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電車の入場券はお持ちですか?─パラレルラインへようこそ─
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「あのう……駅長さん。それ、どういう……」
「ああ、失礼しました。こちらの説明がまだでしたね。まず第一に、当駅は変えてしまいたいほどに苦しい後悔がなかったら、ここを訪れることすらできない駅になっています」
「ええ……つまりは」
女性を見ると、彼女は顔を強ばらせる。
「あ、あのう……私。本当にただ、電車に向かってただけで……気付いたらここにいたんですけれど……」
「はい。こちらには駅に向かわなかったら、辿り着くことができませんから」
あまりにも流暢な言葉に、俺はますます混乱した。
俺はただ、バイトの面接に来ただけだったのに、とんでもないところに辿り着いてしまったということだけは、よくわかった。
女性も俺もただ狼狽えている中、駅長さんだけはにこやかな顔のままだった。
「こんなところで立ち話も難ですし、まずは駅長室へ向かいましょう。ああ、そうだ。フクくん」
そう呼ばれて、俺は肩を跳ねさせた。いきなりフレンドリーだな、この人は。
駅長さんはいきなり俺に鍵を渡してきたのだ。
「私の支払いで結構ですから、売店からお好きなものを持ってきてください。お客さんにお出ししますから」
「えっと……? はい」
困りながら鍵を受け取り、「駅長室に持ってこればいいんですよね?」と確認を取ってから、売店へと走って行った。
****
パラレルライン後悔駅。
とんでもない名前のとんでもない駅にもかかわらず、売店だけはどことなく古めかしい。大昔に私鉄に入っていた売店そのものが、この駅の中に保存されていた。
鍵を回せばレジが動く。店の商品も見渡せる。
あのボロボロの女の人も、こんなとんでもない場所に来てしまうような後悔を抱えているのか……後悔を抱えていることがこんなにわかりやすくわかってしまうのが、なんだか穴があったら入りたいくらいに恥ずかしいけれど、そんなことよりもあの人に出すものだ。
売店にはアイス用の冷蔵庫も入り、その中には昔懐かしのアイスキャンディーもたくさん入っていたけれど、俺は首を振った。
あんな格好をしていたくらいだから、心身共に参っているんだ。冷たいものを食べても気分が暗くなるだけだろう。
だからと言ってミントのガムを噛むのもどうかと思う。気分転換にはなっても、あの清涼感はちっとも気持ちを慰めてはくれない。
そう思いながら電車のお供を探したら、昔ながらのキャラメルの箱を見つけた。ひと包みくらいのころんとしたものだったら、口の中に入れても困ることはないだろう。
俺はそう思ってキャラメルをひと箱買って、引き返した。
駅から駅長室はガラス越しですぐにわかり、俺は「お待たせしました」と言いながら入っていく。
駅長さんと女性は、丸椅子に座って向かい合っていた。
世間話というには物々しくて、取り調べというには軽い。
プンと漂うのはコーヒーの匂い。クリームポーションを添えたブラックコーヒーを差し出され、そこで俺は「もしかしたら持ってきたもの間違えたんじゃ」と焦ったものの、すぐ駅長さんに顔を上げられてしまった。
「ご苦労様です。それを彼女にあげてください……それじゃあ、お話をはじめましょうか」
明らかにお話をはじめるって雰囲気ではないけれど、大丈夫なんだろうか。
俺はそう思いながら「どうぞ」とキャラメルを差し出すと、彼女は一瞬目を丸くしたあと、ようやく強ばった顔を「ぷっ」と噴き出した。
……まさかと思うけど、この人の緊張を解すために、俺に下手なことを頼んだんじゃないだろうなあ。
そう一瞬疑ったけれど、この駅長さんは本当に人のいい顔をするばかりだった。この人のことは、笑いのツボが独特過ぎるということ以外、なんにもわからない。
と、そこでようやく彼女が口を動かしはじめた。
「……私、結婚する予定だったんですよ」
彼女はぼそぼそと吐き出す。しかしその言葉は鉛でも飲み込んだかのように、ひどく重く聞こえて、ちっとも楽しそうじゃない。
「そうですか、おめでとうございます」
