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犬と羽付きの馬 中

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 その日の晩、アブニールは守護獣騎士団の寮舎を訪ねた。
 立て続いた激務と精神的苦痛にさぞや疲労困憊だろうフラムを労ってやろうと考えたのだ。一応、その疲労の要因はアブニールにもあるので、罪滅ぼしの気持ちもあった。
 昼間のフラムは銀の甲冑に身を包んでいたが、今はリネンのシャツとスラックス姿でくつろいでいる。大きな事件を二件も片付け、文官への引継ぎも終わったので、フラム率いる守護獣騎士団にようやく休暇が与えられた。

「やれやれ、どいつもこいつも人使いが荒くて困る。もうくたくただ」

 フラムはベッドに腰掛け、首や肩を回している。アブニールはそのすぐ隣に腰を下ろした。

「普段は執務室に缶詰にされてるってぼやいてたんだから、動けてよかったじゃねえか」

 人に出くわすと面倒だと一度鍛錬場の方へ回って窓から入って来たのだが、それを見越したかのように窓の鍵は開いていた。おそらくアブニールが今日、来ることを予想していたのだろう。いきなり窓から入ってきても驚きもしなかったのだから間違いない。

「確かに、引きこもって利き手が痺れるよりはましだけどよ」

 フラムはそれでもどこか不満気に呟いた後、アブニールの足をじっと見下ろした。何か言いたげな顔をしている。

「なあ、膝枕してくれねえか」

 ややして出された要望に、アブニールは即座に頷いた。

「いいぜ」

 聞かれたから答えてやったのに、フラムは眠たそうに閉じかけていた目を見開いた。アブニールが迷うことなく許可したので面食らったのだろう。

「今日はお疲れの騎士団長を癒しに来たんでね。なんでも言う事聞いてやるよ」

 アブニールは妖艶に見えるよう笑ってみせ、自分の腿を軽く叩いた。

「ほら、気が変わらないうちにどうぞ?」

 心にもない脅しで急かしてやると、フラムは肩を竦めて苦笑した後、アブニールの膝を枕にして寝転んだ。ただ枕代わりになるだけではつまらないので髪の毛を梳いてやる。湯浴みをしたのか、髪質が柔らかくふっくらしていた。

「気分はいかがです? 団長殿」

 心地よさそうに目を瞑るフラムに囁き声で問う。

「いいね。あとはそのよそよそしい呼び方を辞めてくれたらいう事なしだな」

「なんだよ。人がせっかく敬意を表してやったってのに」

「俺とお前の間に、んなもん必要ねえだろ。……名前で呼べよ。ニール」

 低めた声で囁かれ、アブニールは鼓動を早めた。

「我儘な奴だな、フラム。これでいいのか?」

「最高だ」

 フラムは満足げに笑い、手を伸ばしてきた。不思議な事だ。ごつごつした男の手に撫でられても、フラムが相手ならば少しも不快じゃない。温かなぬくもりにうっとりしながらアブニールはフラムの手に自分の手を重ねた。

「……俺は家族とかよくわからねえんだが、ヴェレーノ侯爵はあんたの叔父だったわけだよな。平気か?」

 たとえ確執があろうとも血の繋がった身内が逮捕されるのは辛いことなのかもしれない。すでに家族のいないアブニールには元気づける言葉は見つからないが、寄り添ってやることくらいは出来る。

「そうだなあ。まあ、裁くのは容易じゃねえだろうな。きちんと法整備が整っていたとしても、相手が相手だからな。刑を下す貴族たちは気を使うだろ。ま。忖度のない判決が下ることを祈るばかりだな」

 だが、フラムはアブニールの聞きたいこととは全く別の懸念を口にした。頓珍漢な答えに虚を衝かれているとフラムが口の端を吊り上げる。わざと見当違いの事を言ったのだ。

「俺にとってあの人は、顔を合わせりゃ敵を見るように睨まれ、隙を見せれば命を狙ってきた暗殺者だ。親戚の情なんてとっくの昔に捨てたよ。むしろようやくあの人の脅威に怯えなくて済んでほっとしてる」

 せっかく心配してやったのにはぐらかされて腹を立てたが、続いた本音に怒りが治まった。いきなり正直な気持ちを打ち明けるのが難しくて、あえて惚けたふりをしたのだ。同じひねくれもののアブニールにはお見通しだ。

「それよりも」

 フラムはやにわに起き上がると、両手でアブニールの頬を包み込むようにして顔を覗き込んできた。いやに真剣な表情で気迫さえただよわせており、アブニールは何を言われるのかと身構える。

「森の中でした話を覚えてるか? 俺とまた寝てもいいと。俺の都合の良い日で構わねえと言ったよな?」

「ああ。したな」

 アブニールはさらりと答えたが、内心は期待に胸を躍らせていた。この話題が出るのをアブニールは心待ちにしていたのだ。

「ちなみにちょうど準備は整えて来てやったが、どうする?」

 アブニールはしなだれかかるようにフラムに迫り、肩に腕を回して抱き着いた。情欲を滾らせた眼差しを送ると、フラムの目にも欲望の炎がともったように見える。

「いいのか」

 アブニールのあからさまな誘惑にフラムの頬が染まる。両頬に触れた手が汗ばむほどに熱を孕む。まるでご馳走を前にしたかのようにごくりと唾を飲むのを目の当たりにしてアブニールは悦に入った。この男が自分を欲している。
 男女を問わず、欲望を向けられる度に嫌悪感に鳥肌が立っていたのに、フラムが相手ならば高まるのだからおかしい。アブニールの心も存外都合よく出来ているものだ。
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