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ご乗車の際にはお忘れ物がないようお願いします─失った夢をもう一度─
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あれからしばらく経った。
今日は一限から授業だから、洗濯物は明日まとめて近所のコインランドリーで洗おう。
布団を畳み、身支度を整えた俺は「いただきます」と手を合わせて朝ご飯を食べる。
みなほから届いた叔母さんの煮物に、インスタントの味噌汁。ご飯。野菜は傷みやすいせいでひとり暮らしだとなかなか食べきることができないから、みなほを通して叔母さんから届く煮物が、俺の唯一の野菜の補給線だ。食堂でだったら値段と腹持ちをついつい考えてしまうから、ほとんどカレーになってしまう。
ありがたくいただいていたところで、ブーッと鳴った。この雑な押し方は、またもみなほだろう。
「はーい」
「もう! すぐに出なさいよ!」
そう言ってみなほは仁王立ちしていた。近所に見つかると気まずいなあ。既に出社時間は過ぎているとは思うけど。俺はそう考えながら、「頼むからせめて玄関に入って」と言うと、みなほは鬼のような形相で睨み付ける。
「トクの家に上がれますか、付き合ってもいないのに」
「いやいやいやいや……その理屈はおかしい」
自分から家に押しかけておいて、近所迷惑だから家に入ってもらおうとすると怒る。リテラシーとしては正しいけれど、俺の心境としてはかなり傷付く。
でも今日はいったいどういった用件だろうか。
「でもどうしたの、今日は」
「トクのバイト先がわかんないから見てきたの。私の地図の見方が悪いのかしら、見つけることができなかったんだけど」
「あー……」
あまりにみなほがしつこいから、パラレルラインの住所を教えたけれど、みなほには辿り着くことができなかったらしい。
それはそうか。みなほには未練がなくって、変えたいような負の歴史はない。健全な大学生ってことか。多分多かれ少なかれ生きてりゃ誰でも後悔はあるけれど、この世界から消え失せてでも、平行世界に辿り着いて変えたい過去をやり直して未来を変えたいなんてこと、ないんじゃないかな。
俺がしみじみしている中、普段は気丈なみなほが珍しく顔を曇らせて訴える。
「……本当に、危ないバイトとかしてないのよね?」
「してないしてない。俺、普通の売店の世話しかしてないよ」
「売店は売店でも、危ないもの売ってないでしょうね?」
「それはさすがにドラマの見過ぎだし、大学でも配ってるでしょ。オレオレ詐欺やネズミ講、新興宗教の注意勧告。裏をメモ書きに使ってるから、普通に読んでるよ」
「もう! そうやってすぐ茶化すんだから! もう……」
みなほはそう言って頬を膨らませて怒った。
こうしていると、大学生というよりも童女だ。
みなほは本当に嘘がつけないし、心配性だなあと思いつつも、みなほがなんだか泣きそうな顔をしているのを見ると、胸が痛む。
こいつは本気で心配しているだけで、その優しさが俺を心苦しくさせるってことわかってないもんなあ。こういうのって、すぐわかるもんでもないもんなあ。
「……たまには頼ってよ、トク」
「うん、ありがとうな。みなほ。たまにはちゃんと頼るから、心配するなって。それで、用件って結局なんだったの?」
「ん……お母さんから。トクが野菜足りないんじゃないかって、心配してたくさんつくったの」
そう言って鞄から取り出したのは、いつにも増して大きいタッパに、たっぷりと入った野菜のキンピラだった。これだったら弁当にも持って行けるし、朝から授業のときにも食堂代を節約できそうだ。
「ありがとうな、叔母さんによろしく言っておいて」
「うん……じゃあね。たまにはうちに顔見せなさいよ」
「はいはい。みなほも早く学校行けよ」
今度こそドアを閉め、窓から学校に向かうみなほを眺めた。一限から授業なんだったら、わざわざうちに来なくってもよかったのになあ。そう思いながら、なんとはなしにタッパを見て、ひと口キンピラを摘まんだ。