「だったんですよね。私。浮き足立ってしまって、その人が私のこと、ちっともそういう目で見ていなかったって、気付かなかったんです。私、今までまともに恋愛経験もなくって……でもそろそろ結婚しないと後がないぞって周りにほぼ脅される形で、結婚相談所に登録したんです。そういうところに行けば、結婚できるんじゃないかと思ったんですけど、なかなかいい人は見つかりませんでした。そこで、ひとりいい人を見つけたんですけど……」
その手の話は、あまりにもよく耳にする話で、珍しくもなんともなかった。
でも目の前でボロボロになってしまっている人を見ると、とてもじゃないけれど、「運が悪かったね」なんて本当のことを口に出すことは躊躇われる。
彼女は、俯いた。もしかしたら、彼女もあまりにも周りの反応が読めるから、言うのを躊躇ってしまうのかもしれない。
その中でも駅長さんは穏やかな雰囲気を崩さない。
「落ち着いて、ゆっくりでいいですよ。どのみち、決めなければいけませんから」
なにを決めないといけないんだろう。俺はそうぼんやりと思いながら、駅長さんと女性を交互に眺めていた。
しばらく膝に視線を落としていた女性は、ようやく意を決して口を開いた。
「そんな中……彼に出会ったんです。彼は最初に出会ったときから、本当に優しくしてくれて、デートのときも紳士的な態度を取ってくれました……私が男の人に慣れてないからかもしれませんけど、本当にこの人となら、幸せな家庭を築けるって思ったんです」
恋に恋する。そんな状態は、大学に入って合コンでハメを外した奴、男女問わずに見るけれど。そんな状態で「やめとけ」なんて言葉は全く耳に届かないのは知っている。
恋はするもんじゃない。落ちるもんだって言ったのはどこの誰かは知らないけれど、全くもってその通りなんだ。
彼女は続ける。
「すぐに婚約成立し、早速私は結婚資金を降ろしに行きました。そのときから、少しずつ彼の行動がおかしくなっていったんです。最初に新婚生活をするためにマンションを買いたいと言い出しました。ローンもありますし、私はそれは結婚後のほうがいいんじゃと反対しましたが、彼に『今から慣れたほうがいい』と言われて、押し切られました。マンションを買い、住んでいたアパートを解約して、ふたりで生活していました……驚くほど楽しい生活でしたので、私がおかしいと思ったのは杞憂だと思っていたんですけれど、だんだんそうも言ってられなくなりました」
彼女は恥ずかしそうな顔をしつつ、俺が置いたキャラメルに視線を向け、そろそろと「食べてもいいですか?」と尋ねてきた。
元々は駅長さんに頼まれたものであり、この場では的外れなものだった気がするけれど。彼女が食べたいのだったらそれが一番だ。
俺は「どうぞ」と言うと、彼女は初めて「ありがとうございます」と顔を綻ばせた。
軽く包みを解いてキャラメルを口に含むと、彼女は目尻からポロリと涙を溢した。そのあと、彼女はコーヒーをひと口飲んでから、話を続けた。
「だんだん彼の要求がエスカレートしてきたんです。『結婚資金をふたりで銀行に入れておきたい』『ふたりで生活するのに新しい事業をはじめたい』などなど。さすがに私も、飛ぶようになくなっていくお金に怖くなり、『その通帳を見せて?』と言いました。そう言った途端に、彼はいなくなってしまったんです」
さすがに社会人を長年やっていたら、恋に恋する状態でもおかしいって気付けたんだ。でも、気付いたときには、もう手遅れだった。
「マンションは気付けば知らない人の名義になっていました。本当に気付かない内に売却されていたんです。その上、ふたりの積み立て用口座も気付けば解約されていて……私、目が覚めたらお金も住む場所もなくなっていたんです。本当に……この先どうやって生きていこうと……とにかくもう住むところがない以上、もういっそ線路にでも飛び込んでやろうかと思っていたら、気付けばここにいたんです」
そう言って、彼女はぽろぽろと涙を溢しながら、俯いていた。既にパンツスーツは涙のしみができている。
そんな最低な奴、捨てられてよかったじゃん。もう詐欺に遭っても、これ以上失うものがないんだし。
俺はそう思ったけれど、口にしたらきっと無神経って言われる奴だと思って黙っていた。
そんな中、駅長さんは緩やかに口を開いた。
「そうですねえ……こちら、パラレルラインでは、乗り換えが可能です」
「あのう……先程からおっしゃっている、その乗り換えってなんでしょうか?」
「『もしも』の未来に移動すること、ですよ」
「もしも……?」
彼女が首を傾げた。俺もそれに倣う。
そういえば、ここに来られるのは激しい後悔がある人だけだと言っていたけれど、それとなにか関係あるんだろうか。
