは!? 人間ってなにも食べないで生きることって無理ですよね!?」
思わず叫んだら、如月さんは無遠慮に指を差した。
そこにはゼリー栄養剤にビタミン剤。あと寝袋があった。いやいや。栄養は足りるかもしれないけれど、カロリーがどう考えたって足りないし、なんというか心が削れてしまう。あと寝袋は使ったことがないけれど、四六時中ここで過ごすのはあまり健全じゃない。
私が愕然としている中、如月さんは無遠慮になにかを取り出した。箱には【お中元】と書いてある。たまにお母さんがバイト先に届いた奴を配って持って帰ってくるとき以外では見たことがない。
「これ、僕はいらないから持って帰って」
「持って帰ってって……これ私がもらっていいんですかね?」
「なんだ、危ないから弁償しろって脅迫じゃなかったのか。集中力が切れた」
舌打ちせんばかりの言い方に、私もイラッと来た。
なんだコイツ。人が素敵な絵だからって、いくらなんでも失敗作だからって、捨てるのはよくないと思っただけなのに。
「なんでそんな言い方されないといけないんですかね? あなた、その口の悪さいつか絶対どこかで致命傷になりますよ!?」
「はあ? ならなんで僕の家に押しかけてきた。弁償じゃなくって暴力だっていうんだったら、警察にでも電話したらよかっただろう!?」
「しませんよ! というより、私のほうが被害者なのに、なんであなたに被害者面されないといけないんですかね、訳わかりませんよ」
「人の時間を奪っておいて、君には謙虚さってものがないのかね!? もういい、早く帰れ」
私はお中元を押しつけられるだけ押しつけられて、そのままポイッと家から追い出されてしまった。外に出た途端に、油絵の具のにおいが途切れ、ほっとしたと同時に、あの綺麗な絵はどこに行ってしまうんだろうと思い至った。
あれだけ綺麗な絵でも、失敗作だと捨てられてしまった。キャンパスをこんな15階から捨てるのはどうかとは思うけれど。でも彼の描いたらしき絵の数々を見ていたら、どうして捨ててしまったのかも納得がいった。
私は少しだけ重たいお歳暮の箱を抱えて、ふと気付いた。
「……さっきのキャンパス、なにも描いてなかったような」
如月さんは、見ず知らずの人間に苛立って喧嘩を売るほどストレスが溜まっているみたいだったけれど、なにも描いてなかった。
私が拾ったキャンパスの絵を考え直す。あれはついさっきまで描いていた絵にしては、完全に乾燥してなかっただけで、乾いていた。中学時代、ただキャンパスをイーゼルに立てて絵を描くのが格好よさそうだという理由だけで美術の授業で真面目に絵を描いていた私からしてみれば、あの絵は未完成のまま捨てられていたとしても、最低一日は放置していた計算になる。
初めて出会った人に怒鳴られたのは気に食わない。
私はもう一度「きーさーらーぎーさーんー」と扉をドンドン叩いたけれど、結局私が諦めるまで出てきてはくれなかった。
でも私はお中元を抱えながら、溜息をついた。
また懲りずに来てみよう。そう思いながら。
七日間でリセットされると考えたら、人間関係だって簡単に思えてしまう。もしリセットされず繰り返されない時間帯だったら、さっさと見切りを付けて関わるのを辞めてしまっていただろうけれど、私からしてみれば、久々に全く先の読めないリアクション、全く先のわからない人間関係に、少なからずワクワクしてしまう自分がいた。
きっと閉じ込められなかったら、「無神経」と呆れていただろうけれど。
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