「……ん?」
叔母さんのおかずは、日持ちするように気持ち味付けが濃くつくられているのに、これはあっさりしている。はっきり言ってこっちのほうが食べやすいけれど、日持ちはしない。この味は。
「あいつ素直に言えばいいのになあ」
俺はそうごちながら指先をペロリと舐めた。
傷む前に食べちゃわないといけないから、しばらくはキンピラ三昧かなあ。
日頃から言いたいことがツンケンしているだけで悪い奴じゃないみなほは、なぜかまあ、こうやって勘違いされやすい言動をする。
あいつは知っているからなあ。俺の家のこと。
それにしても、パラレルラインの住所に沿って探していたのは知らなかったな。俺が知っている限り、あいつは悲惨な目に遭ったことがないから、探しても辿り着けないんだな。ふうむ。このことは晴さんにも言っておいたほうがいいかなと、少しだけ考えた。
****
その日のバイトは、掃除していたらバイトの時間が終わってしまった。お客さんはなし。前々から駅ナカコンビニで働いていた俺からしてみると、これは駅の運営として大丈夫なのかと思ってしまうが、そもそもパラレルラインに入れる人自体が選ばれし人しかいないから、こんなもんなのかなと考え込んでしまった。
今日は一日体操をしている間に終わってしまった晴さんに、俺は「お疲れ様です」と挨拶しながら、もうしばらくは綺麗なままであろう店を閉めながら挨拶をすると、いつもの調子で晴さんは「お疲れ様です」と挨拶をしてきた。
「今日、うちの従兄弟がパラレルラインを探して辿り着けなかったみたいなんです」
「ふーむ? そうですか。まあフクくんと同年代だったら、そのほうが普通かと思いますが」
「さらりと俺のこと普通じゃないって言わないでくださいよー」
「言ってないですよ、言ってないですそんな失礼なこと」
俺のボケに、晴さんは慌てて手を振って謝る。この人はなんだかんだ言って愉快な人だ。
「でもここって、そんなに未来を変えたい人って来ないんですねえ?」
「まあ、未来を変えたいっていう度合いにも寄りますから。たとえば、全て滅ぼして自分も死ぬっていうような人は、パラレルラインに乗れません。平行世界の人たちが困ってしまうじゃないですか」
「まあ……たしかに。いくら平行世界だからと言っても、滅ぼされたら困っちゃいますね」
「あと、人のことを変えようとする人も乗れません。嫁が気に食わないからパラレルラインに乗って息子の嫁をチェンジするっていうのはなしですよ」
「怖い怖い怖い怖い……そんな嫁姑問題でパラレルラインを探す人っていますかね?」
「さあ? 少なくとも僕の知っている限りでは、その手の人がパラレルラインに辿り着けた例を知りませんね。少なくともそこまで我が強い方でしたら、わざわざ平行世界に行かずとも自力でなんとかしますから」
「ははははは……」
見たことのない例だけれど、想像するだけでかなり怖い。
そう考えると、マンガ家さんの例は盗作されたされないの願いだから行けた訳で、自分が直接関与できる願いじゃない限りは、パラレルラインに到着することはできないんだ。
世の中、少ししたことで簡単に未来を変えたいって思うのに、人に迷惑をかけないって制限をかけたら、案外変えたい未来というのはそこまで多くはないのかもしれない。
でもそこまで考えて「あれ?」と気付いてしまった。
「でもそうなったら、晴さんもそういうのがあるんですよね?」
「はい?」
「いやだって、そういうのがなかったら、そもそもパラレルラインに入れないんですよね? 俺の場合もまあ、あるっちゃあるんでそりゃ入れるだろうなと」
「そうですねえ……」
一瞬、音が消えたように感じた。
風が吹かなくても大気の音があり、売店では常日頃からブオーンと電子音がするもののはずなのに。
やがて、ふっと晴さんが笑った途端に、全ての音が戻った。
「内緒です」
そう茶目っ気たっぷりに人差し指を唇に当てられてしまったら、俺はもうなにも言えなかった。イケメンだけが許されるポーズだと茶化すことだって、今はできないでいる。