俺たちが全く同じ反応を示すのに、駅長さんはくすりと笑ってから、言葉を続けた。
「平行世界と言えばわかりますか? たとえば、この世界をAだとすれば、隣の世界はB……Aはお客様が結婚詐欺に遭った世界だとすれば、Bはお客様が結婚詐欺に遭わずに済んだ世界となります」
「あっ……!」
ようやく意味がわかった。
変な名前の路線だと思ったら、もしもの世界に連れて行ってくれる路線だったんだ。彼女はそれに困った顔をした。
「それってつまり、どういうことなんでしょうか?」
「はい、あなたが結婚詐欺に遭わない世界にお連れすることは可能です。ただし、三つだけ注意が必要ですが」
そう言って、駅長さんは手袋に包まれた指を三本突き上げた。
「ひとつ、平行世界はひとつ自分の都合に遭うというだけで、必ずしも全てが都合よく運ぶ訳ではございませんから」
「ええっと……つまりは?」
「たとえるなら、Aには存在していた人がBには存在しない場合もありますし、逆の場合もございます。平行世界は基本的に似通った世界ですが、必ずしも全部が同じ訳ではございません。鏡だって、全てのものが存在していても、全てが反対方向でしょう?」
つまりは。結婚詐欺に遭わない代わりになにかが足りない世界になるかもしれないってことか。
「あのう、残りふたつは?」
思わず俺が尋ねると、駅長さんはにこやかに頷いた。
「ひとつ、こちらから違う世界にご案内することは可能ですが、こちらから平行世界が具体的にどう違う世界なのかはわかりません。ですから、結婚詐欺がない世界を探して案内することはできても、その代わりのデメリットをこちらから提示することは不可能なんです」
「あちらが立たねばこちらが立たず……ですか……」
女性は顔を曇らせた。
そりゃそうか。結婚詐欺に遭わずに家もお金も失わずに済む世界に辿り着けたとしても、代わりにやって来るデメリットがなんなのかわからないというのは、普通に考えて怖い。
そして駅長さんは指を折る。
「ひとつ、こちらの駅から出る駅は、片道切符です。一度お連れした駅から元の駅に戻ることはできません。つまり、こちらで決断を下さない限り運命を変えることはできませんが、こちらで判断を見誤ったとしても、やり直しはできません。ですから、パラレルラインにご乗車の際は、よく考えてからにしてください」
そう締めくくった。
「ああ、失礼しました。こちらの説明がまだでしたね。まず第一に、当駅は変えてしまいたいほどに苦しい後悔がなかったら、ここを訪れることすらできない駅になっています」
「ええ……つまりは」
女性を見ると、彼女は顔を強ばらせる。
「あ、あのう……私。本当にただ、電車に向かってただけで……気付いたらここにいたんですけれど……」
「はい。こちらには駅に向かわなかったら、辿り着くことができませんから」
あまりにも流暢な言葉に、俺はますます混乱した。
俺はただ、バイトの面接に来ただけだったのに、とんでもないところに辿り着いてしまったということだけは、よくわかった。
女性も俺もただ狼狽えている中、駅長さんだけはにこやかな顔のままだった。
「こんなところで立ち話も難ですし、まずは駅長室へ向かいましょう。ああ、そうだ。フクくん」
そう呼ばれて、俺は肩を跳ねさせた。いきなりフレンドリーだな、この人は。
駅長さんはいきなり俺に鍵を渡してきたのだ。
「私の支払いで結構ですから、売店からお好きなものを持ってきてください。お客さんにお出ししますから」
「えっと……? はい」
困りながら鍵を受け取り、「駅長室に持ってこればいいんですよね?」と確認を取ってから、売店へと走って行った。
****
パラレルライン後悔駅。
とんでもない名前のとんでもない駅にもかかわらず、売店だけはどことなく古めかしい。大昔に私鉄に入っていた売店そのものが、この駅の中に保存されていた。
鍵を回せばレジが動く。店の商品も見渡せる。
あのボロボロの女の人も、こんなとんでもない場所に来てしまうような後悔を抱えているのか……後悔を抱えていることがこんなにわかりやすくわかってしまうのが、なんだか穴があったら入りたいくらいに恥ずかしいけれど、そんなことよりもあの人に出すものだ。
売店にはアイス用の冷蔵庫も入り、その中には昔懐かしのアイスキャンディーもたくさん入っていたけれど、俺は首を振った。
あんな格好をしていたくらいだから、心身共に参っているんだ。冷たいものを食べても気分が暗くなるだけだろう。
だからと言ってミントのガムを噛むのもどうかと思う。気分転換にはなっても、あの清涼感はちっとも気持ちを慰めてはくれない。
そう思いながら電車のお供を探したら、昔ながらのキャラメルの箱を見つけた。ひと包みくらいのころんとしたものだったら、口の中に入れても困ることはないだろう。
俺はそう思ってキャラメルをひと箱買って、引き返した。
駅から駅長室はガラス越しですぐにわかり、俺は「お待たせしました」と言いながら入っていく。
駅長さんと女性は、丸椅子に座って向かい合っていた。
世間話というには物々しくて、取り調べというには軽い。
プンと漂うのはコーヒーの匂い。クリームポーションを添えたブラックコーヒーを差し出され、そこで俺は「もしかしたら持ってきたもの間違えたんじゃ」と焦ったものの、すぐ駅長さんに顔を上げられてしまった。
「ご苦労様です。それを彼女にあげてください……それじゃあ、お話をはじめましょうか」
明らかにお話をはじめるって雰囲気ではないけれど、大丈夫なんだろうか。
俺はそう思いながら「どうぞ」とキャラメルを差し出すと、彼女は一瞬目を丸くしたあと、ようやく強ばった顔を「ぷっ」と噴き出した。
……まさかと思うけど、この人の緊張を解すために、俺に下手なことを頼んだんじゃないだろうなあ。
そう一瞬疑ったけれど、この駅長さんは本当に人のいい顔をするばかりだった。この人のことは、笑いのツボが独特過ぎるということ以外、なんにもわからない。
と、そこでようやく彼女が口を動かしはじめた。
「……私、結婚する予定だったんですよ」
彼女はぼそぼそと吐き出す。しかしその言葉は鉛でも飲み込んだかのように、ひどく重く聞こえて、ちっとも楽しそうじゃない。
「そうですか、おめでとうございます」
「だったんですよね。私。浮き足立ってしまって、その人が私のこと、ちっともそういう目で見ていなかったって、気付かなかったんです。私、今までまともに恋愛経験もなくって……でもそろそろ結婚しないと後がないぞって周りにほぼ脅される形で、結婚相談所に登録したんです。そういうところに行けば、結婚できるんじゃないかと思ったんですけど、なかなかいい人は見つかりませんでした。そこで、ひとりいい人を見つけたんですけど……」
その手の話は、あまりにもよく耳にする話で、珍しくもなんともなかった。
でも目の前でボロボロになってしまっている人を見ると、とてもじゃないけれど、「運が悪かったね」なんて本当のことを口に出すことは躊躇われる。
彼女は、俯いた。もしかしたら、彼女もあまりにも周りの反応が読めるから、言うのを躊躇ってしまうのかもしれない。
その中でも駅長さんは穏やかな雰囲気を崩さない。
「落ち着いて、ゆっくりでいいですよ。どのみち、決めなければいけませんから」
なにを決めないといけないんだろう。俺はそうぼんやりと思いながら、駅長さんと女性を交互に眺めていた。
しばらく膝に視線を落としていた女性は、ようやく意を決して口を開いた。
「そんな中……彼に出会ったんです。彼は最初に出会ったときから、本当に優しくしてくれて、デートのときも紳士的な態度を取ってくれました……私が男の人に慣れてないからかもしれませんけど、本当にこの人となら、幸せな家庭を築けるって思ったんです」
恋に恋する。そんな状態は、大学に入って合コンでハメを外した奴、男女問わずに見るけれど。そんな状態で「やめとけ」なんて言葉は全く耳に届かないのは知っている。
恋はするもんじゃない。落ちるもんだって言ったのはどこの誰かは知らないけれど、全くもってその通りなんだ。
彼女は続ける。
「すぐに婚約成立し、早速私は結婚資金を降ろしに行きました。そのときから、少しずつ彼の行動がおかしくなっていったんです。最初に新婚生活をするためにマンションを買いたいと言い出しました。ローンもありますし、私はそれは結婚後のほうがいいんじゃと反対しましたが、彼に『今から慣れたほうがいい』と言われて、押し切られました。マンションを買い、住んでいたアパートを解約して、ふたりで生活していました……驚くほど楽しい生活でしたので、私がおかしいと思ったのは杞憂だと思っていたんですけれど、だんだんそうも言ってられなくなりました」
彼女は恥ずかしそうな顔をしつつ、俺が置いたキャラメルに視線を向け、そろそろと「食べてもいいですか?」と尋ねてきた。
元々は駅長さんに頼まれたものであり、この場では的外れなものだった気がするけれど。彼女が食べたいのだったらそれが一番だ。