「まあ、そりゃそうですよね。なにも言わなくってもバイトってできますから。お疲れ様でしたー!」
「はい、お疲れ様です」
晴さんに見送られ、俺はエプロンを洗濯しようと鞄の中に突っ込んでから、自転車に飛び乗って漕ぎ出していた。
あの人は謎めいているけれど、不思議と居心地がいい。その理由になんとなく気付いている。
あの人は悲しい想いを抱えているからこそ、人に踏み込まないんだ。
多分みなほみたいな人間も必要だ。皆が皆、遠巻きに「可哀想ね」と口先だけの同情を浮かべて笑みを貼り付かせ、わかってます感いっぱいになにも言わせてくれないくらいだったら、土足で自分の中に入って踏み荒らして、さんざん不平不満を言ってくれたほうがいい。
でも、晴さんみたいな人だって必要なんだ。
あの人は心配しているのは、節々でわかるけれど、なにがあったのかまでは踏み込んでこない。ただ黙っている。
あの人が黙っているのは、周りの連中みたいな憶測じゃない。事実に憶測で勝手に物語をでっち上げ、出来上がった物語を寸評して満足しているタイプじゃなくって、本当に悲しいってものを理解しているから黙っているんだ。
同情されても、文句を言われても、それこそパラレルラインに乗って未来を変えたいって思うような衝動を持っていると突きつけられても、それでも今はここにいる。
自転車をシャコシャコと漕いでいたら、どこかでタイヤに穴が空いたのか、だんだんと自転車の走りが悪くなってきた。
「あっ」
俺はブレーキをかけて、自転車のタイヤを握った。空気が抜けて、ぺったんこになってしまった。
「……朝イチで、自転車屋に行かないとな」
ギィコギィコと自転車を押しながら、ふと夜道を見た。
丸い月がそろそろ、空の真ん中にまで押し上げられていた。
その空を見上げながら俺はぼんやりと思う。
多分パラレルラインの切符を使わない理由は、忘れられたくないからかもしれない。
あのマンガ家目指している人や、最初に出会ったお姉さんみたいに、自分が忘れられてもいいから辿り着きたい未来が、俺にはないんだ。
今日は一限から授業だから、洗濯物は明日まとめて近所のコインランドリーで洗おう。
布団を畳み、身支度を整えた俺は「いただきます」と手を合わせて朝ご飯を食べる。
みなほから届いた叔母さんの煮物に、インスタントの味噌汁。ご飯。野菜は傷みやすいせいでひとり暮らしだとなかなか食べきることができないから、みなほを通して叔母さんから届く煮物が、俺の唯一の野菜の補給線だ。食堂でだったら値段と腹持ちをついつい考えてしまうから、ほとんどカレーになってしまう。
ありがたくいただいていたところで、ブーッと鳴った。この雑な押し方は、またもみなほだろう。
「はーい」
「もう! すぐに出なさいよ!」
そう言ってみなほは仁王立ちしていた。近所に見つかると気まずいなあ。既に出社時間は過ぎているとは思うけど。俺はそう考えながら、「頼むからせめて玄関に入って」と言うと、みなほは鬼のような形相で睨み付ける。
「トクの家に上がれますか、付き合ってもいないのに」
「いやいやいやいや……その理屈はおかしい」
自分から家に押しかけておいて、近所迷惑だから家に入ってもらおうとすると怒る。リテラシーとしては正しいけれど、俺の心境としてはかなり傷付く。
でも今日はいったいどういった用件だろうか。
「でもどうしたの、今日は」
「トクのバイト先がわかんないから見てきたの。私の地図の見方が悪いのかしら、見つけることができなかったんだけど」
「あー……」
あまりにみなほがしつこいから、パラレルラインの住所を教えたけれど、みなほには辿り着くことができなかったらしい。
それはそうか。みなほには未練がなくって、変えたいような負の歴史はない。健全な大学生ってことか。多分多かれ少なかれ生きてりゃ誰でも後悔はあるけれど、この世界から消え失せてでも、平行世界に辿り着いて変えたい過去をやり直して未来を変えたいなんてこと、ないんじゃないかな。