俺は「どうぞ」と言うと、彼女は初めて「ありがとうございます」と顔を綻ばせた。
軽く包みを解いてキャラメルを口に含むと、彼女は目尻からポロリと涙を溢した。そのあと、彼女はコーヒーをひと口飲んでから、話を続けた。
「だんだん彼の要求がエスカレートしてきたんです。『結婚資金をふたりで銀行に入れておきたい』『ふたりで生活するのに新しい事業をはじめたい』などなど。さすがに私も、飛ぶようになくなっていくお金に怖くなり、『その通帳を見せて?』と言いました。そう言った途端に、彼はいなくなってしまったんです」
さすがに社会人を長年やっていたら、恋に恋する状態でもおかしいって気付けたんだ。でも、気付いたときには、もう手遅れだった。
「マンションは気付けば知らない人の名義になっていました。本当に気付かない内に売却されていたんです。その上、ふたりの積み立て用口座も気付けば解約されていて……私、目が覚めたらお金も住む場所もなくなっていたんです。本当に……この先どうやって生きていこうと……とにかくもう住むところがない以上、もういっそ線路にでも飛び込んでやろうかと思っていたら、気付けばここにいたんです」
そう言って、彼女はぽろぽろと涙を溢しながら、俯いていた。既にパンツスーツは涙のしみができている。
そんな最低な奴、捨てられてよかったじゃん。もう詐欺に遭っても、これ以上失うものがないんだし。
俺はそう思ったけれど、口にしたらきっと無神経って言われる奴だと思って黙っていた。
そんな中、駅長さんは緩やかに口を開いた。
「そうですねえ……こちら、パラレルラインでは、乗り換えが可能です」
「あのう……先程からおっしゃっている、その乗り換えってなんでしょうか?」
「『もしも』の未来に移動すること、ですよ」
「もしも……?」
彼女が首を傾げた。俺もそれに倣う。
そういえば、ここに来られるのは激しい後悔がある人だけだと言っていたけれど、それとなにか関係あるんだろうか。
俺たちが全く同じ反応を示すのに、駅長さんはくすりと笑ってから、言葉を続けた。
「平行世界と言えばわかりますか? たとえば、この世界をAだとすれば、隣の世界はB……Aはお客様が結婚詐欺に遭った世界だとすれば、Bはお客様が結婚詐欺に遭わずに済んだ世界となります」
「あっ……!」
ようやく意味がわかった。
変な名前の路線だと思ったら、もしもの世界に連れて行ってくれる路線だったんだ。彼女はそれに困った顔をした。
「それってつまり、どういうことなんでしょうか?」
「はい、あなたが結婚詐欺に遭わない世界にお連れすることは可能です。ただし、三つだけ注意が必要ですが」
そう言って、駅長さんは手袋に包まれた指を三本突き上げた。
「ひとつ、平行世界はひとつ自分の都合に遭うというだけで、必ずしも全てが都合よく運ぶ訳ではございませんから」
「ええっと……つまりは?」
「たとえるなら、Aには存在していた人がBには存在しない場合もありますし、逆の場合もございます。平行世界は基本的に似通った世界ですが、必ずしも全部が同じ訳ではございません。鏡だって、全てのものが存在していても、全てが反対方向でしょう?」
つまりは。結婚詐欺に遭わない代わりになにかが足りない世界になるかもしれないってことか。
「あのう、残りふたつは?」
思わず俺が尋ねると、駅長さんはにこやかに頷いた。
「ひとつ、こちらから違う世界にご案内することは可能ですが、こちらから平行世界が具体的にどう違う世界なのかはわかりません。ですから、結婚詐欺がない世界を探して案内することはできても、その代わりのデメリットをこちらから提示することは不可能なんです」
「あちらが立たねばこちらが立たず……ですか……」
女性は顔を曇らせた。
そりゃそうか。結婚詐欺に遭わずに家もお金も失わずに済む世界に辿り着けたとしても、代わりにやって来るデメリットがなんなのかわからないというのは、普通に考えて怖い。
そして駅長さんは指を折る。
「ひとつ、こちらの駅から出る駅は、片道切符です。一度お連れした駅から元の駅に戻ることはできません。つまり、こちらで決断を下さない限り運命を変えることはできませんが、こちらで判断を見誤ったとしても、やり直しはできません。ですから、パラレルラインにご乗車の際は、よく考えてからにしてください」
そう締めくくった。
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