俺がしみじみしている中、普段は気丈なみなほが珍しく顔を曇らせて訴える。
「……本当に、危ないバイトとかしてないのよね?」
「してないしてない。俺、普通の売店の世話しかしてないよ」
「売店は売店でも、危ないもの売ってないでしょうね?」
「それはさすがにドラマの見過ぎだし、大学でも配ってるでしょ。オレオレ詐欺やネズミ講、新興宗教の注意勧告。裏をメモ書きに使ってるから、普通に読んでるよ」
「もう! そうやってすぐ茶化すんだから! もう……」
みなほはそう言って頬を膨らませて怒った。
こうしていると、大学生というよりも童女だ。
みなほは本当に嘘がつけないし、心配性だなあと思いつつも、みなほがなんだか泣きそうな顔をしているのを見ると、胸が痛む。
こいつは本気で心配しているだけで、その優しさが俺を心苦しくさせるってことわかってないもんなあ。こういうのって、すぐわかるもんでもないもんなあ。
「……たまには頼ってよ、トク」
「うん、ありがとうな。みなほ。たまにはちゃんと頼るから、心配するなって。それで、用件って結局なんだったの?」
「ん……お母さんから。トクが野菜足りないんじゃないかって、心配してたくさんつくったの」
そう言って鞄から取り出したのは、いつにも増して大きいタッパに、たっぷりと入った野菜のキンピラだった。これだったら弁当にも持って行けるし、朝から授業のときにも食堂代を節約できそうだ。
「ありがとうな、叔母さんによろしく言っておいて」
「うん……じゃあね。たまにはうちに顔見せなさいよ」
「はいはい。みなほも早く学校行けよ」
今度こそドアを閉め、窓から学校に向かうみなほを眺めた。一限から授業なんだったら、わざわざうちに来なくってもよかったのになあ。そう思いながら、なんとはなしにタッパを見て、ひと口キンピラを摘まんだ。
「……ん?」
叔母さんのおかずは、日持ちするように気持ち味付けが濃くつくられているのに、これはあっさりしている。はっきり言ってこっちのほうが食べやすいけれど、日持ちはしない。この味は。
「あいつ素直に言えばいいのになあ」
俺はそうごちながら指先をペロリと舐めた。
傷む前に食べちゃわないといけないから、しばらくはキンピラ三昧かなあ。
日頃から言いたいことがツンケンしているだけで悪い奴じゃないみなほは、なぜかまあ、こうやって勘違いされやすい言動をする。
あいつは知っているからなあ。俺の家のこと。
それにしても、パラレルラインの住所に沿って探していたのは知らなかったな。俺が知っている限り、あいつは悲惨な目に遭ったことがないから、探しても辿り着けないんだな。ふうむ。このことは晴さんにも言っておいたほうがいいかなと、少しだけ考えた。
****
その日のバイトは、掃除していたらバイトの時間が終わってしまった。お客さんはなし。前々から駅ナカコンビニで働いていた俺からしてみると、これは駅の運営として大丈夫なのかと思ってしまうが、そもそもパラレルラインに入れる人自体が選ばれし人しかいないから、こんなもんなのかなと考え込んでしまった。
今日は一日体操をしている間に終わってしまった晴さんに、俺は「お疲れ様です」と挨拶しながら、もうしばらくは綺麗なままであろう店を閉めながら挨拶をすると、いつもの調子で晴さんは「お疲れ様です」と挨拶をしてきた。
「今日、うちの従兄弟がパラレルラインを探して辿り着けなかったみたいなんです」
「ふーむ? そうですか。まあフクくんと同年代だったら、そのほうが普通かと思いますが」
「さらりと俺のこと普通じゃないって言わないでくださいよー」
「言ってないですよ、言ってないですそんな失礼なこと」
俺のボケに、晴さんは慌てて手を振って謝る。この人はなんだかんだ言って愉快な人だ。
「でもここって、そんなに未来を変えたい人って来ないんですねえ?」
「まあ、未来を変えたいっていう度合いにも寄りますから。たとえば、全て滅ぼして自分も死ぬっていうような人は、パラレルラインに乗れません。平行世界の人たちが困ってしまうじゃないですか」
「まあ……たしかに。いくら平行世界だからと言っても、滅ぼされたら困っちゃいますね」
「あと、人のことを変えようとする人も乗れません。嫁が気に食わないからパラレルラインに乗って息子の嫁をチェンジするっていうのはなしですよ」
「怖い怖い怖い怖い……そんな嫁姑問題でパラレルラインを探す人っていますかね?」
「さあ? 少なくとも僕の知っている限りでは、その手の人がパラレルラインに辿り着けた例を知りませんね。少なくともそこまで我が強い方でしたら、わざわざ平行世界に行かずとも自力でなんとかしますから」
「ははははは……」
見たことのない例だけれど、想像するだけでかなり怖い。
そう考えると、マンガ家さんの例は盗作されたされないの願いだから行けた訳で、自分が直接関与できる願いじゃない限りは、パラレルラインに到着することはできないんだ。
世の中、少ししたことで簡単に未来を変えたいって思うのに、人に迷惑をかけないって制限をかけたら、案外変えたい未来というのはそこまで多くはないのかもしれない。
でもそこまで考えて「あれ?」と気付いてしまった。
「でもそうなったら、晴さんもそういうのがあるんですよね?」
「はい?」
「いやだって、そういうのがなかったら、そもそもパラレルラインに入れないんですよね? 俺の場合もまあ、あるっちゃあるんでそりゃ入れるだろうなと」
「そうですねえ……」
一瞬、音が消えたように感じた。
風が吹かなくても大気の音があり、売店では常日頃からブオーンと電子音がするもののはずなのに。
やがて、ふっと晴さんが笑った途端に、全ての音が戻った。
「内緒です」
そう茶目っ気たっぷりに人差し指を唇に当てられてしまったら、俺はもうなにも言えなかった。イケメンだけが許されるポーズだと茶化すことだって、今はできないでいる。
「まあ、そりゃそうですよね。なにも言わなくってもバイトってできますから。お疲れ様でしたー!」
「はい、お疲れ様です」
晴さんに見送られ、俺はエプロンを洗濯しようと鞄の中に突っ込んでから、自転車に飛び乗って漕ぎ出していた。
あの人は謎めいているけれど、不思議と居心地がいい。その理由になんとなく気付いている。
あの人は悲しい想いを抱えているからこそ、人に踏み込まないんだ。
多分みなほみたいな人間も必要だ。皆が皆、遠巻きに「可哀想ね」と口先だけの同情を浮かべて笑みを貼り付かせ、わかってます感いっぱいになにも言わせてくれないくらいだったら、土足で自分の中に入って踏み荒らして、さんざん不平不満を言ってくれたほうがいい。
でも、晴さんみたいな人だって必要なんだ。
あの人は心配しているのは、節々でわかるけれど、なにがあったのかまでは踏み込んでこない。ただ黙っている。
あの人が黙っているのは、周りの連中みたいな憶測じゃない。事実に憶測で勝手に物語をでっち上げ、出来上がった物語を寸評して満足しているタイプじゃなくって、本当に悲しいってものを理解しているから黙っているんだ。
同情されても、文句を言われても、それこそパラレルラインに乗って未来を変えたいって思うような衝動を持っていると突きつけられても、それでも今はここにいる。
自転車をシャコシャコと漕いでいたら、どこかでタイヤに穴が空いたのか、だんだんと自転車の走りが悪くなってきた。
「あっ」
俺はブレーキをかけて、自転車のタイヤを握った。空気が抜けて、ぺったんこになってしまった。
「……朝イチで、自転車屋に行かないとな」
ギィコギィコと自転車を押しながら、ふと夜道を見た。
丸い月がそろそろ、空の真ん中にまで押し上げられていた。
その空を見上げながら俺はぼんやりと思う。
多分パラレルラインの切符を使わない理由は、忘れられたくないからかもしれない。
あのマンガ家目指している人や、最初に出会ったお姉さんみたいに、自分が忘れられてもいいから辿り着きたい未来が、俺にはないんだ。
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